海と月とトラベラー 3

posted in: 海と月とトラベラー | 0 | 2009/3/26

  


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    3
 

『ルナ…』
あなたが僕を見た。

その目の中にあるのは喜びなのか、とまどいなのか…
『その人は私のお友達よ』 ルナがそう言うと、警備員はさっと姿を消し、
ギャルソンの一人がにこやかに進み出て、僕をカウンターに案内した。

そこは一風変ったつくりのレストランだった。
壁がほとんどなく、腰の位置までのさくにフロアー全体が囲まれている。
まるで樹木の生い茂る森のなかの、中空に浮かぶ広間のようだ。
真っ白なクロスのかかったテーブルはほとんど満席で、席がないというのは本当のようだった。

落ちついた照明、ヤシの葉で和らいだ風が炎を揺らすテーブルのキャンドル、
薄い茶色とクリーム色の大理石が市松模様を描く床、天井に回る優雅な形のファン、
影になった部屋のすみには、さりげなく木彫の像が置かれている…

何本かの柱で支えられた、素朴なかやぶきの大きな小屋のように作られてはいるが、
店内の雰囲気はエキゾチックで、洗練されていた。
客のほとんどは西洋人のカップルで、いかにもロマンチックな異国の夜と料理に、
皆満足の表情を浮かべている。

ルナは柿色の麻のロングドレスをさりげなく着こなし、長い髪をシニョンに結っている。
細い首には、アンティークなのか、複雑な色合いの、
大ぶりのベネチアングラスをつないだネックレスをかけている。

カウンターには男が3人腰掛けていたが、ルナは僕を一番奥にすわらせた。
『よくここがわかったわね』
『ホテルのVIP客用の館の管理人に聞きました』
『そう…』
『なぜ教えてくれなかったんですか?』

『ジャンが初めてだわ』 質問に答えずにルナが言う。
『なにがですか』
『私の名前を信じた男よ』
『僕も信じていなかった。でもあきらめ切れなくて、
どうしてももう一度会いたくて、訊いてみたんです。
なぜ本当のことを言ってくれなかったんです?』
僕はもう一度訊ねた。

『本当のこと? 
私は本当のことしか言わなかったのに、あなたが勝手に一夜限りの名前だと思い込んだ…』
その通りだった。
一言も反論できず、僕は視線を隣に座る男たちに泳がせた。

『みな夫の友人よ』 一番近くにいた中年の男が微笑みを浮かべ、僕を見た。
『アランよ。こちらはジャン』
男はグラスを僕に向かって掲げ、かすかにうなずいて見せた。
僕もうなずき返す。

『ご主人は?』
『イタリアで若い愛人と暮らしてる。この前会ったのは三ヶ月前よ。
その愛人とここに来て、あのホテルに泊まっていったわ』
『あなたは平気なんですか』
『ええ、困ったことに、私たち二人とも全く平気なの。夫の愛人は半年もすればまた変る。
私は変らずにここにいて、変らずに彼の妻なのよ』

『離婚、しないんですか』
『なぜ離婚しなきゃいけないの?望んでもいないのに』
『愛している?』
『ええ、愛しているわ』

『僕にはわからない』
『誰にもわかりっこないわ。もっとも、わかってもらわなくてもいいのよ』
『わかりたいと言ったら…』

一瞬の間をおいてルナが話題を変えた。 『あなた今夜のフライトでしょう?』 
『キャンセルしました』

ギャルソンが僕の前に置かれたグラスにシャンパンを注ぐ。
ルナの前のグラスにも。

『私をみつけてくれたジャンに』
『僕を待っていてくれた… ルナに』

シャンパンを一口飲み、ルナが言う。
『どうして私が待っていたなんて思うの?』
『待っていなかった?』
『いいえ、待っていたわ。でも何故そう思ったの?』
『わかりません。でもあなたは、いつかルナと言う名を信じて、
自分を探し出してくれる人を待っていた… 
違いますか?』

『さあ、どうかしら。でもあなただって信じたわけじゃない。
ほんの偶然に、たまたまわかっただけなのよね』
ルナのシニカルな口調が悔しかった。

何故僕は信じなかったのか。
何故ホテルで訊ねなかったのか。
何故色々なことを、あなたに訊かなかったのか。
そうすればもっと早く僕はあなたを見つけ、あなたは僕を、
ずっと大きな喜びと共に迎えてくれただろうに。

ルナが切なげな瞳で僕を見つめる。
『私を信じて見つけてくれれば、誰でもいいってわけじゃないわ。
それに偶然も、運命に思える…』

その言葉が僕を勇気づけた。
ではあなたは、僕を待っていてくれたのか。
他の誰でもない僕が、あなたを見つけるのを待っていたと、そう言っているのか。
あなたを信じていいのだろうか…

『今夜、いっしょに過ごしてくれますか?』
ルナが静かにうなずいた。

 

『ところでこの店の名前はあなたの名前から?』
『私の名前って?』
『ツキコさんの月のルナから?』
『いいえ、あれからよ』
彼女の視線が、僕の肩の後ろを指し示した。
振り返ると、彼女のドレスの色に似た赤い月、ルナロッサが、ヤシの葉陰にかかっていた。

タクシーは見覚えのある通りの角で僕たちを降ろした。
『あなたの家もこのあたりなの?』 そこは、例の館の近くのサルの檻の前だった。
『ええ。』
『なぜ家の前まで行かずにここで?』
『彼に会うために』
『彼…?』

ルナは檻に近づき、中を覗き込んだ。サルは眠っているのか、片隅にうずくまっている。
『今夜もいるわ』
『いないときも?』
『ごらんなさい、この檻… そこが切れているでしょう?人間が楽に一人通りぬけらる』
さっきは気づかなかったが、言われて見れば確かに檻のかたすみの金網が切れている。

『扉は?』
『昔はあったんだけど、いつのまにか壊れてしまって。それからはそのままなの』
『サルは逃げないんですか?』
『それが不思議なのよ。いつでも逃げられるのに、彼は決してここを動こうとしない』

ルナは館の前で立ち止まった。
鍵を取り出し、一階の扉を開ける。

『驚いたな。ここがあなたの家?』
『いいえ、夫の母の家なの。
彼女はフランス人で、貿易商の祖父と教師の祖母といっしょに、思春期をここで過ごしたの。
後にイタリアに渡り、その息子は自分のアイデンティティーを求めてアジアを放浪し、
母親の第二の故郷のベトナムに落ち着き、そして私と出合い結婚したってわけ。
夫がイタリアに帰って一人になってからは、
表側の二階と三階部分だけをあのホテルに貸しているのよ』

『なぜ、管理人はそのことを僕に教えてくれなかったのかな』
『あたりまえよ。見知らぬ人にそんなこと教えるようじゃ、管理人は勤まらないわ』
しかし彼は、僕がルナと一緒に戻るだろうと、思っていたのではないか。
ホールの片隅には、僕のスーツケースだけがぽつんと置かれていた。

突然ある疑問が浮かんだ。
あなたは時々こんなふうに男を連れ込むのか…
管理人はそれを知っていて… 
名前を信じてくれたのは僕が初めてだと言ったが、信じなかった男なら何人もいたのだ。

別居しているという夫の話を聞いても、少しも気持ちは乱れなかったのに…
突然襲われた激しい感情の渦に、僕はたじろいだ。
それは嫉妬というより、焼付くような渇望だった。
どれだけ僕の前に男がいようとかまわない。
ただそれらの男と僕は違うのだと、言って欲しい…

『ここで夫以外の男と一夜を過ごすのは初めてよ』
揺れる気持ちに気づいたのか、ルナはさっぱりとした口調で言う。
とたんに僕は自分の子供っぽいプライドや執着が恥ずかしくなった。
同時に彼女をおとしめたようで、自分の愚かさを呪った。
しかし、何を言えばいい。

『どうしたの?』
『自分が情けなくて。あなたを傷つけてしまった。どう言ったらいいのか…』
『ばかね、そんなこといいのよ』

やさしく、あなたは僕の手をとる。
玄関ホールを抜け、中庭を囲む回廊を巡り、正面の大きなホールから二階に登る。

案内された一室は客間なのだろう。
ダブルベッドに趣味の良いソファーセットやチェストが置かれ、
中庭の緑が見渡せる小さなテラスがついている。
『素敵な部屋ですね。ホテルみたいだ』
『日本から家族や友人が尋ねてきたときのために用意したんだけれど、
なかなか使う機会がないのよ。
バスルームはその扉の奥。好きに使ってちょうだい』

僕たちは自然に体を寄せ、抱き合い、唇を重ねた。

つい何時間か前まで、もう二度とあなたをこの腕に抱くことは叶わないのかと嘆いていたのに、
今こうして再びあなたと抱き合っている。
そのことを神に感謝しながらも、しかし、僕の胸にはすでに暗い不安も拡がっている。

それは、にわかにあなたが現実の女になったために、
僕たちが現実の男と女になったために、湧き起こってきた不安だった。
僕は再びあなたを失うことなく、
ずっとこうして腕に抱きしめていることが、できるのだろうか。

 

その夜、僕はそのままルナを、自分の部屋でシャワーを浴びるというのすら許さず、
ずっと傍らから離さなかった。
一緒にシャワーを浴び、激しく何度も求め、目覚めたら消えてしまうのではと怖れて、
しっかりと抱きしめたまま眠った。

腕の中に愛する女を抱きながら目覚める朝の、満ち足りた幸福を僕は知った。

その日、ルナは仕事を休んだ。
僕たちは一日中に部屋にいて、空腹を感じれば食事をし、まどろみ、また愛し合った。

何日でも居たいだけここにいてかまわないと、ルナは言う。
もう一日、もう一日だけ…
僕は許されるぎりぎりまで帰国を延ばした。
ルナが仕事に出るときはいっしょに出かけて行き、町をぶらつき、
夜遅くに彼女を迎えに行き、そして帰りはいつもサルの檻をのぞき、館に帰った。

そんな生活が一週間あまり続いたが、つ
いにどうしても帰国しなければならないときがやってきた。
深夜のフライトを控え、その夜はルナの手作りの料理で夕食を囲んだ。

『ジャン、空港には見送りに行かないわ。いいでしょう』
『ええ、僕もそのほうがいい。すぐに戻りますから』
『だめよ。そんなこと言っちゃ』

この一週間の間に、何度も、僕はこれからの話をしようとしたのだが、
ルナは笑うばかりで、具体的な話は何ひとつできていなかった。

『ご主人と、別れてください』
『何を言い出すの』
『次にいつ来られるかわからないんです。なにか、何でもいい、確かな言葉が欲しい』
『会わなくても、私があなたをずっと想っている事だけは確かよ』

『僕を、ずっと愛していてくれると?』
『ええ、あなたをずっと愛していくわ。
あのホテルでのことも、この家でのことも、けっして忘れない』
『それなら僕だけを愛していると、言ってくれますか?』
『ジャン…』

安っぽいメロドラマのようなセリフだった。
ルナはそれ以上何も言わない。

タクシーが来て、僕たちは一度だけ、強く抱き合った。
『僕が愛していることを、あなただけを愛していることを、忘れないで』
そう言うのが精一杯だった。

彼女から体を離すときに感じた胸の痛みのあまりの強さに、唇を咬む。
口の中に広がる血の味に、僕は誓った。
絶対にあなたを僕だけのものにしてみせると。

 

帰国したあとは頻繁に電話をした。
仕事のことや日常の暮らしのこともメールで書き送った。

けれども、電話をするのも、メールを送るのももっぱら僕のほうで、
ルナは嬉しそうに話しに応じてくれるし、メールにも返事をくれるけれど、
彼女から電話をかけてくることも、メールを送ってくることもない。
僕が忙しくてどうしても時間がないときなど
連絡のとれないまま数週間が過ぎてしまうようなこともあった。

そんな日々が一ヶ月過ぎ、二ヶ月が三ヶ月になり、僕はあせりを募らせていった。
このままでは僕たちの関係は、印象的ではあるがそう変りばえのしない、
バカンスにつきもののアバンチュールで終わってしまう。

ルナ… あなたは、それを望んでいるのか…
 

 

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