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数日間の休暇が取れてホーチミンに戻ったのは、帰国後半年近くたった頃だった。
ルナを驚かせたくて、空港からまっすぐレストランに向かう。
レセプションの女性は僕を見ると、困ったような表情を浮かべた。
『ルナはいないの?』
『それが… 』
『いないならバーで待たせてもらうよ』
すこし言いよどみながらも、その女性が言う。
『実は… シニョール・ロッサが来ているんです』
『シニョール・ロッサ… ルナの夫の?』
『ええ。どうしましょうか。マダムにメモでも?』
このやりとりにふと疑問が湧いた。僕はルナの何なのか…
初めて僕の中に一つの言葉が浮かんだ。
僕はルナの愛人…なのか?
『いや、そんなことしなくていい』
階段を登りはじめた僕を、その女性があわてて追いかけてくる。
『待ってください。わたしがマダムに先に…』
しかし駆け上がる僕に追いつけるはずもない。
入り口のギャルソンの制止もかわし、レストランに足を踏み入れる。
店の一番奥の席に、ルナと、イタリア人らしき年配の男と、もう一人若いブロンドの女が座っていた。
まっすぐテーブルに向かう僕をルナが認め、立ち上がった。
そのまま僕のほうに歩みよってくる。
店の真ん中で彼女を捉え、抱きしめる。
『ジャン…』
『…会いたかった』
ルナも、背中に回した腕に力を込めて僕を抱いてくれた。
唇を重ねたいのを、必死にこらえる。
いやこらえたのは、このままここからルナを連れ出したいという衝動だった。
しかし今は、彼女の夫と、連れの女の視線を痛いほど感じながら、
ルナが僕を抱きしめてくれたことに満足し、その衝動を押さえ込む。
ルナが僕の腕をとり、テーブルに導く。
ロッサ氏が立ち上がった。
僕より幾分背は低いが、銀髪に彫りの深い顔立ちで、茶色の瞳は知的で温かい人柄を感じさせる。
『ルッカ、こちらジャンよ。』
『ジャン、こちらは夫のルッカ、そちらは彼のお友達のルーチェ』
『はじめまして、僕はルナの… ルナの…』
『恋人なの』 ルナが笑って言った。
『ほう、それはそれは。妻が大変お世話になって。
ご存知と思うが、私はイタリア住まいなので何かとかまってやれなくて。さ、お席にどうぞ』
ロッサ氏のその言葉にすこしも厭味が込められていないことに、僕は驚いた。
まるで父親が娘の恋人に言うようなセリフ…
ルーチェと紹介された、胸も背中も大きく開いた黒のミニドレスの女が、
そんな僕たちを興味深げに眺めている。
グラスに注がれたワインで乾杯をする。
『四組のカップルに…』
『どういう意味ですか?』 ロッサ氏の言葉を不思議に思って僕は訊いた。
『深い意味はないよ。
今ここに座っている私たち4人の組み合わせで、4つのカップルができると、ふと思ったものだから』
『あら、ホントだわ。いいじゃない。出会いに、ってことよ。乾杯』
ルーチェが気さくに応じて、結局そのままグラスを合わせ、食事が始まった。
ロッサ氏はルナにレストランの経営状態などを尋ね、ルナは彼の母親の様子やイタリアのことを尋ねた。
ルーチェは明るい娘で、時々気の利いた冗談を飛ばし、会話はなごやかに進んでいった。
食事が終わるころ、ギャルソンになにか耳打ちされると、ロッサ氏がすこし真面目な口調になった。
『お二人には申し訳ないが、ちょっとルナと席をはずしてもいいだろうか。
実はレストランの帳簿を見なければならないんだ。税理士が今しか時間がとれないと言うんでね。
30分もすれば話は済むだろう。それまで食後酒でも楽しんでいてくれないか』
ルーチェがご遠慮なくどうぞ、急がなくていいわ、と応じた。僕にはいやも応もなかった。
『ロッサ氏とはいつから?』 僕は単刀直入に聞いてみた。
『半年くらいかな。長いほうだって。その前の娘は3ヶ月って言ってたわ。
私たち、案外長続きしそうな気がしてるの。あなたはルナといつから?』
答えたくなかったが、自分の発した質問が返ってきたのだ、仕方がない。
『僕たちも半年ほど前に知り合って…』
僕は、奇妙な相似形の立場にいる彼女に、更に踏み込んだ質問をぶつけた。
『ルーチェ、あなたは平気なの?』
『なにが?』
『愛人でいることが』
『全然』
『ロッサ氏と結婚したいとは?』
『とんでもない。愛人が結婚を迫ったら滑稽よ』
『愛してはいないの?』
『う~ん、そうね。愛してると思うわ。でも結婚はまったく別のものよ』
『まったく別のもの?』
『そうそう、面白いこと教えてあげる』 そんな話に興味はないとばかりに、ルーチェが話題を変えた。
『あなたルッカのフルネーム、知ってる?』
『ルッカ・ロッサ、では?』
『ジャンルッカ・ロッサ、よ』
『ジャン… ルッカ… 』
彼女の言葉に、いきなり強烈なライトを浴びせられたように、周囲の色彩が消えた。
『知らなかったみたいね。』
ではあなたは僕を、夫の名で呼んでいたのか。
僕を呼ぶとき、閉じたあなたのまぶたの裏側にいたのは、ぼくではなく、彼なのか。
『大丈夫? そんなにショックを受けるとは思わなかったわ。
あなた、相当ルナにご執心なのね。愛人に徹すれば楽なのに』
『愛人じゃない!』
気がつくと大声を出していた。
隣のテーブルの客やギャルソンが振り向いて僕を見る。
『すまない。つい…』
『いいのよ。私の言い方も悪かったわ。あなたルナのこと、それほど…
そういえばさっきルナも、恋人って言ってたわね。
あなたたち、私とルッカとは違うのかもしれないわ。
私ったらわかったふうなこと言って・・・ごめんなさい』
ルーチェは親しみを込めた眼差しで僕を見つめ、そっと僕の腕に手を置き、ニ三度軽く揺すぶった。
『ジャン…』
『僕の名はジャンじゃない…』
『ええ、そうだったわね、ではなんと呼べば?』
『僕は… 僕は… 』
僕は誰なのか。
あなたにとって僕は誰なのか。
僕がジャンでなくなった途端、僕はあなたのものではなくなるのか…
『ジャン、でもね、ジャンルッカのことをジャンと呼ぶ人は一人もいないのよ。
彼の母親だって、友達だって。ルナだって』
『半年しか付き合っていないのによく知ってるんだね』
僕の皮肉を無視して、ルーチェは続ける。
『だってそう言ってたもの。
最初に私がジャンと呼んだら、ジャンと呼ぶやつは一人もいないって。
ジャンて呼ばれたら自分のこととは思えないって。
でもね、ちょっとひっかってはいるの。なぜ私のこともルーチェと呼ぶのか』
『どういうこと? ルーチェも、あなたの本名じゃないの?』
『本当はルナって呼びたいんじゃないかなって。でもさすがにそれは出来ないから…』
『ルーチェってどういう意味?』
『光、よ』
光… 月の光…
『彼ら、始めはどこにでもいる夫婦だと思ったわ。』 考え込む僕を気にするでもなくルーチェは話し続ける。
『男と女の情熱は冷めてしまったのに、つまらない理由で別れられない。子供とか、体面とか、財産とか。
だから離婚はしないけれど、お互い好きなことをする…。
イタリアにはそんなのがいっぱいいるのよ。』 まるで他人事のような口ぶりだ。
『彼らはそういう夫婦ではないと?』
『ええ、別れない理由がみつからないの。
このレストランのためか、それともただ面倒くさいからか…、でもそんな理由じゃないみたい』
『ルナは以前僕に、彼を愛していると…』
『ルッカもそうだと思うわ。私にはそんなこと言わないけど』
『いずれにしろ不思議な夫婦よ。だからあなたも深入りしないほうがいいと思う。』
深入りするな、だって?
覗くのを怖れていた扉が突然の突風で開け放たれ、部屋の中では見たくない光景が繰り広げられていた。
その前で立ちすくむ僕に、この女は扉の内側に入るなと、忠告している…
『ではあなたは?長続きしそうだというのは何故?』
『言ったでしょう。ちょっと本気で愛し始めてるし。それにね、興味があるの。一人の男として、ルッカの内面に。
何故この男はこうなんだろう、って』
ひとには入るなと言っているくせに、自分は入ろうとしているではないか。
だが、一歩離れたところから物事を眺めているようなその言い方には、自分は溺れないという自信が表れていた。
『あなたは変わっている』
『よく言われるわ。物好きだって。でもあなただってそうでしょう?
あなた、ルナのどこが好きなの?
ほっそりとした腰?折れそうなうなじ?アーモンドの形をした謎めいた目?
あなたほどの男を、ルナの何がこれほど虜にしているの?』
『それは…』 どこが、と問われて答えられるような答えはない。
『恋に落ちた男に、その質問は無意味だ…』
『おやおや。重症ね』
『ああ、そうかもしれない』
『だとしたらあなた、いっそもっとどっぷり浸ったら…』
『どっぷり… 浸る…?』
『そうよ、中途半端に愛するくらいなら、彼女は止めたほうがいい』
『ルッカも?』
『そういうこと』
『あなた、有名な俳優でしょう?』
僕を、知ってるのか?
驚ろかせたのが嬉しいらしく、ルーチェは自慢げに目を輝かせた。
『私、これでも芸能記者なのよ。
今回アジア通のルッカと一緒に、休暇を利用して色々見て歩くつもりで下調べしてきたの』
『でもそのことはルナとは何の関係もない』
『そう言い切れるのかしら。ま、好きにすればいいわ。
お互いに悔いのないようにやりましょう…』
ルナとロッサ氏が戻ってきて、それを機に食後のコーヒーが運ばれ、夕食は終わった。
彼らは市内のホテルに戻るという。
別れ際に、ロッサ氏がふと思いついたように言った。
『明日から海辺のホテルに行くけど、君たちも来ないかい?』
『今回はそうゆっくりもできないので。シニョール・ロッサ、お誘いはありがたいのですが・・・』
『ルッカと呼んでくれよ、ジャン。僕は君ともっと親しくなりたいんだ』
これが、夫が妻の愛人に言うセリフだろうか。
僕はまたしても彼をルナの父親のように感じた。
『ジャン、いらっしゃいよ。そのほうが楽しいわ』 ルーチェがはしゃいで言葉を添えた。
ルナは何も言わない。
『わかりました。でもすこし考えさせてください。明日の朝お返事します』
『ぜひ来てくれたまえ』
タクシーにルナと二人揺られながら、僕は何をどう言えばいいのかわからないでいた。
『ジャン…』 ルナが僕の手を握る。
ジャンと呼ばれると胸が疼いた。
『何故知らせてくれなかったの?』
『あなたを驚かせたかった… こんな最悪のタイミングだとは思わなくて』
『最悪? そんなことないわ。ルッカも喜んでいたわ』
『喜んでいた?妻の愛人が突然現れたのに?』
『ジャン…』
自分の口から出た“愛人”という言葉が、ブーメランのように戻ってくる。
そうだ。どう否定しようと、どんな言葉で言い換えようと、僕はルナの“愛人”なのだ。
『違うわ。あなたは私の恋人』
『ルナ、あなたは結婚しているんだ。夫ある身の女が持つのは愛人だよ』
『ジャン、落ち着いて。あとでゆっくり話しましょう』
だがその夜、結局僕たちは話などしなかった。
館に戻り、部屋に入るなり狂おしく求めあい、
言葉などいらない世界に溺れてしまったから。
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