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朝食ルームに行ってみたが、女はいなかった。
日中はずっとその姿を探して歩いた。
プールに入る気もせず、昼食もそこそこに、ホテルの中を、庭を、浜辺を、僕はさまよい歩いた。
しかしどこにも女の姿はない。
夜になり、シャンパンを用意して月の出を待つ。
すこし早めに用意してしまい、一度ワインクーラーの氷を取り替えた。
テラスの手すりに凭れて、じっと海を見つめる。
突然、遠くばかりを見ていた僕の足元の、テラスのすぐ下の水面に、女の姿が流れるように現れた。
背後の海からコテージの下をくぐりり抜けてきたのだろう。
水面に浮かんだ女の顔が、どう、驚いたでしょう?と笑っている。
僕はテラスの階段を下り、手を差し伸べ、女を抱きあげた。
そのままバスルームへと運ぶ。
バスタブにおろすとすぐにあなたは水着を脱ぐ。
僕がいるのもおかまいなしに、そのままシャワーを浴び始める。
なぜあなたは僕の前で少しも恥らうことがないのだろう。
あなたはそのまま蛇口をひねり、湯を満たし始める。
『シャンパンをいただける?』
僕はテラスからワインクーラーごとシャンパンを運んだ。
バスタブに、次第に湯がたまっていく。
注いだシャンパンのグラスを渡そうとすると、
あなたも来てと、僕をうながす。
僕はすばやく服を脱ぎ、満たしたグラスをあなたにも渡し、バスタブに身を沈める。
『また来てくれたあなたに、乾杯』
『私を一日中探してくれたあなたに、乾杯』
『知っていたの?』
『ええ、何度も庭の私のコテージの前を通るあなたを、簾越しに見たわ』
『なぜ声をかけてくれなかったんですか。酷いひとだ』
『コテージのテラスで、アロママッサージを受けていたの。その後は眠ってしまって。
でも、うとうととまどろみながら、あなたの足音が何度も何度も、
私の頭のすぐそばを過ぎて行ったのが分かったわ』
『だからまた来てくれた?』
『ええ…』
『おかわりをちょうだい』 そう言われて、立ち上がるのがすこしためらわれた。
あなたはじっと僕の目を覗き込む。
その、ためらいを許さない眼差しの強さに、僕は潔く立ち上がった。
すでにあなたを求めて姿を変えている僕自身をさらしながら。
また湯に体を沈め乾杯する。
『私を欲しがってくれるあなたに』
『指一本触れずに、僕をこんなふうにしてしまうあなたに』
あなたがジャグジーのスイッチを入れた。
バスタブの四方と底から、あわ立つ強い水のうねりが巻き起こった。
つまみを調整して、水の勢いを弱める。
水は細かな泡を絶え間なく作り出し、渦巻きながら皮膚を打ち、肉を震わせる。
あなたが僕のグラスを取り上げ、立ち上がった。
僕の目の前を、なめらかな肌がほのかにピンクに染まった腿と、ヴィーナスの丘が通り過ぎていく。
思わずその丘に唇を寄せたくなる。
グラスを洗面台に置き、戻ってきたあなたは、
まるで僕の心を読んだように、湯船につかる僕の前に立ちはだかり、脚を広げ、静かに腰を落としてくる。
僕は望みの通りにあなたに舌を差し入れる。
あなたは片足をバスタブの縁にかけ、僕の前に体を開く。
ひとしきり愛撫を加えた後、
僕はジャグジーの泡がやさしく渦巻くところに、あなたの腰を沈めた。
泡と共謀して、静かに指をあなたの中に埋めていく。
あなたは目を閉じ、うっとりとした表情を浮かべ、指の動きに合わせて腰を上下に動かし始めた。
泡に洗われている乳首を口に含みたい衝動に、耐える。
僕の指で絶頂を迎えるあなたが見たい…
喘ぎ声が高まり、腰の動きは早く、リズミカルになった。
僕の肩をつかむ指に力がこめられた。
あなたの中で踊る指が、きりきりと締め付けられている。
大きくなった秘密の膨らみを探り当て、攻め立てる。
するどく、甘く溶け出た喘ぎが長く尾を引くように僕の耳を覆い、満たす。
指にあなたの痙攣がからみつく。
あなたの、陰りを帯びた恍惚の表情を、僕は味わい尽くす。
寄せられた眉根から官能の余韻が、半開きの唇まで降りていく。
たまらなくなって、その唇を塞ぐ。
あなたの舌の動きが僕のからだの末端まで、全ての感覚を呼び覚まし、欲望を募らせていく。
あなたの手が、漲った僕自身に触れた。
蠢く水の刺激と指の動きに、一気に、僕は昇り詰めて行く。
あなたは唇を離し、僕を見つめる。
バスタブに横たわった僕の胸に体を預け、あなたは容赦なく指を動かし、熱い眼差しで僕を見つめる。
ぼくがあなた味わったように、あなたも僕を味わおうとしている。
『私を見て。目を閉じないで』
盛り上がり、はじけようとする波が、僕を襲う。
あなたに見つめられ、なすがままに弄ばれ、
喜びに悶える僕の思いがあなたに流れ込んでいくのを、僕は見る。
そのまま、散り散りに崩壊する波のしぶきに身を委ねる。
漏れ出る喘ぎ声が、あなたに届く。
あなたも、昂る思いに我を忘れ、僕の唇を塞ぐ。
そのまま、僕の首にかじりついてくる。
歓喜に震える声が、僕の耳に囁く。 『好きよ、ジャン。大好きだわ…』
『ジャン…?』
『ええ、あなたは、ジャン。私のジャンよ』
『では、あなたは?』
『ルナ』
『ルナ… 僕のルナ…?』
『ええ、そうよ。 ジャン、私のこと好き?』
『もちろんです。恋焦がれて苦しいくらいに…』
重なり合う唇が、やがてくまなくお互いの体を這う。
僕は思いのたけ愛したくて、バスタブからあなたを抱き上げた。
大きなタオルでくるみ、ベッドに運ぼうとすると、あなたがテラスを指差す。
『あそこで』
『でも…』
『ベッドはあとで… 最初は月の光の下で、私を愛して…』
僕はテラスの、薄いクッションが敷かれた寝椅子にそっとあなたをおろす。
月の光を浴びたあなたの肌に、体の隅々にまで指を這わせ、唇を寄せる。
あなたは片膝を曲げ、足を開き、僕に言う。
『来て、ジャン… 』
僕は何度もあなたを貫いて、そのたびにあなたはのけぞり、絶え絶えに声をあげ、
足を僕の腰にからみつかせ、
そして二人で絶頂を迎え…
波のざわめきにあなたの吐
息も、僕の喘ぎも、なにもかもが溶けていき、
僕たちは長く抱き合ったまま月の光を浴びていた…
翌日は、もうどこにもあなたの姿はなかった。
夜になっても現れず、
一晩中海を見つめていても、あなたを見つけることはできなかった。
朝、レセプションで僕は尋ねた。
一人で滞在している日本人の女性はいないかと。
もしかして昨日チェックアウトしているかもしれないと。
名前はと訊かれて、初めて僕はあなたの本名を知らないことに気づいた。
ルナ…と胸のうちだけでつぶやく。
すると突然僕を、空っぽな洞窟に吹きこむ風のように、悲しみが襲った。
*** *** ***
ビールをもう一杯頼む。
甘ったるいタレをつけた春巻きを口にほおりこみ、青いパパイアを千切りにしたサラダを一口つまむと、
もう充分だという気がした。
ルナ…、あなたを偲ぶものは何ひとつここにはない。
月の光もなく、ルナという美しい響きの言葉を思わせるものも、何もない。
来た道を空しく引き返し、サルの檻も覗かずに、ゲートの守衛も無視して館に戻る。
しかし僕はまだ、どこかにあきらめきれない思いをひきずっていた。
その思いが、そろそろ空港へ行く支度をしてくれとうながす館の男に、最後の質問をさせたのだ。
あのホテルに、よく一人で滞在している日本人女性を知りませんかと。
『日本人女性… 名前は?』
しばらく迷ったが、思い切ってその名を告げる。
『ニックネームかもしれないけれど、ルナ、とか』
『ああ、マダム・ロッサですね』 あっさりと男が言った。
『マダム・ロッサ?』
『ええ、確か名前はツキコさんです。でも誰もがルナと呼んでいます』
てっきりでたらめだと思っていたあなたの名前が、本当のものだと知って僕は驚いた。
ではあなたは、夢でも幻でもなかったのだ。
『どういう人なんですか?』 勢い込んで僕は尋ねた。
なんとしてももう一度会いたかった。
『ホーチミンでルナ・ロッサというフランチレストランを経営しています。
イタリア人のご主人はしばらく前に帰ってしまって、今はマダム・ロッサが一人でやってるんです』
あなたは、日本国籍ではなかったのか。
『今もレストランにいるでしょうか?』
『ええ、いつも遅い時間までいますよ』
タクシーを呼んでもらい行ってみることにする。
男に、往復で最低でも1時間はかかる、へたをすると今夜のフライトに間に合わなくなると言われ、
迷うことなく航空券のキャンセルを頼んだ。
荷物は置いていけ、どうせ今からでは他にホテルはさがせないだろうから、ここに泊まれとも言われ、
考えた末、ありがたく好意に甘えることにする。
ちょうど混雑する時間帯だったのか、タクシーはなかなか進まない。
『シェフの腕もいいし、フランス人や日本人に人気の店ですよ』 館の男の言葉がよみがえる。
40分ほど走って、にぎわうホーチミンの繁華街からすこし奥まった静かな通りに、タクシーは停まった。
テラコッタ色の壁の真ん中に鉄の扉が大きく開いており、
その入り口に、鋳鉄製で“LUNA ROSSA”と透かし彫りに名を刻んだ、
目立たない看板が掲げられている。
入ってみると前庭はかなり広く、大きなヤシやこんもりと葉を茂らせた熱帯の植物が植えられ、
すぐ隣の通りの喧騒が嘘のように静まり返っている。
ドアを入るとレセプションがあり、奥は個室や厨房のようだ。
螺旋を描く階段がレセプションのすぐ後ろにあり、二階がレストランのメインダイニングだとわかる。
『席がありますか…』
『ご予約は?』
『していません』
『あいにく今夜は満席で、もっと遅い時間なら…』
『マダム・ロッサは?』
『どちらさまですか?』 レセプションの女がいぶかしげに僕を見た。
女の問いを無視して階段を登る。
背後で、誰かを呼ぶ高い叫び声が上がったが、かまわずに僕はそのまま階段を駆け上がった。
ダイニングの入り口にはギャルソンが数人立ちはだかっている。
後ろからは警備員のような男が駆けつけ、僕は数人の男に挟まれた恰好になった。
その時、店の奥のバーカウンターの中に、女の影が動いた。
ルナ、あなただった。
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