後藤さんと湯川さんの死が、どんどん遠ざかっている。
安倍首相は弔意の言葉すら口にしていない。
自己責任論と「自業自得」の声の高まりを追い風に、
国民に対する国の責任を顧みることすらしない国の長。
哀しいことに、私たちはそういう長に引かれていく国民である。
そういう長の責を問うことをしない国民が隣人であり友人である国民である。
後藤さんも無念だろう。
彼は中東やイスラム世界の戦地で、いかに民間人が戦争の犠牲になるかを報じつづけた。
自らの犠牲には、覚悟があった。
シリアの人たちをうらまない、というメッセージを残していた。
それなのにこの国の長は、彼の死を、中東に自衛隊を送る推進力に利用しようとしている。
13日、公明党が自衛隊派遣の恒久法化など、安保法制の「改正」に同意。
今、私たちは、この国が大きく変わろうとしている節目にいる。
70年間続いた「パクスジャポニカ」が、失われようとしている。
世論調査をすれば半数以上が反対することが、
こうして決まっていく国は、もう(とっくに)民主国家ではない。
「イスラム国」など遠い世界の関係ない話しだと、思ってはいないだろうか。
人質になるようなところへ出かけていかなければいいのだと、思っていないだろうか。
そうすれば私たちは戦争とも「イスラム国」の暴力とも無関係なのだと、思っていないだろうか。
ISによる後藤さんと湯川さんの殺害に、私たちの心は痛んだ。おそらく、アメリカ人やイギリス人の「処刑」にはこれほど痛まなかったはずだ。異教徒やスパイとして「処刑」されたイラクやシリアの人たち、アサド政権のたる爆弾で死んだ人たちの死にはさらに。命の値段に軽重があるように、暴力に対する痛覚にも軽重がある。戦争が痛覚を感じない相手に向けて動き出すものだとすれば、暴力の最初の萌芽は、いつも私たちの心のなかにある。
・「イスラム国」とオウムとポルポトと — 暴力はどこから来てどこへ行くのか | PROVAI.ciao
モロッコの旅の二週間が、ほぼ人質事件の発覚から「処刑」までに重なっていたこと、
後藤さんはツイッターのリストでフォローしていた人だったこともあって、
帰国後もずっとISのこと、そしてISと日本のことを考えていた。
そのことを何本かの記事に書いた。
上記記事もその中の一本である。
日本の大手メディアは、報道や表現においてすでに自粛している。
骨抜きにされた報道と表現の自由の下、
私たちの知る権利がないがしろにされていることに、更に強い危機感を感じる。
注目の人直撃インタビュー(日刊ゲンダイ) NYタイムズ東京支局長 マーティン・ファクラー 「日本の大新聞は権力者の側に立って国民を見下ろしている」 国の根幹が変わるのに新聞が反論を載せない異常 こんな民主主義国家見たことがない pic.twitter.com/Bt3qBPhSBx
— KK (@Trapelus) 2015, 3月 12
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