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ここはホーチミンのどのあたりなのか。
タクシーは、二人乗りや三人乗の夥しいバイクの流れを縫って10分ほど走ると、
瀟洒な洋館の前で僕を降ろした。
ふと、ベトナムを舞台にしたマルグリット・デュラスの物語を思い出す。
『ラ・マン-愛人-』 というタイトルの、熱帯アジアに紛れ込んだ異国の男と女の切ない愛の物語だ。
頭に浮かぶのは、雄大なメコンの流れを渡る船の甲板で、
白いワンピースに黒のベルトを締め、男物の帽子をかぶった少女が中国人の男と出会うシーン、
そして彼らが濃密な時を過ごした中国人街の質素な隠れ家…
二階の落ち着いたリビングルームに通される。
似たような部屋がもうひとつあるらしい。さらにバスルームつきの寝室が4つ。
この館は、ホーチミンから国内線で1時間ほどの海岸にあるリゾートホテルのVIP客が、
深夜のフライト前に一休みするための待合室として使われていた。
管理人がにこやかな笑顔を浮かべ早口でしゃべっているのを、ぼんやりと聞き流す。
部屋の片隅の冷蔵庫の中の飲み物と、テーブルに用意されたスナックはフリーです、
空いている寝室は自由に使ってください…
あい前後して何人かの客が到着した。
ホテルのプールサイドで顔見知りになっていたオーストラリア人の中年夫婦は、
簡単な挨拶の言葉をつぶやくと、さっさと寝室に消えた。
日本人の若い女性三人のグループは、メインの応接間のソファーを占領し、
テレビをつけたり、冷蔵庫の扉を開けたりしている。
冷蔵庫の中に、オレンジジュース、コーラ、ミネラルウォーターといった世界標準の飲み物が見えた。
だが僕が飲みたいのは、もうひとつの世界標準、乾いた喉を潤す冷えたビールだ。
何か用事があったら声をかけてくれと言い置いて、すでに部屋を出ていた管理人をおいかて尋ねる。
『近くに食事ができて、酒も飲めるところがありますか?』
『お望みならケータリングで色々注文できますよ。
ベトナム料理以外にも中華料理や和食、本格的なフランス料理なんかもあります』
『いや、ちょっと歩きたいので…』
それならと、管理人は親切にレストランや居酒屋の場所を教えてくれた。
出かける前に、オーストラリア人が消えた寝室以外の、全ての部屋を覗いてみる。
あなたはいない。
あたりは一目でわかる高級住宅街だ。
タクシーで幹線路からこの区画に入るには、守衛のいるゲートをくぐらなければならなかった。
しかし今、静まりかえった小道から賑やかな大通りへとゲートを通り抜ける僕を、守衛は一顧だにしない。
しばらく歩くと、道が交差する右手が金網で囲われた檻になっていた。
檻の中でもぞもぞと何かが動く。
覗いてみると、それは地面に突き刺さった丈の高い枯れた木の枝にしがみつく、一匹の猿だった。
思いがけないところで、思いがけないものに出くわしたのに、なぜか不思議な感じが少しもしない。
脈絡なく突然切り替わった夢の中の映像のように、猿を眺める。
大通りは暗い街灯に照らされていた。
歩道は車道と渾然一体となり、両者の境は限りなくあいまいだ。
お世辞にも歩きやすいとは言えない、はずれた舗石なのか、崩れた塀のかけらなのか、
それとも砕けたアスファルトが弾き飛ばされたものなのか、
ごつごつした石ころだらけの歩道を手ごろなレストランを探して歩く。
あまり小さいと気詰まりだろう。
奥まったところは危険な匂いがする。
結局、煌びやかなネオンで店の名を掲げた一軒に入ることにする。
その店を選んだのは、“ムーンライト”といういかにもありふれてはいるが、
僕にはある意味を持つ名前だったからだ。
通り沿いの狭い庭には熱帯の植物が数本茂り、外階段を登ったところが入り口になっている。
客もまばらな店内は、表のはでなネオンとは裏腹に寂れた色に染まっていた。
最初に目に飛び込んできたのは、テーブルにかけられた、安っぽい赤いギンガムチェックのビニールの“クロス”だ。
そのテーブルを挟んで置かれているのは、これも煤けた赤色の、ビニールレザーの二人掛けのソファー。
白熱灯の光に照らされた油じみたその色は、旅の終わりを飾るにはあまりにも哀しい色に見える。
だが喉の渇きは頂点に達していた。ソファーに腰をおろす前にビールを注文する。
目を閉じて冷えたビールを一気に飲み干すと、ゆっくりと目を開く。
向かい合ったソファーには誰もいない。
店内をぐるりと見回してみる。
二日前の夜は確かに僕の腕の中にいたあなたが、いない…
あれは熱帯の寝苦しい夜を襲う、途切れがちに続くひと連なりの夢だったのか、
それとも僕の疲れた頭が、月に惑わされて描いた幻だったのだろうか…
ベッドで本を読んでいた僕は、
夜だというのに窓の外が奇妙に明るいことに気づいた。
テラスに出てみると、月が空の低い位置に昇り、
その光に照らされて、海は濃い藍色に銀のウロコをまとった巨大な一匹の魚のように見えた。
そうだ、シャンパンを飲もう。巨大な魚に乾杯するんだ。
月に煽られたのか、気持ちが浮き立った。
水上コテージの並びの中にあるサービスコーナーには、氷が用意されているはずだ。
ワインクーラーを手に部屋を出る。
僕のコテージは海に突き出た一番先端だったので、
そこまでは桟橋のように水の上に浮かんだ通路を、半分ほど砂浜に向かって戻らなければならない。
コーナーはちょっとした東屋のような造りで、
その脇にはテラス状のスペースが海に向かって拡がり、ベンチが置かれている。
海の上には、光が作る銀色の道が月へと続いていた。
そのとき、ばしゃっと、遠くで水のはねる音が聞こえた。
本当に魚でもいるのかと目を凝らしてみる。
すると月の光の中に、泳いでいるのか、浮かんでいるのか、人の姿らしきものが見えた。
最初は物好きなやつがいるとしか思わなかったが、それが女の姿らしいとわかると、にわかに興味が湧いた。
氷のことなどすっかり忘れてその姿を目で追う。
女のからだが月の光に照らされ銀色に輝いた。
裸なのか…
時折水に浮かぶ姿に、光に照らされる水の他にどんな色も見えない。
やがて女は岸に近づき、立ち上がった。濡れた髪が背中にはりついている。
身にまとう水着は海の色だ。
東屋の影のなかに立ち、僕は女に見入った。
女は海に向かって開けている庭に向かい、砂浜のはずれに設けられたシャワーの下に立つ。
水着を脱ぎ、降り注ぐ水の下に入る。
その裸身を、相変わらず月が照らしている。
女がくるりと海に、僕の方に向き直った…
昨日ホテルのロビーで顔をあわせた、あの女だった。
僕は疲れ果ててホテルにたどり着いた。写真集の撮影が終わったばかりだったのだ。
ハードな仕事の後、誰にも邪魔されずに、体も気持ちもすこし労わってやる必要があった。
そんな僕に、まだそれほど観光客に知られていないそのリゾートホテルは最適の場所だった。
幸いホーチミンからのフライトでも誰も僕に気づく者はおらず、ホテルのロビーにもそれほどひと気はない。
欧米人の家族連れと、中国人らしい中年の女性のグループ。そして日本人らしい女性が一人。
彼らはロビーで飲み物をふるまわれていたが、グラスの中の氷はすでに溶けている。
チェックインにしばらく待たされているのだろう。
中国人女性の一人が僕をちらちらと盗み見ている。
仲間内でひそひそ囁いていたが、ついにぞろぞろと僕の傍らにやってきた。
香港から来たといい、サインを求められる。
僕はにこやかに応じたが、プライベートの休暇なのだと、やんわりと自粛を求めた。
彼女たちはわかってくれたようだが、いっしょに写真をとりたがったので仕方なく応じた。
そんな僕たちを、その女は迷惑そうに眺めていた。
ホテルスタッフがやってきて、まっ先に僕をチェックインカウンターに案内すると、
女は露骨に不快だという表情を浮かべた。
そのあとホテルのどこで会っても、女は僕に関心を払わない。
むしろことあるごとに僕を避けているようにすら感じられた。
プールサイドで読書をしていると思ったら、泳いでいるうちにいつのまにか姿を消している。
庭のバーで飲み物を飲んでいたのに、僕が入っていくと同時にそそくさと立ち上がって出て行ってしまう。
朝食の席は、一番遠いところを選んで座る。
気にし過ぎだとは思うものの、そんなふうに避けれられているのがどうにも気になって仕方がなかった…
翌朝の朝食ルームにその女はいた。
長い髪をひとつに束ね、折りたたんだ英字新聞を読んでいる。
テーブルには汚れた皿と、コーヒーが半分ほど残ったカップが置かれていた。
『ご一緒してもかまいませんか?』 返事をまたずに僕は座った。
『どうぞ、もう終わったところですから…』
立ち上がろうとする女を制して急いで言葉をつなぐ。
『コーヒーがまだ残っていますよ。僕がじゃまならそうおっしゃってください』
女が驚いたような目で僕を見た。その眼差しが一瞬だけ、面白がるように揺れた。
『あら、じゃまだなんて。でも私、あちらの女性たちに殺されたくないんです。
あなたファンの多い有名な方みたいだから…』
『だから僕を避けているんですか?』
『やっぱり。』 女は質問に答えずにがっかりしたように目を伏せた。
『あなたやっぱり、女なら誰もが自分に関心をもつんだと、思ってるのね』
簡単な自己紹介をして、少しでもうちとけたいと目論んでいたのに、
会話はいきなり妙な方向に進み始めた。
『いいえ。それほど自惚れてはいませんよ。
ただいつも欲している無関心も、わざとらしいと気になるんです』
『あら、私、あなたの求めているものを差し上げていると思っていたのに』
『ではやはりわざと、だったんですね』
『孤独はお嫌い?』 唐突に、女が尋ねた。
『いえ、僕は孤独を求めてここに来たんです』
『私もなの。だからあなたの孤独のおじゃまをしたくなくて』 予想外の答えだった。
彼女の無関心な素振りは、特別扱いされる僕が目障りなためだと思っていたのだ。
『あなたは孤独がお好きなんですか?』
『別に好きでも嫌いでもないわ。人は誰でも孤独だもの。でもここの孤独は特別なのよ』
『特別?』 いぶかしげな声に女の表情が優しくなった。
『ええ、特別。ここでは孤独がとてもありがたい…』
ありがたい… その言葉を、口の中でくりかえす。
『だって海や空や月が、私一人のものになってくれるから…』
月の光を浴び、夜の海と戯れていた女の姿が浮かんだ。
夕べあなたは海と月を独り占めしていましたねと、言いたかった。
だがその言葉をなんとか押さえ込む。
独り占めではなかったのだと知ったら、女はきっとがっかりするだろう。
女のがっかりした顔を、もう見たくはなかった。
『そういえば昨日は月がきれいだった。満月でしたね』
せめて同じ月を見たのだと伝えたくて、そう言ってみる。
『いいえ、満月は今夜よ』
女は残ったコーヒーを飲み干すと立ち上がり、
せっかくの孤独をおじゃましないわと僕の耳元でささやくと、去って行った。
そのときから僕は、絶えず女の姿を目で探すようになった。
プールで泳いでいても、ビーチに面したレストランでサンドイッチをつまんでいるときも、
視線が女を求めてさまよって行く。
しかしその日は夜まで、どこにも女の姿はなかった。
部屋で月が登るのを待つ。今宵、月の光はわずかに金色を帯びている。
昨夜とほぼ同じ時刻に、寝室の窓が明るくなった。
テラスに出て海に目を凝らす。
月の光に浮かぶ女の肌を捜す。
姿は見えない。しかしなぜか僕は確信していた。
女は、海にいる…
テラスから海に飛び込んだ。
女は孤独を邪魔されたと怒るだろうか。
だが一日中追いかけて叶わなかった昂ぶる思いを、抑えることができない…
ゆっくりと泳ぎながら注意していると、やがて遠くに人の影らしきものが見えた。
近づこうとすると、影は逃げる。しばらくそれを繰り返す。
無理に距離を縮めるのもためらわれ、やがてあきらめて浜辺に向かう。
やはり無理なのか…
立ち上がると、突然後ろから女が現れた。
だまって僕を追い抜き、歩いていく。
まるで自分より他には誰もいないかのように。
シャワーの下で水着を脱ぎ去り、こちらを振り向く。
あわてて、僕は顔をそむけた。
そのとき、一瞬とらえた女の目に、今度ははっきりと面白がるような光が宿った。
『シャワー、どうぞ』
女の声には怒りも拒絶もない。振り向くとすでにぶどう酒色のワンピースを身につけている。
『よかった…』
『なにが?』
『僕が見えていたとわかって。一瞬、自分が透明人間になってしまったのかと…』
『あなたも一人だけで海と月に抱かれたかったのなら、お互い知らん振りしたほうがいいかと思って』
『僕はあなたの邪魔をしたのかな?』
『ええ、そうよ。せっかくの満月だったのに』
『それは悪いことを…』
『いいのよ。海も月も私だけのものじゃないもの』
その言葉に勇気付けられ、女を誘う。
『お詫びに、なにか飲み物でも?』
『もうバーは閉まってるわ』
『僕の部屋にはいろいろありますよ』
女が、また面白そうな目で僕を見た。
『ご心配なく、テラスで一杯ご馳走したら、お部屋までお送りします』
『最初からそう言われてしまうのも興ざめね』 笑いながら女が言う。
その笑顔が月の光のように、僕の心の海を照らしだした。
コテージは入るとすぐライティングデスクとソファーのあるリビングスペースで、
奥にはキングサイズのベッドが置かれている。
ベッドの右がバスルーム。
左の壁の半分は大きな窓で、そこには一枚の絵のように月に照らされた海が見えている。
月は壁に隠れて見えない。
窓の手前にはテラスに出るドア。
女は部屋の調度には目もくれず、窓だけをしばらく眺めたあと、テラスに出た。
女の口からため息が漏れる。
その後ろ姿に僕はしばらく見とれていた。
月の光に縁取られたほっそりとした黒いシルエットは、一人がふさわしいように思えた。
隣に誰かがいると完璧さが損なわれる… そう思うと動くことができない。
『飲み物はいただけないの?』 女の言葉に我にかえる。
『ああ、何がいいですか?』
『そこに用意してあるのでいいわ。海と月に乾杯しましょう…』
『よかった、夕べ飲みそびれたので、今夜こそと思って…』
ワインクーラーの中のシャンパンが、いかにも準備万端のように見えるのが照れくさくて、
言い訳の言葉をつぶやく。女はなにも言わない。
月の光のような液体をグラスに注ぐ。
『夜の海を抱く月の光に…』 女がグラスを掲げた。
『海と月の光に抱かれるあなたに…』 僕も応じた。
はじける海の泡と共に澄んだ光が喉を滑り落ちていく。
女が飲み干したグラスをもう一度満たす。
すると女はそのグラスを傾け、金色の液体を静かに海に注いだ。
光のしずくが闇の中を海にむかってこぼれ落ちていく。
女は僕の手からグラスを取り上げ、二つともテーブルに置いた。
ついで僕の手を取り、一番月の光がよく当たるテラスの端へと僕を導く。
『こっちに来て。月の光をもっと浴びられるように』
僕たちは体をぴったりと寄せていた。
腕を、女の腰に回す。女が僕を見た。
その目の中の煌く月が僕を誘う。
さっきの自分の言葉を思い出す。
女が興ざめだと言ったことも。
女の腕が僕の首にからみつく。
その唇が僕の唇に重なる。
シャンパンの乾いた果実の香りを、目を閉じて味わう…
抱き合う僕たちの片側がくっきりと光に照らされ、その反対側が暗い影に沈んでいるのを、僕は見た。
月の光にくまどられ、ひとつになったその影が銀色のウロコの巨大な魚の上に乗り、
光に満たされた大海原をたゆたっているのを、僕は見た。
朝、目覚めると女はいなかった。
女の名前すら尋ねなかったことに、そのとき僕は気づいた。
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