ラ・マスケラ -仮面- <第二章> iv

posted in: ラ・マスケラ -仮面- | 0 | 2009/3/24

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<第二章> ”カサノヴァの牢獄 

 

      iv

「ナミさんが昔書いた物語を知っていますか?」

ジンは二本目のバローロをフランコのグラスに注ぎながら尋ねた。
フランコに対して次第にうちとけた気持ちになっていた。
今は手の内を見せてはくれないが、いつか時が来たら、
あるいはこちらの準備が整ったら、彼は全てを語ってくれるのではないか。
踏み込んでいけば応えてくれる男だと、思えたのだ。

「ああ、聞いている。
映画化したいというのは、その物語、
つまりディーとミーナのロマンスだと?」
「そうです。それをもとに少し膨らませてと、考えています」

「それはディーが持っているはずではなかったのかな」
フランコはミーナの過去を、しっかりと把握しているようだ。

「ええ、彼が僕のところに持ち込んできたんです。
原本も、今は僕があずかっています」
「それを見せてもらいたいと言ったら?」

「いいですよ。ただし、ナミさんがシナリオに参加してくれるならね」
「断ったら?」
他人事のような言い方だった。

ジンも冷めた声で答える。
「僕が一人でシナリオをまとめ、映画化します」
「映画化を阻止すると言ったら?」

「問題にならないでしょう。原作はディーのものです。
ナミさんがそう書いている。
それに映画化にあたっては、かなり脚色が可能だ。
設定を変えてもいいし、逆に少し強調してもいい。
たとえばダンドロ氏の事故の話とか……」

フランコが、ぐびりと、音をたててワインを飲み下した。
空になったグラスを、ゆっくりとテーブルに戻す。

ジンは水の中に差し込んだ杭が、
運河の底の泥をつかんだ手ごたえを感じた。
もう一度、更に深くまでしっかりと杭を打ち込む。

「もし、実在の人物に都合が悪い事があったら、
もちろんそれは描き込まないようにしなければならない。
だがそのためには事情を知っている者の参加が、必要です」

フランコが、イスの背もたれに体を預け、目を閉じた。
じっと考え込んでいる。
やがてうめくように、 「ナミがなんと言うかはわからないが……」 
と言った。

これでおそらく、ナミは申し出を受けてくれるはずだ。
ディーにすぐにでも知らせなければ。
いや、それは彼女からの正式な答えを待ってからのほうがいいだろう。
ディーにぬか喜びさせるわけにはいかない。

バーを出てフランコと別れて歩きながら、だがジンの気持ちは沈んでいた。
ナミはどうだろうか、と思う。
ナミは喜びはしないだろう。仕方なく受けるのだ。
物語の中に隠されたものを、隠し通すために。

『あなたが望んでいることは、ナミさんを苦しめるのだろうか、
悲しませるのだろうか、
それとも喜ばせることになるのだろうか……』 
そう言ったユキの言葉を、ジンは反芻していた。

突然、バーのカウンターで若い男と唇を合わせていたナミの姿が浮かんだ。
胸の底にこびりつたどす黒いものが、生き物のようにうごめく。
それに突き上げられるように、やみくもにジンは歩く。
細い小路に入り込み、運河に突き当たり、橋を渡り……。

ホテルへの道もわからずに彷徨っていたが、
人の気配に誘われるように小路を抜けると、サン・マルコ広場に出た。
今夜も月が広場を照らしている。

水はすでに広場のあちこちに湧き出ていて、
細長いテーブルのような渡り廊下がいくつも連なり、
人の歩く道をつくっている。
その歩道に上ると、視界が高くなり、広場全体が見渡せた。

あの夜、デュカーレ宮殿からサン・マルコの前に来て……と、
ジンは船をおりてからの道筋をたどってみる。

すると突然、館から一人でこの広場に出た道を見つけた気がした。
時計台の脇の、あの道に違いない……
館からここまで、橋は渡らなかった。
ただいくつか細い通りを曲がっただけだ。

ジンは歩道で遠回りするのがもどかしく、
水溜りに足を踏み入れ、時計台に向かって走った。

そうだ、このあたりだ。

だが見渡してみても、小路には似たような壁に、
似たようなドアが並んでいるばかりで、
ナミが自分を引き入れたドアがどれなのかはまったくわからない。

ナミとあの若者は、このドアの中のどれをくぐったのだろうか。
このどれかの壁の後ろで、ナミはあの若者と抱き合っているのだろうか。
仮面をつけたナミの裸身が浮かんだ。

その前に立つのは自分だ! 

ジンは大声で呼びたかった。
ナミ! と呼びながら通りから通りへと、ナミを探して走り回りたかった。

真鍮のドアフォンの下の表札も、
いくら月が明るいとは言え、読み取ることはできない。
もっともそこにナミの名が記されていることなどないだろう。

ジンはホテルに帰るしかなかった。
どのみちすぐにナミに会うことになるのだと、言い聞かせながら。

その夜、ジンは自分がデュカーレ宮殿の牢に閉じ込められている夢を見た。
牢番の娘に助けてもらわなければならない。
だが鉄格子の嵌った窓から何度呼んでも、 娘は振り向いてくれない。
そう言えば娘の名前をジンは知らないのだ。

名前が無いの。

ナミの声が頭の中にこだましている。

私もあなたも、名前なんか要らないでしょう?

呼ぶべきだった。ミーナと。
いやあの時ジンが本当に呼びたかった、ナミという名で。
名前がなければ、二度と互いを呼びあう事など、できないのだから……。

ディーは机に向かい、手紙を書いている。

途中で書くのをやめ、まるめてくずかごに放り投げる。

引き出しを開けてKodakのロゴの入った封筒を手にすると、
中から写真を取り出す。
どれにも笑顔のミーナが写っている。

サンマルコやリアルト橋をバックに笑っているミーナ。
ゴンドラの上ではディーもミーナと肩を並べている。
ゴンドニエーリ(ゴンドラのこぎ手)が撮ってくれたのだ。

写真を封筒にしまう。

部屋を出る。
館の中は静まりかえっている。

館をあとにし、細い裏通りを何本も曲がり、
運河沿いの小路をたど
り、居酒屋に入る。

居酒屋から出てくる。
また延々と、歩き続ける……。

 

翌朝は雨となった。

朝食ルームまで下りていく気がせず、
ジンはルームサービスを頼んだ。

よろい戸を全開にしても、部屋の中は薄暗いままだ。
その手前に置かれたテーブルの上の、
こんがりと焼きあがったパンの匂いをかいでも、
みずみずしいフルーツの色を見ても、少しも食欲が湧いてこない。
苦いコーヒーをすすっていると、ナミから電話があった。

「シナリオのお話、受けることにしました」 

彼女は悲しんでいるのか、苦しんでいるのか……

「ありがとうございます。これで映画の完成に一歩近づいた。
ディーも喜ぶでしょう。
一度彼をヴェネツィアまで呼び寄せましょうか?」
ナミの気を引き立てたくて、ジンはそんなことまで言ってみた。

「ディーには、会うつもりはありません」 すこしの迷いも無い声だった。
「でも……」

「明日には……」 ジンの言葉をさえぎってナミは続けた。
「打ち合わせにうかがいます。
今日は仕事の引き継ぎをしなければならないので。
明日の朝、9時でどうでしょう?」

「わかりました、直接部屋に来てください」 
と答えたすぐあとに、ジンは、
あなたが苦しむなら映画はやめますと、言いそうになる。
だが電話は、すでに切れていた。

長い時間、ジンはバルコニーの扉のガラス越しに、運河に降る雨を見ている。
次第に、水に閉じ込められたような気がしてくる。

いや僕は、ミーナの物語に閉じ込められてしまったのだ。
それとも、僕を閉じ込めているのは、ナミという牢獄なのだろうか? 
パク・ナムジンという名前を捨て、ただの一人の男となって、
やはり名も無いただの一人の女の中に、
自ら進んで閉じ込められているのだろうか?

ジンは、あの夜持ち帰った仮面を取り出す。
どうしても手元に置いておきたくて、買い取ったのだ。

顔を仮面で覆い、部屋の片隅の鏡の前に立つ。
そしてバスローブを脱ぎ捨てる。

ナミさん…… 
やはりジンは名もない女をそう呼ぶしかない。

ナミさん、あなたも僕と同じように、全てを脱ぎ捨てて、
僕の前に立ってくれますね。

ジンは降りしきる雨の中、外の世界をシャットアウトして、
自分とナミと、ただ互いの中に相手を閉じ込め、
求め合い、貪りあいたかった。
それが叶うなら、映画などどうでもよかった。

ドアホンが鳴って、ジンはあわててローブを纏う。
「ユキです。携帯に伝言をいれたのですが……」

ドアを開けると、ユキが驚いた表情でジンを見つめた。
「あの、ジンさんですか?」

そう言われて、ジンは自分が仮面をつけたままだったことに気づいた。
「ああ、すみません、驚かせたかな」

ジンはゆっくりと仮面をはずし、ユキを部屋に招じ入れる。

「お加減でも悪いんですか?」
届けられたままの朝食のプレートを目にしてユキが言った。

「いや、昨夜ちょっと飲みすぎただけです。あなたは、朝食は?」
「だってもう昼食の時間ですよ」 ユキは少しあきれた顔になる。

「じゃ、お昼を一緒に食べましょう。
ロビーで待っていてください。10分、いや5分で行きます」

急いでパソコンを立ち上げ、保存していたディー宛のメールを開く。
ミーナをみつけました、という一行だけを残してその後を削除し、
明日打ち合わせの予定、あとで電話します、と入れて送信ボタンを押す。

ジンがホテルで借りた傘は大きくて、
狭い通りを傘をさしたユキと並んで歩くのには、
あまり具合が良くなかった。
二人並んで歩けるだけの幅のない通りも多いし、
無理やり並んで歩いていると、今度は人とすれ違うのが難しかった。

「そちらの傘に、入ってもいいですか?」
ユキにそう言われ、ようやくジンも気づく。
「ああ、歩きにくいですね。どうぞ」 と傘をユキに差しかける。

ジンの傘の中に入ってきたユキは少し小さく見えた。
仮装しているときは寄り添ってきたのに、
今は肩を触れ合わないように気遣っている。

「濡れますよ」
そんなユキがいじらしくて、ジンはユキの肩を抱き寄せた。
照れてジンを見上げた顔が、傘の色のためか、ばら色に染まっている。

ユキが連れて行ってくれた店は、 気さくな若者が二人でやっている、
レストランというよりビストロという風情の店だった。
昼は何種類かのセットメニューがあるだけで、夜は居酒屋になるのだという。

だが、ユキのおすすめという、
アラブ風の肉と野菜のスープをとがった米にかけた料理は、
確かに美味しかった。

「イタリアじゃ珍しいですね」
「ええ、私もここでしか食べたことないんです。
でもヴェネツィアは昔から東方との結びつきが強いから、
あまり抵抗がないのかもしれません」

料理を食べ終え、ビールを飲み干すジンを見て、ユキが微笑んだ。
「良かった、食欲、戻ったみたいですね。
たまにはお米もいいでしょう?」
ユキはジンを元気付けようとこの店を選んだらしかった。

「ありがとう、美味しかった。おかげで元気が出てきました」 
ジンは素直にそう言葉に出す。

「じゃ、もうひとつ、もっと元気になることを報告します」
「それはうれしいな。何だろう」
「ダンドロ氏のことです」 

「彼が見つかったんですか? 今どこに?」
ジンは思わず身を乗り出した。

 

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