<第二章> ”カサノヴァの牢獄“
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「たぶん、カプリです」
「カプリ……」
カプリは青の洞窟で有名な、ナポリ湾に浮かぶ小さな島だ。
世界中から観光客が訪れる美しいところだと言う。
温泉の島イスキアからも目と鼻の先だ。
「私、以前ナミさんからコーディネーターの代役を頼まれたときに、
劇作家になるのが夢だったと聞いたことがあったんです。
もうあきらめてしまったのかと尋ねると、
ずっと師事していた作家に頼まれて、
今でも時々彼の下書きのようなことをすると答えてくれました。
いつか自分の物語を書けるかもしれないけれど、まだ修行中なのと。
そのときは、どうしても彼と直接会って打ち合わせをしなきゃならなくなって、
だから私に仕事を変わってもらってありがたいと……」
「それが、ダンドロ氏なんですね」
「ええ、私、確か名前を聞いたはずなのに、忘れてしまっていて」
コーヒーが運ばれてきたが、ジンにはそれも目に入らない。
「どうしてわかったんですか?」
「なんだか気になったので、エリーにさりげなく聞いてみたんです。
誰っだけ、ナミさんの先生って。ときどき会いに行ってる、ほらって。
あとちょっとで思い出せそうなのに、キモチワルイのよって。
エリーは笑って、劇作家って地味だからね、イタリア人でも若い子は知らないかな。
でもルイジ・ダンドロって結構有名なのよと、教えてくれました」
ミーナはディーに、ほとんどダンドロの仕事のことを話していなかった。
ディーが嫌がったのかもしれない。
おそらくディーの帰国まで限られた時間しかなかった二人には、
ダンドロのことを話す時間すら惜しかったのだろう。
元貴族の実業家だと、なぜかディーは思い込んでいた。
あるいはダンドロは作家でもあり実業家でもあるのかもしれない。
「ダンドロ氏は半身不随なんですか?」
「それはわかりません。エリーも個人的なことは何も知らないそうです」
「そうですか」
がっかりしたようなジンに、ユキは少し不服そうだった。
もっと喜んでくれると思っていたのだろう。
「私、エリーに聞いてみたんです。
ナミさんとダンドロ氏には、ロマンスはなかったのかしらって」
「ロマンス?」
ジンは問い返した。
一方的にダンドロがミーナに思いを寄せていただけだと、これも決め付けていた。
だが確かにディーが現れる前のことはわからない。
「ええ、ナミさんってああいう人だから」
ユキはすこし言いにくそうだった。愛人のことも知っているのだろう。
「それで?」
ジンははやる気持ちを押さえられない。
「それで何と?」
「さあ、そんなことはないだろうって。
ルイジ・ダンドロはたくさんの女と次々に関係してたけど、
東洋人との話は聞いたことがないと」
「じゃ結婚したなんてことは?」
「まさかって笑われました。
あなた本当に知らないのねって。
ルイジ・ダンドロは誰とであれ結婚なんてするような男じゃないのよって」
ナミとダンドロのつながりが見えた。
だが見えたと思ったとたん、そのつながりは断ち切られた。
どうなっているんだ。
あのノートの一ページ目に書かれていたことは嘘だったのか。
本当にミーナが綴った物語に過ぎないのか。
「これで、ナミさんがミナミ・ダンドロではないことがわかりましたね」
だが、ジンにはユキの声が耳に入らない。
「ジンさん?」
「ああ、ごめん。ちょっとぼんやりしていた」
「これで私の仕事は終ってしまいました」
「と言うと?」
「私、ナミさんがミナミ・ダンドロではないという確証をつかんだわけですから」
「まあ、そういう意味ではそうかもしれない」
ジンの答えが要領を得ないので、ユキは怪訝な顔になった。
「どうかしましたか? なんだかまだお加減が悪いみたい……」
ジンが首を横に振ると、ユキが思い切った顔つきになって言った。
「映画はどうなるんですか?
これで私、カサノヴァの映画に出られるんでしょうか?」
ユキの想いの道筋がわかって、ジンは少し優しい気持ちになる。
「あなたはなぜ、今僕が撮ろうとしている映画ではなく、
カサノヴァの映画に出たいんですか?」
「門番の娘の役というのが気に入ったんです」
「カサノヴァを助け出すという?」
「ええ、囚われた男を助け出すという役が……」
ジンはユキを、久しぶりに会ったら随分変わってしまった、幼馴染を見るように見つめた。
あの夢の中で、檻の中から見たのはユキの背中だったのか。
ユキと呼べば、あの女は振り向いて、囚われた男を助けに来てくれたのか。
だが、自分から檻に入った男を、
誰が外に引き出す事ができるというのか……
「映画は撮ることになりました。
ナミさんはミナミ・ダンドロではないかもしれない。
けれども僕が探していた人だったんです。
シナリオも、引き受けてくれました」
ユキの顔が曇った。
「そうですか……
じゃ、私の仕事は本当に終ってしまったんですね。
何のお役にも立てないまま」
「そんなことは無い。全て、あなたのおかげですよ」
ジンの言葉に、ユキは納得しかねるように顔をそむける。
ジンはユキの、再び芽生えた女優への意欲を摘んでしまったようで、心苦しかった。
「ユキさんは、どうして女優をやめてしまったんですか?」
「私、監督や他の俳優とぶつかってばかりで。
少し自己主張すると生意気だと言われ、がまんしていると自分の演技ができない。
あの世界独特のしきたりみたいなものもいやでたまらなくて。
あるとき主役に選ばれた。それまでとは違う役柄でした。
でも、相手役の俳優となかなか噛み合わなくて、
どんどんギクシャクしていくばかりだったんです」
ユキは悔しそうだった。
「それで映画の世界に嫌気がさした?」
「映画の世界というより、それ以前の問題なんです。
週刊誌にも書き立てられ、結局私は降ろされてしまった。
でもそれは、どの仕事でも同じ。
あの国は暗黙のルールからはみ出していくものを、許さない国なんです。
私それに愛想がつきて、出てきたんです」
ミーナは異分子と自分のことを語っている。
ユキもその心情には共感するだろう。
ヨーロッパにはたくさんの日本人女性がいる。
圧倒的に男より多い。
彼女たちに共通する、生まれた国をあとにする、
あとにしなければならない何かが、そこにはあるのだ。
そしてそれは、ジンを突き動かす、
境界を越えて行こうとするエネルギーにも通じるものだ。
「ユキさん、よく聞いてください。
あなたがもし本当に、もう一度女優をやってみたいと思うのなら、
これから僕が撮る映画のヒロインに立候補してみませんか?
実はすでに数人に候補が絞られています。
最終選考の段階ですが、もう少し検討してみたいと思っていた。
あなたが過去に出演した作品を、見ることができますか?」
ユキは大きく目を見開き、しばらくしてこくりと肯いた。
ユキが出演した作品は、一作だけネットで探し出すことができた。
自分でも気に入っていると言っていたものだ。
彼女は南の島の海辺のホテルのスタッフだった。
そのホテルに客として泊まる男女とからむ、準主役の役どころだ。
映画の前半では、男と女の、次第に南下する旅の様子が淡々と描かれる。
特徴の無い地方都市が、まるで色彩を失ったような撮り方をされていて、
映像はなかなか良かった。
その長い旅が、日常化する。
繰り返される食事、似たようなビジネスホテル、駅前の、同じような商店街。
男と女は小さな諍いを重ね、次第に疲労をためていく。
やがてたどりついた南の島にも、同じようなコンビニがあり、
同じような商店街がある。
だが、商店街をまっすぐ走るアスファルトの道路の先に、青い海があるのだ。
それまでの街との、色彩の対比が鮮やかだった。
ユキは重要な役をうまく演じていた。
青い海や美しい自然をほとんど気にも留めず、淡々と日常を生きている。
あるとき主役の男と肉体関係を結ぶ。
だが男を迎え入れても、すこしも崩れた感じがしない。
そこがユキらしかった。
まっすぐに前を見詰める眼差しの、律儀さと純なところが好もしかった。
もしユキが違うタイプの女優だったら、
監督はユキが男と絡む場面で、南の海の官能性をもっと全面に出したはずだ。
海をもっと効果的に使っただろう。
せっかく美しい海があるのだから。
けれども結果的には、海に背を向けるという視点が成功していた。
その成功は、ユキの持つ、
むしろ北国に似合うような透明感のある雰囲気に多くを負っている。
彼女がミーナを、ヴェネツィアに暮らす、 あるときは軽やかなのに、
そうかと思うとたちどころに本性が霧に隠されてしまう複雑な女を、
演じる事ができるだろうか。
ミーナにも、確かにユキのような無垢なものがある。
男を受け入れるというより、男に向かうという形ではあっても、
そこに夾雑物や迷いはない。
ユキはミーナのそんな一途さに、
自分の持ち味を生かしながらまた別の解釈を与えてくれるだろうか。
一人のリアルな、新鮮な女を形作ってくれるだろうか……
彼女なら、きっと出来る…… ジンの気持ちが動いた。
ディーはなかなか捕まらなかった。
あちこちに伝言を残したが連絡は来ない。
ようやくディーが電話をくれたのは、
そろそろ遅い夕食に出ようかとジンがあきらめたときだった。
「ミーナが見つかったって?」
ディーの声はやはり弾んでいる。
「ええ、シナリオも、引き受けてくれました」
「よかった。これで前に進めるな。ジン、よくやった」
ディーはすでにジンを本当の弟のように扱っている。
「ディー」 とジンも呼ぶ。
「ミーナ役の女優ですが……」
簡単にユキの話を伝え、映画を見てもらうことにする。
「君が気に入ったのなら僕はかまわない」
「こちらに、一度来ませんか?」
ジンはディーがヴェネツィアに来ようとしないのが不思議だった。
しかもようやく、かつて愛した、そしておそらく今も愛している女が見つかったのだ。
会いたくないはずはないだろう。
「いや、行けそうも無い。
それにミーナがシナリオを書くとなったら、
映画のプロモーションも本格的に始めなきゃならん。
そっちとこっちで同時平行で動くほうがいいだろう」
「ミーナに会いたくないんですか?」
ジンは一歩踏み込んでみる。
「会わないほうがいい。
彼女は結婚しているし、随分時間がたったんだ。
お互いすっかり変わってしまっているよ」
「ナミさんは……」
と言いかけてジンはその先を続けられない。
ミーナではなく、ナミと呼んでしまった。
いま自分たちが話題にしている女はもうミーナではないのだ。
ナミはミーナを葬った。あの物語の中に。
そのことを、ディーも痛いほど理解している。
「彼女も会わないさ」
ディーがそう言うのを聞くのは辛かった。
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