ラ・マスケラ -仮面- <第二章> iii

posted in: ラ・マスケラ -仮面- | 0 | 2009/3/22

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<第二章> ”カサノヴァの牢獄 

 

      iii

パラッツォ・デュカーレからの帰り、ジンはオンデによってみた。
エリーが一人で、カウンターの上のパソコンに向かっている。
ジンを迎えると、これで一休みできると喜び、コーヒーの仕度を始めた。

「お仕事、順調ですか?」 小さなカップをジンと自分の前に置く。
「いや、なかなかうまくいかなくて……」

気のいいエリーは、申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「ナミも忙しくて、なかなか時間を取れないみたいで……」

「わかっています。
ただ、次のステップに進むためには、
どうしてもナミさんと打ち合わせをする必要があるんです。
今日はもうこちらには?」

エリーはだまって首を横に振り、カップを手にとる。
ジンもコーヒーを口にし、それから冗談のように言ってみた。
「ナミさんの行きつけのバールでも教えてもらおうかな。
こうなったらゲリラ作戦しかない」

「ええ…… でも私が教えたってことは……」
「もちろん誰にも言いません。恩に着ますよ」

今度一緒に食事でもと付け加えると、エリーの口は一層なめらかになり、
ナミがよく行くバールや、毎日のように立ち寄るというワインバーを教えてくれた。
バールではコーヒーを立ち飲みするくらいの時間しかし過ごさないだろう。
ジンはワインバーを覗いてみることにした。

『ダ・マウロ』という名の、リアルト橋を超えたところにあるというそのバーは、
なかなか見つからなかった。
何人かに尋ね、ようやく探し当てた時には、
もし食前酒だけで済ませるつもりなら、
既にナミは立ち去っているだろうという時間になっていた。

そこは目立たない入り口の小さな店で、
左手には奥に向かって伸びる長いカウンターがあり、
カウンターの上にはたくさんのワイングラスがぶらさがっていた。

入ってすぐ右横には2階席に続く螺旋階段、
正面にはガラスが嵌められた扉がある。
扉の外には、夏にそのテラス席に座って運河を眺めながら、
冷えた白ワインを飲むのは最高に気持ちがいいだろうと誰もが思う、
そんな景色がライトに照らされて広がっていた。

カウンターの一番奥の席にナミがいた。
だが店内はかなり混んでいて、1階にジンの座るスペースはない。
ギャルソンはジンに、吹き抜けになった二階席を指し示した。

それでもナミに声をかけようと思ったジンは、
彼女が隣の男にしなだれかかるのを見て、足を止めた。

白い額に黒い髪がやわらかく垂れた、端正な顔立ちの若い男だった。
ナミが親しげに男の肩に頬を置くと、男の腕がナミの肩を抱き、
唇がナミの額に触れた。
二人の前にあるボトルはほとんどからになっている。

ジンは待ち構えているギャルソンにうなずき、階段を上がると、
ナミが見える席を選んで座った。

胸の底に、じわじわと黒いものがひろがっていく。
それは今しがた迷い込んでしまった魚市場の、
床石にこびりついて変色した魚の血のように、ねばっこく、いやな匂いを放った。

ナミは男が何か言うと、ときどき笑い声をたてた。
かすれて、濁った、酔った笑い声だった。
その甘い声の中に欲望が混じっている。
男がナミの唇を塞いだ。

少し上向きになったナミの顔が見えた。
閉じられた瞼が震えているのも、見えた。
時々男の唇をむさぼる様子も、頬の動きでわかるほどだった。

テーブルの傍らで軽く咳払いが聞こえ、あわてて視線をあげると、
ギャルソンがラベルを見せようとボトルをジンに向けて差し出している。
適当に選んだワインだ。

ジンはナミに目をやるまいとして、
ギャルソンが慣れた手つきで栓を開けるのを見つめてみたが、
視線は自然とナミに戻ってしまう。

テイスティングを促されたので、わずかに注がれたワインを口に含む。
かなりヘビーな赤だった。
硬い、と言うと、デキャンタージュをすすめられた。

ジンは言われるままにうなずき、またナミを見る。
するとギャルソンの視線がジンの視線と一緒に動き、にやりと唇だけで笑った。

「シニョーラ・ナミ、ですよね」
ジンは違うという答えを期待する。
だがその願いは、あっさりと無視されてしまう。

「ええ、ご友人ですか?」
「いや、仕事で面識があるだけです。隣の人は?」

「アマンテ」
ギャルソンが、堅いこと言うなよとばかりに片目をつぶった。

アマンテ、とジンは胸の中で繰り返してみる。
愛人、だって?

デキャンターからグラスに注いだワインを、大きく回して揺らし、空気を含ませる。
そうして目覚めたワインは、スパイシーで鋭い香りを放った。
ラベルを見ると、97年のバローロだった。

ナミは何を飲んだのだろう。
仕事のあとのくつろいだ時間を、愛人とすごすために。

何を飲もうが、誰と飲もうが、自分には関係ないではないか。
そもそも、バーのギャルソンさえ知っている二人の仲なのだ。

それまでジンは気づかなかったが、
いつ入ってきたのか、フランコが男の隣に座っている。
奇妙なことだ。夫公認の仲なのか。
それとも彼だけが知らないのか。
三人は談笑している。

ナミが立ち上がり化粧室に消えた。
するとフランコが目立たないように財布から数枚の札を取り出し、
カウンターの下でナミの愛人に渡した。

札はすっと男のズボンのポケットに消え、
二人は何事もなかったような顔で話を続けている。

やがてナミが戻り、男をうながし、
二人はフランコをカウンターに残したまま、出て行った。

ディーは部屋のベッドの上で、
両手を首の後ろで組んだまま仰向けに寝ている。
じっと天井を見上げて動かない。

サイドテーブルの上には二枚のチケットが置かれている。

ドアがノックされる。
どうぞと答えると、ハウスキーパーの女が掃除機をひきずって入ってくる。
女はだまって掃除機をかけ始める。

ディーは体を起こし、チケットを手に取る。
破ろうとすると、女の視線がそれをとめた。
チケットを差し出すと、嬉しそうに笑い、受け取る。

ディーはまたベッドにからだを投げ出す。
天井が映し出される。

掃除機の音が響いている。
その音に混じって、開けられたままのドアからミーナの声が聞こえてくる。

「ルイジからあずかってたのはこれよ」
秘書が書類を取りにきたらしい。

「午後は君も来るんだろう?」
「ええ」
「そのあとは付き合ってくれるね」 秘書の声にはかすかな媚がある。

「わからないわ。ルイジ次第よ」
「新しい日本人のボーイフレンドとはもう終った?」
「ばかね。それに彼、日本人じゃないわ」

「へー、じゃ君のボーイフレンドには相変わらず日本人だけがいないのか」
「そんなことあなたに関係ない……」
「ルイジには関係あるさ」

ディーはぎゅっと目を閉じる。
やがて掃除機の音が止む。女がドアを閉めて部屋を出ていく。

またすぐにドアが開けられる。
ディーはベッドから勢いよく起き上がった。

そこにはさっき出て行った女が立っている。
「チケット、ありがとうございます」 と、にこやかに言う。

ジンはギャルソンを呼び、
フランコにバローロを一杯注いでくれるように頼んだ。

ギャルソンがフランコの前に新しいグラスを置き、ひと言二言何か囁く。
フランコの視線が二階のジンを捉えた。
ジンがグラスを掲げる。
フランコもグラスを掲げ、そのまま、二階に上ってきた。

「偶然ですか?」 挨拶の言葉もない。
「ええ、たまたまここで飲んでいたんです」
「そりゃめずらしい。土地の人間しか来ないような店をよく知っていますね」

ブルーの瞳を向けられたが、
やはりジンは、その視線が自分の背後にいる誰かを見ているように感じる。

「ワインが好きなんで、匂いに呼び寄せられたようです」
「確かにワインの選択はいい」
「一人で飲むには重過ぎました。一緒に飲んでくれますか?」
「喜んで……」

フランコがジンの前に座り、二人はもう一度グラスを合わせた。

「何に乾杯するのかな」 フランコが尋ねた。
「ミーナに」
フランコがゆっくりと目を閉じ、また開けた。

「だれですか?」 声が強張っている。
「僕が愛することになる女です」
「なんですって?」

フランコの視線の焦点が、ようやくジンに合わされた。

「僕がこれから愛する人です。彼女も僕を愛してくれる」
「それは無いでしょう……」

ジンは笑い、さきほどナミが出て行ったドアを顎で指し示した。
「ええ、まさか彼女は、僕なんかを愛してくれることは無いでしょう……」
フランコが悔しそうに唇を噛んだ。

「ナミさんがミーナだということはわかっています」
フランコは答えない。
「僕はただ、僕が演ずるディーとミーナが愛し合うことになると、言っただけなんです。
映画の中でね」

フランコは大きく肩で息をし、それからワインを一気に煽った。
「そんな飲み方をしたら、バローロが可哀相だ」

フランコはあきらめたように手の中のグラスを覗き込む。
「こんな展開になるんだったら、この仕事、受けませんでしたよ」
「何故ですか?」

「もう一杯、もらってもいいかな?」
ジンの返事も待たず、フランコは自分でグラスにワインを注ぎ、
今度はゆっくりと匂いをかいだあと、ひとくち口に含み、
それをたんねんに味わい、飲みくだした。

「君が何を望んでいるのか知らないが、
彼女はもうミーナという名前を捨てたんです。
その名前にまつわる過去もね」

「ディーとのことを言っているんですか?」
「まあ、その頃のことです」

フランコは何を、どの程度知っているのだろうか。
そしてダンドロはどこに消えたのだろう?
今しがた金を渡していた愛人のことは……。
ジンは話の糸口を探して考え込んだ。

「いいワインだ」
フランコがいつの間にか空になっていたジンのグラスを満たした。
次いで自分のグラスにも注ぎたす。

「君はディーにそっくりだ」
「あなたが僕を見て驚いたので、
もしかしたらディーを知っているのではないかと思いました」

「ああ、知っている。彼は覚えていないかもしれないけどね」
「ではなぜナミさんは驚かなかったんですか?」

「僕が電話で知らせておいた。
でも後で彼女、こう言ったよ。
全然似てないわ。彼、ディーとはまったく違うってね」

本当だろうか。
ナミは僕を見て、本当にディーを思い出しはしなかったのか。
あの夜抱き合っているとき、思わず僕をディーと呼んだのは、
9年ぶりに突然現れた、ディーにそっくりな男を見たからではないのか……。

腕の中で喜びにしなう獣のようなナミの姿態と、
喉を鳴らす喘ぎ声が生々しくよみがえり、ジンは思わず両手で顔を覆った。

「どうかしましたか?」
ジンは答えることができない。
抱き合った女のことを、その夫を目の前にして思い出している自分が、呪わしかった。

「すみません、何でもないんです」
フランコは納得したようには見えなかったが、それ以上何も言わなかった。

「さっき、あなたが金を渡していた男は?」
ジンが問うと、フランコの表情が少し緩んだ。
ミーナの話よりよほど気楽な話題のようだ。
「ああ、ナミの愛人ですよ」 と平然としている。

「僕には理解できない。
なぜあなたは妻の愛人に金まで与えて平気でいられるんですか?」

「妻?」 耳慣れない言葉を聞いたようにフランコはつぶやき、
「君、結婚は?」 と逆に問い返してきた。
ジンはいえと、短く否定する。

「僕の友人のイギリス人ならこう言うだろうな。
一度ぐらいしてみるべきだ。
時間と共に変容する幻想を、観察するのも楽しいよと」

「あなたも同意見なんですか?」
「さあ、残念ながら、僕たちはその楽しみを味わう事が出来ないんだ。
つまり、最初から幻想なるものがなかったから」

フランコが何を言おうとしているのか、ジンにはわからない。
だが口を挟むのははばかられた。

「僕らは同じものを追いかけていた。そのうち共同戦線を張るようになった。
おかげで孤独は少し癒えたが、
問題は、彼女が僕よりはるか前線で戦っているということだ。

僕たちの距離は時間と共にどんどん開いている。
そしてこの距離に比例して、
重ね合せたときに僕からはみ出すナミの孤独も、どんどん大きくなっていく……」

「あなた一人では手に余るくらいに?」
にやりとフランコが笑った。

「この説明だと、多少わかり易いでしょう?
もちろ本当はこんなに単純ではない。
つまり言いたいのは、僕たちが、
世間一般の妻とか夫とかという言葉にあてはまる夫婦ではないということです」

少しもわかり易くはなかった。
なぜ最初から互いに幻想を持たなかったのか、
追いかけているという共同の敵、あるいは獲物はなんなのか、
何故ナミだけが前線にいるのか……。
だが今は、フランコの言うことをまるごと飲み込んでおくほかはなさそうだった。

「あいつに金を渡したことはナミには言わないでくださいよ。
もっとも知ってるだろうけど」
「どういうことなんですか?」
「彼は僕が雇ってるんです」

「雇っているって……」
ジンは思いがけないフランコの答えにさらに混乱した。
だがフランコはかまわずに続ける。

「変な男にひっかかるより、素性の確かなプロのほうが安心でしょう?」
「プロ?」
「そう、彼はプロなんです。
女を喜ばすテクニックは最高、けれどもけっして感情的にもつれることはない」

ジンは、まじまじと目の前の男を見た。
これは諦念なのか、荒廃なのか、
それとも今までに見たこともない、深い愛なのか……。

「想像も出来ないって顔をしてますね」
「ええ、ますますわからなくなった」

ランコは落ち着き払ってグラスを回し、
なぜ…… と問いかけたジンを、片手をあげて制した。

「まあ、いろんな人間がいて、いろんな夫婦がいる。
うんざりするのはつまらない道徳論だということには、君も同意してくれるでしょう?」

 

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