<第二章> ”カサノヴァの牢獄“
ii
二度目にナミがディーと呼んだとき、ジンは体を離し、
ナミの手のひらに、僕はディーじゃないと書いた。
「ああ、ごめんなさい。そうね、あなた、名前なんてなかったんだわ」
ジンはうなずく。
今腕に抱きしめている女も、誰でもない、名前など無い女なのだ。
ミーナでもなく、ナミでもない。
そう自分に言い聞かせるより早く、
ナミの冷たい唇がぬくもりを取り戻すよりもさらに早く、
ジンの体は意思と無関係に反応し、動いた。
ジンの指先から生まれるナミの肌の震えや、こらえきれずに耳元で漏れる吐息が、
乾いた砂に滲みる、満ちていく潮のようにジンを潤す……。
けれども、一度大きく寄せた波が引いたあとは、
濡れた砂はまたたくまに乾いてしまう。
もどかしさにジンは、もう一度、もう一度と深く、ナミを求めた。
名前という記号でなく、腕をからませあった互いの肉体だけを、
湿り気を帯びた肌だけを、喘ぎ声だけを、
互いの記憶に刻み付けたいと、思いながら……。
ぐったりと、ナミの体から力が抜けた。
かすかな微笑が唇の端に浮かんでいる。
眠ったようだ。
ジンがベッドを抜け出るとき、ナミの手がジンの手を捉えた。
だがその手からも、すぐに力が抜けていく。
ジンはそっとナミの手を毛布の中に戻すと、
音を立てないように服を身につけ、部屋を出た。
外階段に通じる二階の玄関ドアも、中庭から通りに出るドアも、
一度外に出るとカチリと音を立てて鍵がおりてしまい、
外からは二度と開かなかった。
これでいい…… ジンは胸のなかでつぶやく。
だがすぐに、いや、よくはない! とどこからか声が響き、
その声がからだの芯を刺し貫いた。
建物の角を曲がるたびに、足を止める。
この道を覚えておかなければと、何度も後ろを振り返る。
けれども、ひとつ角を曲がると似たような館が並ぶ通りに出てしまい、
サン・マルコ広場に出ると、今来た道をすでにジンは見失っていた。
サン・マルコを見上げてみる。月はもうそこにはなかった。
運河の上にも見当たらない。
空はすっかり雲に覆われてしまっている。
ふと、まだ仮面をつけたままだったと気づく。
ぴったりと顔を覆う仮面は、やがて皮膚に張り付き、肉と溶け合い、
ジンの一部になってしまいそうだ。
恐れながら、そうであったらどんなにいいか、とも思う。
このまま、仮面をつけたまま、生きたいと思う。
その誘惑に抗い、仮面をはずす。
冷たい空気がむきだしにされた額と頬をなぶる。
ふと疑念が湧いた。
あれは本当のことだったのか―。
僕はずっとここにいて、
月が雲に隠れるまでを、
ただ見上げていただけではないのか……。
手にした仮面に視線を落とす。そして思う。
夢なら夢でいい。
無理やり眠りから引きずり出され、現実とまざりあってしまったような、
あれほど色鮮やかで、甘美な夢なら……。
記憶の中の地図を頼りに広場の外れの道をたどると、
すぐそこがホテルだった。
目が冴えて眠れそうもない。
ディーにメールを書く。
ミーナをみつけました。
だがまだアプローチは出来ていない。
あまり感触がよくないのです。
そう書いてみたが、送信ボタンを押すのをためらい、
結局フォルダに保存してPCの電源を落とす。
このままミーナをみつけられなかったことにして、映画もあきらめるか……。
映画の実現に一歩近づいたというというのに、
ジンの気持ちは揺れていた。
夢でもいいとさっき思った。いやむしろ、夢であったほうがいいのか……。
ミーナを見つけたと喜んだ心の底には、もっと強烈な喜びが潜んでいた。
余分なものを脱ぎ捨ててみれば、 ただ目の前の女を欲しがり、
その女を得られたと狂喜する、一人の男しかいなかったのだ。
だがその男には名前がない。
名前のない男が抱いたのは、ミーナでもない、ナミでもない、
やはり名もない一人の女だ。
そして今、館への道は失われてしまった。
たとえ再び館にたどりついたとしても、ドアは二度と開かないだろう。
名もない男と女は二度と出会うことはないのだ。
ジンは惑いを、そう封じ込める。
翌朝、ユキが朝食のテーブルに現れた。
少し緊張しているようだ。
カプチーノを注文したが、運ばれてきても口をつけようともしない。
「昨夜はあなたを置いてだまって帰ってしまって……
本当に申し訳なかった。許してくれますか?」
ふっと、ユキの肩から力が抜けた。
硬質さは影を潜め、無防備さが全身を覆っている。
いや、覆っているはずの鎧が透き通った水のようになって、
内部の揺れを映し出している。
「もしホテルにいらっしゃらなかったらどうしようかと……」
「どういう意味ですか?」
ジンは動揺を隠して言う。
「すみません。深い意味では……」
「あるいはここにナミさんがいたら?」
「そしたら黙って退散します」
「だが僕はいるし、彼女はいない」
「だからすみませんと……」
「それを確かめにきたんですか?」
ジンの固い口調に、ユキが口をつぐんだ。
昨夜のことは誰にも知られてはならない。だがそれにしても、これではまずい。
「もうやめましょう。僕こそ、すまなかった……。 あなたは、あのあとは?」
ジンがそう言うと、ようやくユキの緊張がほぐれた。
「すぐに帰りました。ワインも食事もたいしたことなかったので……」
今日は何をしたらいいのかと問われ、ナミの周囲をさぐってくれと指示する。
「どんなことでもいい。彼女に関する情報を集めてください」
ユキが不審そうな顔をした。
「ナミさんがミナミ・ダンドロでなはい証拠を集めるんですよね?」
「ええ…… ただ、小さなことから何かがわかるかもしれない……」
「何かって?」
「たとえば、いつオルシーニ氏と結婚したのか。
もしずっと前に結婚したのなら、
それだけでミナミ・ダンドロである可能性はなくなる」
ナミがミナミ・ダンドロでなくても、もういいのだった。
彼女はミーナなのだから。
だがこちらの依頼を受けてもらうには、なにか決定的なものが必要だろう。
それに、ダンドロがどうなったのかも気になる。
「そういうことなら出来るかもしれません」
ユキがすっきりとした表情になった。
「ジンさんは、今日はどうされますか?」
「僕は、サン・マルコ寺院とデュカーレ宮殿でも見ながら、
あなたの報告を待ちますよ。
カサノヴァの囚われていた牢獄を見てみたい」
「変わっていますね」 ユキは笑い、
「カサノヴァがどうして脱獄できたか知っていますか?」 と訊ねた。
「確か……」
「牢番の娘を誘惑したんです」 答えを待たずに、ユキが言った。
それが以前読んだ話とは少し違うので不思議に思う。
いぶかしげなジンの表情に気づいたのだろう、
ユキはあわてて言い添えた。
「本当は違うんです。
でも私、天井に穴を開けて屋根を伝って逃げたというより、
こちらのほうが面白いと……」
「確かにそのほうが、関係を持った女たちの全てに愛されたカサノヴァらしい」
「ええ、誰も彼を恨んだりしなかった。
皆その一瞬一瞬の愛が誠実で、真実だとわかっていたから」
「そうか、もしこの映画がだめになったら、カサノヴァの物語でも撮ろうかな」
ナミと見上げたため息の橋を思い浮かべる。
「それがいいですよ。
この前のハリウッド映画は軽いラブコメディーで、
それはそれで楽しめたけれど……」
「物足りなかったですか?」
「ええ、私、もっと複雑で、もっと艶やかで、
もっと妖しいカサノヴァを見たいと思いました」
「生涯女を愛し、女に愛されるために生きた男……」
「でも女以上に自由を愛した。
錬金術師や自由思想家を名乗り、数え切れない顔をもち……、
ジンさんのカサノヴァ、きっと素敵でしょうね」
今日のユキにはあまり構えたところがない。
カサノヴァを語る口調は饒舌で、生き生きとしていた。
思いがけない映画の話題にジンの気持ちもなごんだ。
「これでもプレイボーイの役は得意なんです」
「じゃ実生活でも?」
ジンは笑って否定する。
「とんでもない、まず女性との出会いがない」
華やかな女たちに囲まれて仕事をしているのだから、
出会いがないはずはない。
競演した女優に恋愛感情を持つこともある。
だが役から離れてみれば、急速に相手から遠ざかってしまうのが常だった。
映画の中で愛し合う男と女は、
スクリーンの中でしか生きられないものなのだ。
だからあれほど、乾いていたのか……。
その、底のない涸れた井戸のような欲望は、 一夜あけた今も消えずにある。
ジンが黙ったのを違う意味にとったのか、
「ヴェネツィアじゃ、出会いはたくさんありますよ」
ユキが詮索もせずに言った。
「そうですか」
ユキは昨夜のことを言っているのだろうか? それとも……
澄んだ水の上に浮かぶように、ユキの想いが透けて見えた。
ジンは優しい気持ちでそれに見入る。
「もしも……」 ユキが続けた。
「もしもカサノヴァの映画を撮ることになったら、
私、牢番の娘の役で立候補します」
「あなたが?」
「ええ、これでも少し女優をやってたことがあるんです。
あの世界になじまずに遠ざかったしまったけれど、
もしパク・ナムジン監督の映画に出られるなら、もう一度やってみたいと思って」
ジンはあらためてユキを見た。
9年前のナミはこんなだったかもしれない。
自信に溢れながらもふと垣間見える無防備さ、
それは何かを掴もうと必死になっている若さでもある。
霧ではなく、水で自分を覆うだけのミーナ……。
「ええ、是非」
ユキは嬉しそうだった。
その笑顔をまぶしく眺めながら、迷いを断ち切るように、ジンは言った。
「ナミさんと話してみたい。
彼女とじっくりと話せる場をセッティングしてください」
だが、ことはそう簡単ではなかった。
オンデにはかなりの仕事が入っているらしく、 ナミは打ち合わせや撮影の立会いで、
次の一週間のスケジュールを既に埋めてしまっているという。
仕方なくジンは、サン・マルコ寺院とデュカーレ宮殿を見学に出かけた。
溜息の橋では、橋の小さな窓から外を眺めてみた。
左側の窓の下には細い運河が伸びていて、
観光客を乗せたゴンドラが、次から次へと橋をくぐり抜けていく。
右側の窓からも外を覗いてみると、大運河の手前、
ナミと立ち止まってカサノヴァのことを話した橋には、
昨夜と同じように観光客が群れていた。
次の日もユキからの連絡を待ちながら、ジンはデュカーレ宮殿に足を向けた。
ナミと話すまで、自分は何も手につかないだろう、
それまで毎日、ここに通い続けるのだろうと思いながら、
宮殿内部の、狭い、陽の当たらない牢屋の前で、長い時間を過ごした。
館の朝、通いのハウスキーパーがやってくる。
やせぎすの中年の女だ。
キッチンに入り、朝食の仕度を始める。
一人、二人と、下宿人が朝食ルームのテーブルにつく。
女は盆にエスプレッソとビスケットの皿を載せ、ダンドロの部屋に運んでいく。
入れ替わるように廊下のはずれの部屋からディーが出てくる。
ディーはすっかり館になじんでいる。
朝食ルームに入り、おはようと挨拶を交わしあう。
部屋にはミーナのほかに、留学生が三人。
二人はテーブルにつき、一人はガス台に向かっている。
座っているのがアランとカティア、フライパンの卵をかきまぜているのはスーザンだ。
出身国はフランスとドイツとアメリカで、
食事の風景がなんとなくそれぞれの国籍を物語っている。
アランはたっぷりのカフェラッテにクロワッサンを浸して食べているし、
スーザンはエスプレッソをお湯で割っている。
おまけに用意されたものだけでは足りず、自分でスクランブルエッグを作っている。
カティアとミーナはテーブルに出されたもので満足らしい。
バターとジャムを乗せたパンの皿の横には、カフェラッテのカップが並んでいる。
ミーナがスーザンが渡してくれたフライパンを、そのままディーに回す。
「韓国では朝は何食べるの?」
カティアが、スクランブルエッグを皿に取り分けているディーに聞く。
「僕はパンにサラダにスープ。ときどき卵料理や果物も。
両親と食べるときはごはんにスープ、それから何種類か野菜や魚料理……」
「わお! ディナーみたい」
「こっちじゃ朝は甘いものをちょっとが定番だからな」 アランが口を挟む。
「そろそろ国の朝ごはんが恋しいんじゃない?
私はね、ジャガイモもソーセージも恋しくないけど、パンだけはだめ。
ライ麦やゴマのパン、ひまわりの種のパン……」
「じゃ明日はサラダとスープを作ったげようか」
スーザンがカティアを無視してディーに言う。
「いいよ、それほどこだわってるわけじゃない。これで充分さ」
「君はよくハンバーガーやフライドチキンや、
それからドーナツが食べたいって言わないね?」
アランがスーザンをからかう。
「お気遣い無く。食べたくなったら自分で作るから。
ただし、あんたにはあげないけど」
ふんとアランは鼻を鳴らすと、新聞を広げる。
迷惑そうに顔をしかめるスーザン。
カティアは食べ終わると、カップを持ってテラスに出ていく。
「よく寒くないよな」 アランがあきれている。
ミーナは会話にも加わらず、上の空の表情でカフェラッテを飲む。
そんなミーナをじっとディーが見つめる。
ミ ーナはディーの視線にも気づかぬようだ。
ドアが開き、ルイジ・ダンドロが顔を覗かせた。
「ミーナ、午後から頼んだよ。それからこれ、秘書が来たら渡してくれ」
「私は何時に行けばいいの?」 ミーナが書類を受けとる。
「そうだな、昼食からつきあってもらおうか。1時だ」
ルイジがドアを閉めると、
ミーナはまたぼんやりとした顔に戻って、腰をおろす。
ディーはミーナに何か言いかけるが、やめてしまう。
スーザンがディーに目配せをする。
「彼女、ルイジの手伝いのときはいつもこんななのよ。
心がどっかにいっちゃってるの。
さもなきゃハリネズミみたいにピリピリしてる。ほっときなさい」
アランはいつのまにかテラスに出てカティアと肩を並べ、運河に見入っている。
スーザンが食器をかたずけ始める。
「ミーナ」 ディーが呼びかけると、ミーナはようやくディーを見る。
「今夜、もしよかったら……」
「今夜?」
「ああ、フェニーチェ劇場でコンサートがあるんだ」
ディーはポケットからチケットを二枚取り出す。
「今夜はダメ。たぶん遅くなると思うから。ごめんね。他の人を誘ってあげて」
そっけなくそう言うと、すぐに部屋を出て行ってしまう。
スーザンが寄ってきて、「私、空いてるわよ」 とディーの前に立つ。
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