「まずは、君の本当の歳をきかせてもらおうか。
本当にみずき君より8歳も年下なの?」
「ええ。少し前に、20歳になりました」
「ワインはいつから?」
「ワインを初めて飲んだのは…、あれは、たしか13歳。
母の飲み残しを隠れて飲むようになって」
母がダイニングのテーブルでワインを飲んでいる。
母は一夜としてワイン無しではいられなかった。
長い昏睡状態から醒め、家に帰って、
兄が本当にいないのだと知ったその夜から、
母の目にだけ見える兄と、毎晩ワインを酌み交わすようになった。
ソムリエとして働き出したばかりの兄につきあって、
母もワインを飲むようになってはいたが、
あの頃の母の飲み方はむちゃくちゃだった。
兄が給料をはたいて買い揃えたワインをひと通り飲んでしまうと、
そのあとはドメーヌもビンテージもわからないまま買い求め、
それらのワインで、ただ兄と暮らした時間を定着させるためにだけ、酩酊した。
兄は、母の子供ではなかった。
母は中学生の息子がいる父と、結婚したのだ。
間もなくリョウが生まれた。
そのことをあの夏、休みに入る少し前に、
リョウは母から聞かされた。
女の子だけを集めて開かれた初潮の授業があった日、
家に帰ってリョウは母に尋ねた。
「ママは10歳のとき、ユウにいを産んだんでしょ?
10歳のとき、もう生理があったのね」 と。
母は困ったような顔をしたが、
すぐにさっぱりとした声で事情を説明し、続けてこう言った。
「リョウちゃんには何の問題もないのよ。
ユウ君は本当のお兄ちゃんなんだから。
あなたたち仲が良くてうらやましいくらいだわ」
ママとユウにいだって、すごく仲がいいじゃない…。
だがその言葉を、リョウは口にしなかった。
母と息子に血の繋がりがないから、
だからあんなに仲良くしているのだろうかと思い、
無邪気な言葉を口にできなかった。
「本格的なワインの勉強はいつから?」
「バーのマスターから少し教わっただけです。
ただ母が飲むのはブルゴーニュだけだったから」
「君が大人になったのは、では13歳のとき、ということかな?」
ああ、そうかもしれない。
あまりの嘆きの大きさに潰れかかった母を、父は見捨てた。
家に帰らない日が続いて、でも母は何も言わない。
あの頃の母と父のエネルギーは、
まるで頼りない砂に幹を突き刺した根のない木が、
今にも倒れそうなのを必死で踏みとどまるように、
虚ろな家庭の形を保つことに注がれていた。
それは自分だけのためなのだと、リョウにはわかった。
そうわかったとき、リョウはきっと大人になったのだ。
ワインにすがるように生きてきた母の姿を思い出しながら、
リョウもまたワインに気持ちを解かれていた。
「みずきさんは、私のことをなんて?」
「親友だと言った。それから、
自分はひどい仕事をしているがそれを君に話すことによって、
汗と埃にまみれて仕事をしている肉体労働者が熱いシャワーで汚れを落とし、
乾いた喉を潤す一杯のビールを飲んだような気持ちになれると」
「ひどい仕事って、言ったんですか」
みずきの口からそんな言葉を聞いたことはなかった。
彼女はいつも、この仕事は天職だと言っていたのだ。
「ああ、そう言った。
僕はあの仕事を肉体労働と言うのが気に入ったけどね」
「それ以外には?」
「いや、それだけ」
それだけというのが物足りなかった。
さっきは煽るように、ベッドでの自分はどうかと訊ねたのに、
今のジェインは不思議なほどあっさりとしている。
からみつくようなあの声をもう一度聞きたいのに、
ジェインはそんなことは忘れたような顔をしている。
仕方なく、リョウは言った。
「あなたが知りたい話は…」
「それはもう少しあとで。実はその前に訊きたい事がある。
もし答えたくなければ答えなくてもいい。でも、答えてくれたら嬉しい」
みずきに対する評価で、ジェインに対する親密感が増していた。
「わかりました。美味しいワインのお礼に、お答えします」
「じゃあ……、初体験はいつ?」
ジェインはこの質問を、
初めてワインを飲んだのはいつかと訊ねたのとまったく同じ調子で口にした。
「中二の終わり、春休みでした。
生理の周期もだいぶ安定してきて、
これでやっと大人の女になれると嬉しかった。
それで次の段階に進むことにしたんです。
相手は図書館で知り合った大学生でした」
「好きになったから、ではなくて?」
「ええ、セックスがどういうものかを知りたかった。
それに、男の人がどんなふうに気持ちがよくなるのか、
そのときの表情はどうなのか、
どんなふうにイクのか、この目で見たかった」
すらすらと、答えていた。嘘ではない。
だが本当は人には言えない、ひとつのきっかけがあった。
当時、バーが軌道に乗り初め、母の帰りは不規則だった。
父は既に家を出ていた。だからたいてい夜は一人で過ごし、
うるさいことを言う人間がいないのをいいことに、
遅くまでテレビを見た。
母が帰って来るまで起きていることは無理だったけれど、
それでもベッドの中で、どんなに深く眠っていても、
母がドアの鍵を開ける音を遠く聞いた。
するとまた安心して眠りに落ちる。
だがその夜、鍵の音のあとにいつもと違う気配を感じた。
不明瞭な、聞きなれない男の声が届いた。
母が、ユウくん、と応えたような気がした。
そっと部屋を出て、階段の上から玄関をうかがう。
そこには、幼い時に下田の別荘の窓から見たのと同じ、
ひとつになった男と女の影があった。
男に抱きすくめられた母が、小さくあえいだ。
その自分の声に驚いたように、母は男から体を離し、
階段に視線を向けた。
あわてて身を隠したので、気付かれなかった。
二つの足音が、母の寝室に消えた。
もう一度恐る恐る覗いてみると、
玄関には脱ぎ捨てられた母のパンプスと、大きな男の靴があった。
翌日、図書館で男を物色した。
何時間も粘って、兄に似た背恰好の青年を選んだ。
「欲望の前に、まず好奇心があった……」
ジェインの声に我にかえる。
鮮やかによみがえった記憶を振り払うように、リョウは答える。
「いいえ、欲望はあったわ。初潮を迎える前から、欲望はあった」
みずきにさえ話していないことがするりと口から出て、驚いた。
しかも相手は初対面に近い男なのに。
「頭の中に描く、お気に入りの性的なストーリーがある?」
続けてそう問われ、時々見る夢のシーンが浮かんだ。
10歳の少女と25歳の兄だ。
だがリョウは、ジェインによって開けられた箱の蓋を、かろうじて閉じる。
その箱は、随分前に心の奥深く沈めたはずのものだ。
「いいえ、特定のものは。
小説や映画のシーンに自分をなぞらえても、
すぐに忘れてしまうし」
「初体験以後、関係を持った男性の年齢層は?」
「ほとんどが年上」
「体つきはの好みは?」
「背が高く、胸の厚みがあるひと」
「今、恋人はいる?」
いいえ、と答えそうになった言葉を飲み込む。
「ちょっと待ってください。これはいったい……」
「君を形作るものを知りたい。実は君をスカウトしたいと思っている」
「スカウト?」
「そう。君に、興味を持った」
ジェインの声は深く、暖かかった。
個人的に関心を寄せてくれたのだと、錯覚するほどに。
「何を言っているのか分からないわ。
私は大学生だし、就職のことはまだ何も」
ばくぜんとソムリエの仕事に心惹かれてはいたが、
そのためには大学とは別に本格的な勉強が必要で、
リョウは本当に自分がソムリエになりたいのか、
それとも兄が途中まで歩んだ道を、ただ兄の姿を追うためにたどりたいのか、
まだ見極めることができないでいた。
「仕事の内容を詳しく説明しよう。
もちろん、君がやってみたいと思わなければ、契約は成立しない。
だがその前に最後の質問がある。
君はセックスした相手から、金を受け取ったことがある?」
リョウが黙って首を横に振ると、ジェインは腕をのばし、
グラスの脚を弄ぶリョウの手をとった。
「アイスピックを握るように、僕の指を握ってみて」
迷いはなかった。リョウは突き出された人差し指と中指を握った。
それから氷を突くように、ジェインの指を握り締めた。
男の指は、リョウの手の中で大きさを増していくように思えた。
まるで握っているのが男の大事なものであるかのように、
リョウは手のひらに力を込め、そして緩めた。
しばらくすると、ジェインはもう一方の手でリョウの握り締めた指をほどいた。
そのままリョウの手を弄びながら、
この手がシャツのボタンを、
上から、一つ、二つ、三つと、はずしていくのが見たいな」と言った。
いくらセックスの話をしていたとはいえ、突飛な言葉だった。
スカウトなど口実で、ただ女を誘っているようにもとれる。
男に対する不信感が湧いて当然だ。
なのにリョウの手のひらは意思とは無関係に、
優雅に動く骨ばったジェインの指の愛撫を、受け入れていた。
じゃ四つ目からは、あなたがはずしてくれる?
そう言いそうになって、リョウは目を閉じた。
だがそれで一層、ジェインが愛撫する手のひらに神経が集中してしまった。
声が漏れそうになり目を開くと、
じっとリョウを見詰めるジェインの視線があった。
リョウは待った。
だがジェインはリョウが期待したどんな言葉も言わず、
ギャルソンが最後のワインを二人のグラスに均等に注ぐと、
そっとリョウの手を離してしまった。
「仕事の話をしよう」 さきほどまでと変わらない、乾いた声だった。
「君にはうちのクラブで働いて欲しい」
「クラブ?」
「そう、ある種のデートクラブ。高級な、秘密の」
「秘密クラブ、ですか? みずきさんのところのような?」
「クラブ・ジェインはデリヘルとは違う。
実はみずき君も移籍したいと言ってきた。
だから面接代わりに何回か会った」
ではジェインはみずきの客ではなく、恋人でもないのか。
「みずきさんは今の仕事を……」
「採用されたら辞めるそうだ」
そういえばしばらく前に、
みずきがデートクラブの話をしたことがあった。
古いな、今はお見合いパブでしょう、とリョウが軽く受け流すと、
あんないい加減なものじゃないとめずらしくムキになった。
「採用って……、
じゃあクラブ・ジェインは普通のデートクラブとは違うってこと、ですか?」
「まったく違う。
通常デートクラブには男性が審査を受けて入会し、女性は登録するだけだ。
知ってるかな?」
「ええ」
「デートクラブの仕事は会員同士を引き合わせるだけで、
あとは双方の自由意志で交際が成立したり、継続したり、
あるいはどちらかの拒否で流れたりする。
つまりデートクラブはセッティングをするだけで、
後はあくまで会員同士の自由意志で交際が行われる。
だがクラブ・ジェインは、入会金と年会費、
それから紹介料を払う側のクライアントと、
クライアントが求めるものを提供する側の人間、僕はアクターと呼んでいるが、
その両者で成り立っている。
互いの自由意志によって関係が成立するのは同じ。
違うのは、アクターはクライアントが求めるイメージを演じるということ。
みずき君が採用して欲しいと言うのはこのアクターで、
もちろん君をスカウトしたいのもアクターとしてだ」
「イメージを演じる?」
「そう、擬似的な人間関係をつくるんだ。
父と娘、母と息子、兄弟や友人、そして恋人同士……」
「セックスを求められることも?」
「関係の自然な流れで、それはあるだろう」
「アクターには報酬が支払われるんですか」
もしそうだとしたら、結局は法規制の網をかいくぐって行われている、
性の売買に過ぎないのではないか。
「クライアントとアクターの間の契約によって」
「だったらその仕事は、みずきさんの今の仕事と同じに思えます。
それにクラブが対価をアクターに保証するのは違法じゃないんですか?」
「クラブが対価を支払うわけではない。
それにみずき君の今の客が求めるのは性的な興奮のみだが、
この仕事では違う。セックスは関係の中のひとつの側面に過ぎない。
似た仕事がひとつだけあるよ。
肉体を用いて、人間の関係性とドラマを描く仕事。
そこで繰り広げられるのは、幻想の、夢の関係だ。
だが眼前には確かにひとつのリアルな世界が現れ、
人はその中に入り込み、そこに流れる時間を生きる」
ジェインはグラスのワインを飲み干すと、また、リョウの手をとった。
「君には想像力がある。
つまり幻想や夢の世界を描き出す力があるということだ。
また君には、秘めた欲望がある。
満たされなかった何かを追い求める欲望だ。
君はきっと、人間の渇きを理解している。
アクターに必要なのは、この三つだ」
ジェインは、今夜はこれくらいにしようと話を打ち切った。
リョウは空になったボトルを見つめたまま、
本当に幻想の関係がリアルな世界を出現させることができるのだろうかと、考えた。
「もう一本開けようか?」
「いいえ……」
ボトルから視線を上げるとジェインが、
少しも特別な感情の浮かんでいない静かな表情のまま、
「じゃあ約束の話は、僕の部屋でしてくれるかな?」 と言った。
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