数日後、みずきはバーに客を連れて来ていた。
男の様子から、すでに”接客”したあとだとわかる。
早い時間帯にからだが空くと、みずきはこんなことを平気でする。
男は明らかに彼女より年下だ。
みずきは春に出かけた北海道の話をしている。
大沼公園が気に入ったとか、小樽の古い喫茶店の話とか。
たった今関係が始まったばかりの恋人どうしが、
どうして次の一歩を踏み出したらいいのか、
互いの距離を測りかねているように見える。
とても買った男と買われた女には見えない。
みずきが客との会話にリョウを引き込むことはない。
馴れ馴れしく接することもない。
『だってリョウちゃんが私の友達だと知ったら、
男って、リョウちゃんまで金で買える女だと思いこんだりするのよ』
というのがその理由だ。
いつだったか、
『誘われても断るから平気』 リョウがそう答えると、
『私はみずきねえさんの倍だと言うのよ』と笑った。
送っていくと言う客を帰して、めずらしくみずきが残った。
「ね、仕事のあと少し付き合ってくれない?」
「あのお客との話だったら、ちょっと時間くれないと」
「そうじゃなくてさ。一緒に行って欲しいんだ。”オステリア”」
この前”オステリア”に行ったら、
もうジェインはどこかに出かけてしまったあとで、
約束は今夜に延期されたのだと言う。
「なんでみずきさんが客とデートするところに、私も行かなきゃなんないの」
「私、あの店苦手でさ。一人じゃ行く気にならない。
それにね、あいつ、よかったらリョウちゃんも一緒に、だってさ」
確かに一度覗いてくれとは言われたけれど……。
「でも、気が進まないわ」
「いいじゃない、
そうすれば私とあいつとのツーショットを観察もできるし」
リョウは結局、押し込まれるようにタクシーに乗せらてしまった。
”オステリア”は、大通りから細い坂道を登った、
木立に囲まれた目立たないつくりの店だった。
駐車場にはよく磨かれた高級車や、外国の車が並んでいる。
小さな看板に刻まれた店の名も、これ以上ないくらい控えめだ。
斉藤から、オステリアというのはイタリア語で居酒屋を指すが、
くだけた店から、あえてそう名乗っている高級なところまであり、
リストランテより個性的で面白い店が多いのだと聞いたことがあった。
ほの暗いアセチレンランプが壁に灯り、
テーブルにはキャンドルが揺れるこの店は、斉藤が言うところの、
あえてオステリアを名乗っている高級なレストランバーだった。
店内の雰囲気からも、庶民的な客筋の店ではないことがわかる。
みずきは少し憂鬱な顔で、ジェインの後ろに従っている。
みずきの密室での豊富な経験は、このような“場”では役に立たない。
とはいえ、みずきの相手にしている客もこういう店に通い詰める人たちで、
金もヒマもある趣味人ばかりなのだ。
なのにみずきの“場”に対する苦手意識はなかなか治らない。
ジェインは、ライトアップされた庭に面した奥まった席に、
みずきとリョウを案内した。
いつの間にかギャルソンが背後から現れ、みずきの椅子を引き、
リョウの椅子はジェインが引いてくれた。
食前酒に、イタリアの薬草系のリキュールが出された。
ワインは何が好きかと聞かれ、リョウはブルゴーニュだと答える。
みずきは、私はなんでも、
でもリョウちゃんのおすすめが間違いないから……、と言葉を濁す。
彼女はワインも苦手だった
バー・ニュイに通い始めた最初の理由も、
気軽にワインのことを聞けるから、というものだった。
色々なこと勉強しなきゃ、それがみずきの口癖で、
事実勉強の成果は着実に身についていたが、
ワインだけはどうやらダメらしい。
「ナラ・カミーチェ、かな」
オードブルの皿が下げられと、
ジェインがリョウのシャツブラウスを見て言った。
「イタリアの女性には三つ目のボタンまであけるのがセオリーだって、知ってる?」
リョウは今日は、一番上までボタンを留めていた。
一つ二つ開けても、確かに中途半端だった。
だが三つ開けると、なにかがこぼれてしまいそうに頼りなくて、
自分には似合わないと思った。
「イタリアではボタンの位置まで計算されていてね、
三つあけるのが女の胸元を一番きれいに、つまりセクシーに見せる。
一方日本製だとボタンの位置はもっと上だから、
いくら三つあけても少しもセクシーに見えない」
ボタンの位置がそこまで計算されているというのには感心した。
だがセクシーというのはそんなに均一なものだろうか。
「イタリアのセクシーさって、わかりやすいんですね」
その答えにみずきが、
またリョウの悪いクセが出たとばかりに睨みつける。
あんたはかわいげがない、すぐにムキになってつっかかってばかりいる。
そんな女に男は引いてしまう、と言うのだ。
目の前の男は不機嫌な表情も見せずに微笑んだが、
みずきはとりつくろうように言った。
「私はイタリアの洋服が大好き。大胆で、潔いところ」
ジェインはみずきの開いた胸元からウエストの辺りまで視線を動かし、
確かに潔いね、と言った。
みずきのニットがどのブランドのものか、リョウにはわからなかったが、
ジェインににはわかったのだろう。
ギャルソンが差し出したワインリストには値段がなかった。
リストは赤と白、それからフランスとイタリアに別れ、
更に産地別になっている。
リョウはブルゴーニュの白から、シャサーヌ・モンラッシュを選ぶ。
ドメーヌはジェインに任せた。
冷たいビシソワーズのあとは、白ワインの風味の鯛のカルパッチョが出た。
香草や野菜と一緒に、王冠の形に彩りよく整えられている。
お腹がいっぱいで、肉はもう入りそうもなかった。
「じゃ、ワインもいらないかな」
「ワインは……」
少し足りなかった。
それが顔に出たのだろう。
「ブルゴーニュが好きなら、ちょうど面白い赤が入ったから」
ジェインはリストも見ずに、
ギャルソンにあまり聞いたことのない名を告げた。
そのとき、みずきのバッグの中で携帯の着信音が小さく響いた。
ごめんなさいと、席を立つ。
すぐに戻ってきてまた腰を降ろしたものの、なんだか落ち着かない様子だ。
「仕事?」ジェインが言った。
「ええ、私じゃなきゃダメだって。ちょっとうるさいお客様で。
あの… この前のお話は…」
「あとで連絡させてもらうよ」
みずきが少しがっかりしているように見えた。
先客だと言って何故断らないのか、それも不思議だった。
リョウも一緒に立ち上がったのを、ジェインに止められる。
みずきも、せっかくリョウちゃんの好きなワインを開けてもらうんだからと制するので
リョウだけ残ることになった。
みずきが去ってみると、少し拍子抜けがした。
居心地が悪くなるかと思ったが、
かえってあれこれ気にすることもなくなり、目の前のワインに気持ちが集中した。
ギャルソンが開けたのは97年のニュイ・サン・ジョルジュで、
リョウの知らないドメーヌだった。
まずジェインのグラスにわずかにワインが注がれた。
ジェインは匂いだけを確かめると、飲まなくてもわかっている、
とでも言うように肯いた。
三分の一ほど満たされたグラスを、ジェインは軽く掲げた。
乾杯の言葉はなかった。
リョウも黙って明るいガーネット色の液体を回し、
ワインに空気を含ませる。
ひとくち口に含んだだけで、良いワインだとわかった。
「美味しい」
「気に入ってもらえたかな」
「ムザン川の北の畑ですか?」 少し背伸びして言ってみる。
「さすがだ。ワインバーで働いているだけある」
とたんに、知ったかぶりが恥ずかしくなった。
リョウにわかるのはそれだけだった。
「はじめて飲みました。
うちのバーはブルゴーニュの品揃えが自慢なんです。
でも一度も見たことのないラベルだわ」
目を閉じ、また口に含む。
兄ならこのワインを何と言うだろう。
『ワインは名前や他人の評価で飲むものじゃない、
自分とそのワインとで対話しながら飲むんだ。
ユウくんはいつもそう言っていたわ』
バーで薀蓄を語るだけの客が帰った後、母が毎回口にする言葉だ。
ならば兄はどう言うのか。
いつしか兄に問うようにワインを飲むのが、リョウの癖になっていた。
大ぶりのグラスからは、夜の森の匂いとでも言うような、湿った樹皮や、
降り積もって形をかえつつある枯葉のような匂いが立ち上がってくる。
成熟、という言葉が浮かんだ。
ここにあるのは、おまえなど足元にも及ばない深い成熟だよと、
兄が答えた気がした。
寛いだ気持ちになったリョウは、
目の前でワイングラスを回すジェインに見入る。
みずきがいるときは、彼女の緊張が乗り移ってしまったようで、
とても二人の姿を観察する余裕などなかった。
だがこうしていると、視線はひとりでにジェインのグラスを持つ指や、
ワインを飲み干す唇に吸い寄せられてしまう。
黒の麻のスーツに、真っ白な麻のシャツ、ノーネクタイ。
印象はこの前よりもシャープだ。そして、完璧だ。
完璧な肉体、完璧なバランス、完璧な着崩し方、
ワインを口にするそのしぐさも。
リョウは赤い液体が、男の白いのどぼとけを動かして、
飲み干されていく様を見つめた。
「少し教えてくれないか」
「ええ、なんでも。
美味しいワインのお礼に、わかることならなんでもお答えします」
「君はいつも男を、そんなに真剣に観察するの?」
グラスを置いたジェインに鋭い視線を向けられ、
リョウはうろたえた。
「いえ、べつに……」
「みずき君の客を観察して、
彼女とその男がどんなセックスをするのか想像する、
その癖が抜けないとか?」
「それは……」
全身の皮膚から汗が噴き出した。
ギャルソンに聞かれはしなかったたかと、視線を泳がせる。
だがジェインとリョウに注意を向ける者はだれもいない。
もちろん、助けてくれる者も。
仕方なく、とりつくろうことを放棄する。
「みずきさん、そんなことまであなたにしゃべったんですか」
「ああ、君の想像力はなかなか素晴らしいと、褒めていたよ。
現実よりよほど過激で、エロティックだと」
あんまりだと腹がたった。
裏切られたような気もした。
二人だけの密かな、ささやかな楽しみが、
とたんにいやらしい、穢れたものに変貌してしまった。
だが、怒りのためにリョウは一気に落ち着きを取り戻した。
するとひとつの疑問が生じた。
こんなことまで話すとは、いったいこの男はみずきのなんなのだろう。
よほど気持ちを許した相手でなければ、
みずきはこんなことは言わないはずだ。
「聞かせて欲しいな。
僕と彼女とのセックスをどんなふうに想像したのか。
君の頭の中で、ベッドの上の僕はどうだった?」
男の目を、リョウはまっすぐに見た。
この男も、みずきが言うように私を金で買えると思っているのだろうか。
だからセックスの話を持ち出して、どう反応をするのか見ようというのか。
あるいは女が恥ずかしがったり臆したする姿を、
さらには心のうちに揺らめく好奇心や欲望が垣間見えるのを、
楽しもうというのだろうか。
だが男には下卑たところは少しもなく、女を貶めるつもりもなさそうだ。
「自分にどれほど性的な魅力があるのか、確かめたいのね」
なるべく冷たい声音を作って言う。
「君が僕のことをどう取ろうと、それは問題じゃない。
ただ話を聞きたいだけだ」
優位に立てたと思ったのもつかの間だった。
「いいわ、話しても。でも今ここで話す気にはなれない。
それに、条件があります。
あなたがみずきさんから私のことで何を聞いたのか、
詳しく教えてもらえますか?」
空になったグラスにワインを注ぐために、ギャルソンが近づいてきた。
見るとずっとサービスしてくれていた若者ではなく、
ジェインと同年代の男性に代わっていたた。
ソムリエのバッジをつけている。
落ち着いた、丁寧なサービスだった。
注がれたワインは、これから起こる未来を語るように、
大ぶりのグラスのなかに光を集めている。
思わず手を伸ばし、グラスのなかを覗き込む。
だが澄んだ液体は、どんな予兆も語ってはくれない。
そっと揺すって躍らせてみる。
立ち上る香りにふくよかさが増していた。
ジェインとの間の張り詰めた空気を、一瞬リョウは忘れた。
そんなリョウの姿を、微笑を浮かべながら、
ジェインがじっと見つめていた。
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