ある晴れた日に、永遠が見える… エピローグ1

posted in: ある晴れた日に永遠が見える | 0 | 2013/7/25

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<エピローグ①>

ロベルトのものだという、グレーのプジョーの助手席に乗せられてから、
そろそろ一時間がたとうとしている。
ハンドルを握るカナは言葉少なだ。
「西に向かっている…ってことはピサか、ルッカか…」 
何度行き先を訊ねても答えないのであきらめてはいたが、それでも僕はカマをかけるようにつぶやいてみる。

「本当言うとね…」 

カブリオレのフロントグラスから巻き込む風が、カナの声を奪う。
僕は少し運転席にからだを寄せた。

「目隠しして連れて行きたいくらいなの…」

カナの肩にかけられたストールが風に踊り、僕の頬をなぶる。
あらわになった背中に、ドレスの模様の続きのような一筋のしるしが目に入る。
そのしるしが欲しい。
そのしるしを見ると、僕はまるで実験室の檻の中の犬のように、舌を出してよだれをたらす。
だが運転しているカナの背に舌を這わせるわけにはいかない。
仕方なく僕は肩先にそっと唇を落とす。

数時間前、僕たちはシニョーリア広場にいた。
カナの部屋で一夜を過ごし、昼過ぎまで抱き合って眠り、
遅い昼食を、カナにねだられて中華料理屋でとったあとだった。

カナは街を歩きたがった。
僕がプレゼントした、暗い赤をベースに明るいワインレッドと、
くすんだピンクが流れるような線を描くドレスを着て、
同じ模様のストールで背中を覆っている。
背中の透ける傷は一本の腺となって、模様にまぎれていた。

広場をゆっくりと横切る。
行過ぎる男や女がときどき僕たちを目で追うが、それはカナの背中の傷のせいではない。
僕たちが観客を求めているのが、彼らにもわかるのだ。

広場の一角の古くからあるバールに入る。カナはブラッドオレンジの生ジュースを頼んだ。
赤い筋を身に纏ったカナが、絞り出された赤い液体を飲み干す姿に、胸が高なる。

隣でマティーニを飲んでいる恰幅のいい中年の紳士が、
さっきからカナの首から胸元にかけてを盗み見ている。
僕はストールを直すふりをしてカナの肩を抱き寄せ、さりげなく背中のしるしをむき出しにし、
男の目にそれを曝した。

カナはじっと僕の目に見入る。
後ろの男の視線も感じているはずだ。
きっと背中のしるしは熱を帯び、脈打っている。
僕の唇を欲しがって。

僕はカナの耳元でささやく。
「きれいだ。きれいすぎて、どうしていいかわからない。」 
「ジャヌ・・・」 カナは目を閉じ、僕にもたれかかってきた。
「素敵だわ… 何もかも…」

観客の姿が周囲の闇に遠ざかる。
僕たちはほんの数秒、見られることの快楽に酔う。
それから何食わぬ顔で、僕はストールでカナの背中を覆う。
隣の男はあわてて目をそらすと、飲み物もほとんど残したまま、その場を立ち去った。

戸外の広場に面した席が空いたので、僕はカナを椅子に座らせる。
「ジャヌ、私どうにかなりそうだわ。
あとどれだけ持ちこたえられるかわからない。
きっともうすぐ、ポンテヴェッキオの上で襲ってって言うわよ。」
上気した頬をふくらませ、カナがわざと乱暴な口調で言う。

僕は笑い、約束の一回のためにどこかに行こうと提案した。
「昨日のは?」
「あれは忌まわしい過去を葬り去るための一回。
次は僕たちが新たに始める為の一回だ。」

なるほどとカナは肯き、目を輝かせ、それなら場所はまかせてくれと言う。
行きたいところがあるのだと。
正直に言えば僕は、すぐにでも広場から一番近いホテルに飛び込みたかった。
橋の上はまずいが、なんなら橋の下でもいい…

吹き込む風の勢いがそがれている。車のスピードが落ちていた。
静かに口づけているカナの肩さきから、さわさわと這い上がっていくものがある。
僕は密かにほくそえんだ。

まっすぐに走る道路の両わきは、うっそうとした樹木に覆われた森だ。
松やトベラの艶やかな緑が、海が近いことを知らせている。
風に混じるトベラの白い花の香りが、僕のたくらみを煽る。
すばやく、前にも後ろにも車がいないことを確かめ、
静かに舌を、肩から首筋に向かって這わせていく…

カナはよく耐えている。
まっすぐ前を向いたまま、両手でハンドルをしっかり握って。
「カナ…」 耳元でそっとささやくと、きつく結んでいた唇がうっすらと開かれた。
容赦なく、耳たぶを舌で弄ぶ。

「がまんできないよ… カナ…」 吐息を送り、右手をカナの膝に置く。
その手を滑らせ、そっとドレスの裾をたくし上げていく。
「やめて、ジャヌ…」 カナの声は低く、かすれている。
あと少しだ…

「あなた、そんなに早く天国に行きたいのね…」 
だがカナはそう言うと、アクセルを一気に踏み込んだ。

加速の衝撃に、ゆるめていたシートベルトが僕を座席に引き戻す。
カナの口元が、半ば勝ち誇ったように、半ば名残惜しそうに緩んだ。
「がまんできない。」 もう一度、僕は冷静さを装って言う。
「その… トイレ休憩をとってくれ。」

カナはちらりを僕を見る。
「そんな… こんなところにバールもガソリンスタンドもないわ。」
「ここでいい。路肩に停めて。」

車が停まった。
僕は自分とカナのシートベルトをすばやくはずし、カナのからだに覆いかぶさると、
リクライニングレバーに手を伸ばし、体の体重をかけて一気にシートを倒した。

「ジャヌ… なにするの…」
かまわずに僕はカナの腕をシートにおさえつけ、そのまま唇を塞ぐ。
憤慨して寄せられた眉根がゆっくりと緩み、まぶたがかすかに痙攣するのを眺める。

「拉致した敵国の王子には、目隠しだけじゃなくて手枷も必要だって知らなかった?」
「いつから奴隷が王子になったのよ。」
「たいていの物語では、実は奴隷は身分を隠して敵地に潜入した王子なんだ。」
「ありきたりなストーリーだわ。」
「王子を奪って王女が逃げる物語のどこがありきたりなのかな。」

その答えにカナは微笑み、腕を僕の首に絡めて引き寄せ、もう一度自分から唇を重ねてくる。
出会った日の夜に駅前で、唐突に僕の唇を奪った初めてのカナのキスを、思い出した…

   ***  

こんなふうにジャヌにキスしたことがあった。淡く、儚い夢のように…
でもジャヌは今、あの時と違って狂わんばかりに私を欲しがっている。
欲しがりながら、全てを楽しんでいる・・・
自分の欲望と、それを解き放つまでの時間と、そして私の反応を。

シニョーリア広場のバールで、ジャヌがどれほど巧妙に私を観客の前に曝したか。
そしてどれほど冷酷に私の反応を楽しんだか。
いや私も楽しんだ。
今すぐ君を欲しいと、なによりも雄弁に語る、私の肩を抱く指を。
私の目に見入り、見つけたものに満足して翳る瞳を…

ジャヌの舌が、私の思考を奪っていく。
たどり着けないかもしれない…
たどり着く前に… このまま…

何台か車が通りすぎる。
なかに速度を落として近づいてくる車もあったが、
私たちの姿を確認して安心するのか、そのまま走り去っていく。

ジャヌの舌はけっしてひるまず、攻撃の手を少しも緩めない。
だが一台の車がプジョーの少し先で停車し、ドアが開き、こちらに近づいてくる靴音がすると、
ジャヌの背に緊張が走り、すばやく体を起こした。
なんと言ってもここはひと気の無い森の中なのだ。

「あのー…」 
初老の痩せた女性が、まだシートに仰向けになっている私の視界に入ってきた。
あわてて私もからだを起こす。
「ごめんなさい… ちょっと教えて欲しくて…
Torre di Lago(トーレ・ディ・ラーゴ) へはこの道でいいのかしら? 
初めてでよくわからなくて…」

その女性の口から、ジャヌに秘密にしていた目的地の名前が出たので少しあわてる。
私の狼狽はすぐにジャヌに伝わり、彼はしたり顔で次のひと言を待っている。
女性があまりに心細げだったので、幹線道路から湖に向かう道への入り口と、
そこさえ間違わなければあとは一本道であることを教える。

自分たちもこれから向かうので、よかったら先導すると言うと、
スピードを出せないからかまわずに行ってくれと、女性は答えた。
「あなたたちもオペラに?」 女性の問いに、私は曖昧に笑う。

助かったと礼を繰り返し、最後に彼女がいたずらっぽく言った。
「おせっかいかもしれないけれど、幌をかけてロックしたほうがいいんじゃない?
Buon Divertimento(ボン・ディヴェルティメント)!」

同じ言葉を私たちも返す。
Buon Divertimento a Voi !あなたたちも、楽しんでくださいねと。
イタリアに来て最初に覚えたいくつかの表現の中で、私が一番好きな言葉だ。

目の前に停まっていた古いマセラッティが、すべるように発進していく。
私もシートを起こし、エンジンをかけその後を追う。
「やれやれ… これでたどり着けるわ。
ジャヌ、いい?どんなにがまんできなくても、トイレ休憩は目的地までなしよ。」
ジャヌが唇の端だけで笑う。
「君がいじわるだったから…」

私が女としての誇りと欲望を取り戻したとき、
ジャヌも一筋縄ではいかない不適な、未知の男を取り戻していた。
膨大な物語を読むように一人の男のページを繰る喜び、
初めての地を旅する旅人のように、道の先に見知らぬ風景が現れる驚き…
ボン・ディヴェルティメント! ボン・ディヴェルティメント! 私は胸のうちで繰り返す。

マセラッティにはすぐに追いつき、追い越しざまにクラクションで合図しあう。
運転席からは良く見えなかったが、助手席には女性と同年代の男性が座っているようだ。

やがてまばらにバールや食料品店が並ぶ集落に入ると、スピードを落とし、
Lago(湖)と記した標識に従って右折する。
たけの高い松の木の並木の間に住宅が並び、しゃれた別荘風の建物も目に付く。
道は湖で終わっていた。

広場の左手には、オペラのために新しく建てられた野外劇場の入り口があった。
”プッチーニ・フェスティバル2006”と看板がかかっている。
劇場のパーキングの表示を無視して、
湖を右手から回りこむように続く、目立たない私道に車を乗り入れ、
みすぼらしい建物の脇に駐車する。

はげた看板に星が三つあるのでかろうじてここがホテルだとわかる。
扉を開けると狭いホールで、黒と白の市松模様を描く床に小さなソファーと椅子が置いてある。
ソファーにかけられた白っぽいカバーは薄汚れ、クッションの布地は擦り切れていた。

 

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