ある晴れた日に、永遠が見える… 17

posted in: ある晴れた日に永遠が見える | 0 | 2013/7/25

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<17>

アパートはあの夜のままだった。
ここでは時間はまだ過去になってはいないのだ。
体は回復し、心にも力が戻ってきてはいたが、
それでも部屋に足を踏み入れるのに、カナはかなりの力を必要とした。

寝室の窓を開け、風を通す。
景色を鑑賞する余裕は、二人にはなかった。

ジャヌに手伝ってもらって部屋をそうじする。
ベッドのシーツを、取り替える。
引き抜かれたままになっていたパソコンのコンセントを差込み、電源を入れる。
カナはアイスグレーのシャツワンピースに着替えた。
準備は整った。

キッチンで、コーヒーを入れる。

ジャヌはパソコンにカードを読み込み、スライドショーで写真を見ている。
コーヒーカップを手に、カナはその様子をうかがう。

サン・マルコ修道院、サンティッシマ・アヌンツィアータ教会、レップブリカ広場…
カナの鼓動が高まっていく。
オルサンミケーレ、ウフィッツィ美術館の裏手のホテル、シニョーリア広場…

「とめて!」 
だがカナの制止は間に合わない。

画面に女の裸身が浮かぶ。
カナは駆け寄り、マウスに手をかけようとするが、その手をジャヌに捕らえられる。
二人でその女を見る。
今カナは目をそらさずに、その女を見る。

スライドショーが終わり、サンマルコ修道院が映し出されると、
ジャヌはスライドショーを止め、カナの写真で静止させた。

「もしこれが他の男が撮った君だったら…
他の男をこんなふうに欲しがる君を見せられたら…」

カナの腕を押さえつけるジャヌの手に、いっそう力が込められた。
「私が誰を欲しがろうと、あなたには関係ないわ。
私はあなたのものじゃないし、何一つ、私たちは約束していない。」

ジャヌがカナを突き放した。
その顔に浮かぶのは、嫉妬、無力感、傷ついたプライド、憎しみ…
自分に向けられた苦痛に満ちた表情にカナはたじろいだ。

「じゃ僕の気持ちはどうなるんだ。君は僕の気持ちを知っていただろう。」
「言ったでしょう。私たち、何一つ約束したわけじゃなかった。」
「君は僕の気持ちを踏みにじった。」
「あなたが去って行ったあとのことなのよ…」
「君は僕をコケにしたんだっ!」
「そんなつもりはないわ…」

ジャヌの瞳に青白い炎が燃えている。
「君はかつて僕を、こんなふうに欲しがったことはなかった…」
「そんなことないわ…」 カナはジャヌの握り締めて震えているこぶしに手を伸ばして触れた。
その手は、即座に振り払われた。

「僕に触るなっ!」
カナは振り払われた手で口元を覆った。
激しい拒絶に恐怖を感じ、叫び出しそうだった。
心の底に埋め込まれた傷が、かさぶたをはがされて痛みを増す。
ジャヌの顔は青ざめ、表情は失われ、目だけがぎらぎらと光っている。

一瞬、この場から逃げだしたい気持ちにかられた。
ドアを見る。
そのカナの視線をジャヌが追う。

カナが動くよりほんの少しだけ早く、ジャヌがカナの腕をとらえた。
強く引かれ、ベッドにほおリ投げられる。

ジャヌはすばやくカナの上にまたがり、シャツワンピースに手をかけると、勢いよく引き裂いた。
カナの喉から悲鳴が漏れた。
「ジャヌっ おねがい、やめて!」

容赦なくジャヌの手はカナの下着を剥ぎ取っていく。
同時にすばやく、自分も裸になった。
カナの腕は強い力で押さえつけられ、身動きはまったくできない。

「カナ、僕は君を許せない。君をめちゃめちゃにしてやる。
君が二度とあの男を、あんな目で見ることができないように…」
その言葉に撃たれ、カナの全身が緊張した。
勝ち誇ったような男の表情に煽られ、カナは身をよじる。

「もっと抵抗しろよ。もっと暴れるんだ。」 
カナは渾身の力を振り絞ってジャヌの腕から逃れようとした。
だがそれは無駄だった。

「もう終わりなのか。じゃ今度は僕の番だ…」 
ジャヌの唇が、カナの喉から胸にすべる。
圧倒的な力の下で、カナは屈服しそうになった。
屈辱と無力感がカナを覆っていく…

だがカナは歯を食いしばり、体の底に沸きあがってくる感情と力を掘り起こした。
恐怖ににじんだ涙を振り払い、ひたとジャヌを見据える。
燃え尽きたと思っていた灰の下から、怒りと、憎しみの炎をかきたたせる。

「卑怯者!」 カナは叫んだ。

その叫び声に、一瞬ジャヌがひるんだのがわかった。
「意気地なし… あんたを、軽蔑するわ…」 
嫌悪と憤りが込められた、初めて聞くような自分の低い声に力を得て、カナは続けた。

「いくらでも私を力で押さえつければいい。
でもこれで私を支配したと思ったら大間違いよ。
いい、よく聞いて。
何ものも、私から奪うことはできない。
あんたが得るのは、愚かで卑怯で弱い、そして醜い男の骸だけよ!」 

ジャヌの腕の力が弱まった。
その隙をついて、カナは逃れる出る。
ベッドから降り、周囲にすばやく視線をさまよわせる。
レップブリカ広場の女性警官の腰に下がっていたものが脳裏に浮かんだ。
あれがあったら… あのときあれがあったら…
自分が探しているものが凶器だとわかって、カナはその場に立ち尽くした。

背後でジャヌが動く気配に、カナは身を強張らせて振り向いた。
ジャヌがカナのベルトを手にしている。
だまってそれをカナに差し出すと、背中を向けてひざまづく。

「愚かな男を葬り去ってくれ。」ジャヌの静かな声が響いた。
「ジャヌ…」
「僕の中にもいる。愚かな男がいるんだ…」

そこにはマザッチョのアダムのように、恥じ、犯した罪を悔いるようにうなだれた、一人の男がいた。
迷わずカナは、その男の背中にベルトを打ち下ろした。
封印されていた怒りが解き放たれていた。
その怒りの炎に焼かれて、カナはベルトを力の限り、何度も、何度も、打ち下ろした。
かつてジャヌを打つときにカナの体を貫いた甘美な痛みは、今はなかった。

カナは狂ったように、やみくもに打ち続けた。
カナの怒りを受け止めるその背中は、ジャヌのものではなかったから。
力尽きて、腕をあげることすらできなくなるまで、カナは打ち続けた。

やがて激しい疲労に負け、カナはベルトをほおり出した。
床にへたり込むと、肩で大きく息をしながら、ぼんやりと目の前の背中を見つめる。

たくさんの赤い筋が交錯した背中も、荒い息に波打っている。
刻まれた筋のうちの何本かには、血がにじんでいた。

突然カナはその背中にしがみつき、声をあげて泣き出した。
激しい嗚咽をこらえることができず、カナは泣き続けた。
ジャヌの名を呼びながら泣き続けた。

「ジャヌ…ジャヌ… 許して。私を許して。
あなたは少しも悪くないのに…
あなたを身代わりにするなんて…
私…なんてことを… 
なんてことをしたのかしら。」
泣きながらやっとのことでそれだけを言う。

やがてカナが少し落ち着いてくると、ジャヌがやさしくつぶやいた。
「涙がしみるよ…」
カナはあわててジャヌの背中から身をはがす。
「やっと僕の目的が叶った。」 その声には深い満足があった。
「目的って…」
「僕を打つことで、君の怒りを解き放って欲しかった…」

気がつけば二人とも裸で床に座り込んでいた。
夏とは言え、大理石を貼った床の冷たさに、体はすっかり冷えてしまっている。
しかし、まだしゃくりあげるように泣いているカナの表情は、つき物が落ちたように晴れやかだった。

二人で熱いシャワーを浴び、またベッドに戻る。
「ジャヌ、背中の傷に薬を塗るわ。」

「その前に君の舌が欲しい、いつものように…」 

請われるまでもなく、カナはそうせずにはいられなかった。
丁寧に、ジャヌの一面の背中の傷に、舌を這わせる。
それはもはや贖罪の印ではなかった。
カナを苦しみから救い出した、勲章だった。

舌の動きにあわせて、ジャヌの背中に震えが走る。いっそう敏感になっているようだ。
かすかにあえぐジャヌの声を聞くだけで、カナの欲望も高まっていく。

「カナ… 君に触れたい。僕も君の体を、君の全身を味わいたい…
今日はがまんできそうもないよ。」
「いいわ。私もあなたに触れて欲しい。
でもその前にやってほしいことがあるの。」

カナはベッドから降りると、床に打ち捨てられていたベルトを手に取った。

「これで私の背中にもあなたの『空間概念』を描いて。」

ベルトを差し出すカナに、ジャヌは首を横に振った。
「だめだよ。そんなこと、僕には出来ない。」
「お願いよ。」
「どうしても?」
「ええ、どうしても必要なの。」

「でも… もし君が今日のことを気にしてるんだったら、それは違う。
君は何も引け目を感じることはない。
僕はあの男のために身代わりになったんじゃない。君のためだ。
それに僕も知りたかった。これは君の問題じゃなく、僕の問題でもある。」

「あなたは何が分かったの?」
「怒りは追い詰められたとき簡単に暴力と結びつく。何かが押さえていた蓋を取ればいいんだ。
誰の中にもその芽はある。」
「何故、ただの暴力に止まらずに、男は女を犯すのかしら?」

ジャヌが、大きくため息をついた。
「暴力ですら繋がろうとすると、言えなくもない。
もちろんそれは独りよがりの、愚かで卑怯な、唾棄すべきディスコミュニケーションだ。」

ジャヌは続ける。
「それから、何かによって男の脳に、暴力的な性の回路、
つまり性的に相手を屈服させることが男の証であるとの思い込みが、埋め込まれているような気もする。
それは本能とかじゃなくて、
楽園を追われたために生まれた欲望のように、きっとあとから埋め込まれたものだ…
もうひとつ、暴力は力の強いものから弱いものになされるものだ。
人は暴力を振るう場合、もっとも相手の弱い部分、最も深い傷を与えられる部分を探し当てる…」

「レイプは、男の支配欲の究極の形なんじゃないかって、ずっと考えてた。
男の性は、支配することによってしか存在証明を得られないないものなのかって。」
「そんなことはないよ。ただ優位に立ちたいとか、主導権を握りたいとか、そういう類のものはある。
時にはそんなもの投げ出したくなるけれど、その場になるとなぜかこだわってしまうんだ。」

「つまらないこだわりね。では男も、男であることから自由じゃない…」
「誰だって自由じゃないさ。
楽園を追われたアダムとイブにマザッチョが与えたポーズを見てもわかる。
神が男と女に与えた罪と罰も、悲嘆も、二つに割られたりんごのように相似形を描くわけではない。
君がそのことに憤慨するのはわかるけれど、
この現実から僕たちはそう簡単に逃れられるわけじゃないんだ。」

「わかってるわ。いえ今回、いやというほど思い知らされたわ。」
「でも、逃れられないものを抱えているという、そのことは同じだろう?」

さらりと言ってのけた言葉の大きさを、ジャヌは自覚しているだろうか。
そう言える男がこの世にどれほどいるというのか…
逃れることのできない欠落のふちに立って、その底を一緒に覗き込むことのできる男…。
ジャヌこそが、自分が長く探し求めてきた男だ。
カナはそのことをもう一度かみ締め、心の奥深くまでゆっくりと飲み込んでいく。

「その通りだわ。」
「だったら君が背中にあらためて傷を負う必要なんて、ないじゃないか。」

「ううん、私の中にも愚かな女がいることが今日わかったから。
あなたが言うように、私の中にも暴力の芽はあった…
それにずっと私も欲しかったの。
あなたの手で、私の体に、あなたのものと同じ印を刻み込んで欲しいの。
あなたの背中の赤い『空間概念』、ずっとうらやましかったのよ…」

ジャヌは気が進まないようだったが、それでもカナの説得に応じてベルトを手にした。
最初あまりにやさしく打ち下ろすので、ほとんど跡も付かず、カナはがっかりした。
そのうちジャヌも、何度も繰り返すより、一度で済ませたほうが痛手が少ないと分かったのだろう、
一度、力を込めてベルトを打ち下ろした。

鋭い痛みが斜めに走るのと同時に、カナを甘い快楽の炎が貫く。
うっすらと肉に覆われた背中に、見事に一筋の赤い印が描かれた。

「もう一度」 最初の一撃の余韻が薄れると、カナはねだった。
「お願い」 ジャヌは的確に、同じ位置にあたるようにベルトを打ち下ろす。
その衝撃に、目を閉じてカナは耐えた。
「あと一度…」 三度目に打たれたときは、思わずうめき声がもれた。
痛みが他のすべての感覚を凌駕していく。
しかし痺れるように全身に伝わっていくものは、喜び以外の何物でもなかった。

崩れ折れたカナのからだをジャヌは抱き上げ、ベッドにうつぶせに寝かせた。
「きれいだよ。」
「それだけ?」
「それに、すごくそそられる。
見ていると、それだけで…。」
ジャヌの唇が近づき、息遣いを感じた。
「すごく… 感じる… 」 
舌が触れる前から、その予感で背中に電流が走る。
かすかな吐息だけで、官能がさざなみのように全身に伝わっていく。

「それから?」
ジャヌは答えず、黙ってカナの背中のしるしに唇を寄せた。

ジャヌの舌先が触れたとたん、カナの唇から深い喘ぎがもれ出た。
あぁ、ジャヌ… ぞくぞくと全身を快感が覆っていく。
ジャヌ… カナはもうその名を呼ぶことしかできなかった。
与えられる熱い舌に答える言葉は、唇にたどり着いたとたんに、ジャヌという名前になるのだった。

それは一筋の裂け目から、溶け出たジャヌ自身が浸透してくるような感覚だった。
カナは初めて肉体でも、分かち持ったと感じた。
これが欲しかった、私が欲しかったのはこれだったと、カナは思った。

背中から全身へ、望みの通りに、ジャヌの舌はカナの全身を味わっていく。
カナのなかの失われていた感覚は、それ以前にも増して高まっていたから、
カナもジャヌを、肉体の全てで味わった。
底も無く、果ても無い欠落の闇にあって、一筋の光のように二人を導くものは、
ただ互いを求める、欲望だった。

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