<15>
テラスから、庭のはずれに広がるオリーブの林をカナはスケッチしていた。
柱と高い天井のアーチの間を風が渡り、
どこからか蜂の羽ばたきのひそやかな音が漂うばかりの、静かな午後だった。
ジャヌはコーヒーテーブルに本を置いたまま開こうともせず、
籐の椅子に深く腰を沈め、長い足を組んでカナを見ている。
黒のコットンパンツの裾から覗くジャヌのくるぶしを目の端に捉えながら、
カナはそ知らぬふりをして鉛筆を動かす。
ジャヌのくるぶしに唇を寄せたい。
しかしカナはその衝動を抑える。
体の奥に生まれ出た小さな揺らぎを味わい、楽しむ。
それはジャヌの背中の赤い一筋のしるしに対する、焦がれるような愛おしさと同じものだ。
「どうしたの? 私ばかり見て…」
「悪いかい?」
「気が散るわ。」
「嬉しいんだ。」
「なにが?」
「君がちらちらと僕の足を見て、にやついているのが…」
カナはばれたかと照れ笑いをした。
「それに… さっきのことも。」
「まだまだだわ。」
「いいんだ。ゆっくり取り戻せばいい。」
それでなのか。
テーブルにシャンパンが用意されているのは…
「ねえ、ジャヌ…」
「なんだい?」
「ここに来てだいぶたつけれど、まだ引き払わなくていいの?」
カナはスケッチの手を止め、ふと浮かんだ疑問を口にした。
「そろそろ飽きてきた?」
「そうじゃないの。こんな素敵なところ、飽きるわけがないわ。」
「じゃ好きなだけいればいい。」
「でも、あなたを破産させるわけにはいかないもの。」
「夏の間ぐらいは大丈夫だよ。その間にゆっくり先のことを考えよう。」
「客員教授がそんなにお給料がいいとは知らなかったわ。」
「まさか。一年前に来るつもりで準備していた生活費が、君のおかげでほとんど浮いたんだ。」
「私のおかげって… どういうことなの?」
ジャヌは少しの間沈黙し、やがて言葉を選びながら語り始めた。
「無給の身から有給の身になった。実は一年前から君に会ったら言おうと思っていたんだ。
でもなかなか機会がなくて、
そのうちに言わないままでいるほうがいいのかと思うようにもなって…」
ジャヌの“一年前” の話に、カナは驚きと共に聞き入った。
「じゃ、私があの大学で与えれられたポストは、もともとあなたのものだったのね?」
「そうだ。もしあの時付き合っていた女ともう少し早く別れていれば、
一年前にフィレンツェに来たのは僕だった。」
「そして私は来られなかった。」
「ああ。僕たちは出会うこともなく、君も…」
ジャヌは唇をゆがめ、その先を言わなかった。
「そのほうが、あなたは良かった?」
ジャヌは視線をそらせたままだ。
「あなたは一人でアンに追い掛け回され、パオロと友達になって一年を過ごし、
今頃はどこかの海辺で彼らとバカンスを過ごしている。
金髪の女子学生が、あなたの傍らにいるかもしれない。
罪の意識もなく、だから贖罪も必要ない。
あなたの人生に、私はいない…」
ジャヌが皮肉な微笑を浮かべた。
「何度も考えたよ。
君は傷つかず、どこかよその大学でイタリア男と幸せな日々を送っていたかもしれないと。
僕たちは出会わず、僕は背中に赤い“空間概念”を背負うこともない。」
カナは打たれたようにジャヌを見た。
ジャヌが目の前にいなかったかもしれないなどと、想像することはできなかった。
だが、彼の幸せそうな笑顔は思い描けた。
何の印もないなめらかな背中… その傍らにいるのは私ではない…
激しい苦痛に襲われ、カナは首を強く左右に振った。
いやよ、いやだわ… そんなのはいやだ!
でもあなたは…
「カナ… 」
ジャヌが手を差し伸べている。
だがカナは椅子から立ち上がり、じりじりと後ずさり、踵を返して階段をおりると、
庭に向かって駆け出した。
「カナっ!」
ジャヌの声が追ってきたが、カナは振り返らずに走った。
糸杉の小屋を廻り込み、オリーブの林を走り抜けた。
息が続く限り走って、林のはずれの草地に崩れるようにしゃがみこむ。
かなり下ってきたので、オリーブの木や建物の陰に隠れて、アルノ川は見えなかった。
フィレンツェの街並みは、塔の上の部屋より幾分カナの部屋からの眺めに近い。
この丘を東に少し登れば、私のアパートだ。
あそこに、帰ろうか…
あのベッドで、思いっきり泣こうか。
体中の水分がなくなるくらい泣けば、何もかも涙と一緒に流れ去ってくれるかもしれない…
私の、アパート…
あの… ベッド…
自分の部屋のことを考えてもフラッシュバックは襲ってこない…
トンネルを抜けて、いきなり強い光を浴びせられたような気がした。
まぶしくて目の前のものがよく見えない…
私のアパート、あのベッド…
もう一度カナは頭の中にその単語を並べてみる。
光に慣れてしだいに輪郭がはっきりするように、アパートのテラスが浮かびあがった。
目の前の景色に、テラスからの眺めが重なっていく。
背後に、夏枯れの草を踏むジャヌの足音が聞こえた。
ジャヌが静かに、カナの横に腰をおろす。
何も言わず、眼前に広がるパノラマを眺めている。
「ジャヌ… フィレンツェの絶景ベストスリーを知ってる?」
カナが目の前の街並みに視線をとどめたままそう訊ねた。
「ああ。塔の上の部屋からの眺め、ヴェッキオ宮殿のテラスから見るアルノ川の対岸の風景、それから…」
「それから…」 カナがジャヌの言葉をさえぎった。
「私の部屋のテラスから見るフィレンツェの街…」
ゆっくりと首を回し、ジャヌがカナを見た。
「カナ… 君… 」
カナはただだまってうなずいた。
ジャヌの腕が伸び、カナを胸に抱きとった。
その手が背中に回され、強く抱きしめられる。
「カナ、良かった。本当に…。」
ジャヌのほっとしたような、うれしそうな声に、カナの喜びが増幅していく…
「カナ。僕の言うことも聞いてくれる?」 ジャヌが腕のなかの、カナの耳元でささやいた。
ジャヌの肩越しに大きな鉢に植わっているレモンの木があった。
小ぶりの実がひとつだけついている。
全部摘み取られたあとなのか、それとも鉢植だからあまりたくさん実らないのか…
その澄んだ明るい色を見ながら、カナはもう一度、うなずいた。
「ふたつ、言いたいことがあるんだ。
まずひとつ。僕は学生とは付き合わない主義だ。
だからもし一年前にここに来たとしても、僕の横に金髪の女子学生なんかいるはずはない。」
ジャヌの言葉を構えて待ち受けていたカナの緊張が、少し緩んだ。
「それから背中の“空間概念”のことだけど。」
カナははじかれたように体を離した。
「これがどれほどの喜びか、君にわかるかな…」
「喜び? 贖罪の喜びでしょう?」
「それもある。でも痛みを味わえるのが嬉しいんだ。」
「私と同じ痛みじゃないのに?」
「ああ、幼稚な思い込みだとわかってはいる。
だがこれは君の“空間概念”だろう?
君の手から、君の痛みが、この一筋の切れ込みを通して、僕に流れ込んでくるように感じるんだ。
そのことによって君の痛みが軽くなる…、そして何かを、分かち持てるような気がして…」
そのことはカナも分かっていた。
だから私はその印が、これほどに愛しいのだ。
「君が傷つかずに済んだのなら、どんなに良かっただろうと思うよ。
なんというか、ずっと、違う選択があったんじゃないかと、脅迫観念に捉われている。
できるなら時間を巻き戻して、あそこからやり直したい。」
「あそこ? 一年前から?」
「違うよ、あの日からだ。
あの日、僕の部屋で君を最後まで抱いて、
そのまま誰が来てもベッドから出ずに、ずっと君を腕に抱いていればよかった。
もちろん写真は撮らない…」
遠い日の感覚をカナは思い描いた。
カナのすべてを奪おうとしていた、ジャヌの熱い舌、
溶け出していった女、
そしてカメラのシャッターの音…
「なぜ、そうしてくれなかったの?」
「君がアンとのことを誤解して、一度きりなんて思いつめているのをなんとか解きほぐすために、
最後まで抱かずに時間をかせごうと僕は考えた。
でもそれだけじゃない。
あのとき、君が言うように僕は逃げたんだ。
あまりにまっすぐな君を受け止め切れなくて、僕はカメラの影に身を隠した…」
「あなた、カメラをペニスの代わりにしたのよね。」
「ああ、その通りだ…」 ジャヌが愉快そうに笑いながら答えた。
「僕は君にどうしようもなく惹かれていたくせに、君に自分をゆだねるのを恐れた。
あのときははっきり意識していなかったが、
君が言うとおり、君を僕の中に誘い込みたかったんだ。誘い込まれるのではなくね。
僕の後悔は、そのことだけだ。」
ジャヌの低い声が、枯れた井戸に降り込む雨のようにカナを潤していく。
涙が頬をぬらしていることにカナは気付いた。
それはあのつらいことが起きた日からカナが流す、初めての涙だった。
「ねえ、訊いてもいいかしら…」
「もちろんさ、なんでも答えるよ。」
「最初にエレベーターで会ったとき、何故あんなふうに私を見たの?」
「さっき話しただろう、一年前に僕の代わりにここに来た人にずっと会いたかったって。
最初はアンがそうかと思った。
そのうちアンからいろいろ話を訊いて、どうやらそれは君らしいと分かった。」
「アンはなんて?」
「君は最近恋人と別れたみたいだから、きっと寂しがってるだろう、って。
じゃ僕が立候補しようかなと言ったら、あわててこう言ったよ。
カナったら日本に夫がいるのにこっちにもいつも何人も恋人がいるのよ。
その恋人も次々に変わる。だからやめておいたほうがいいわ…」
カナは黙って視線を街の遠くの建物まで泳がせた。
夫の話が出たときのジャヌの様子になにも変化がなかったのが、これでわかった。
「アンの言うことを信じたのね?」
ジャヌが、カナの好きな唇の端だけで笑う笑顔を浮かべた。
「いいや。彼女の話を100%真に受けるほど、僕は女を知らなくはないんだ。」
その言葉にカナも思わず笑った。
「そうでしょうね。」
「君には負けるかもしれないが…」
「ジャヌ…」
「はは、冗談だよ
アンはね、君のことがうらやましかったんだ。夫がいるということがね。
彼女は結婚したがっていた。きっと自分をつなぎとめるものが欲しかったんだろう。」
私を、アンがうらやましがっていた… あんな中身の無い結婚生活を…
アンからときどき感じる対抗意識のようなものの正体に、初めてカナは触れた気がした。
「エレベーターで、すぐに君がその人だとわかった。
僕は密かに観察しようとしたんだ。
ところが君は、僕が君を見るより先に僕を見ていた。
普通日本人はあんなとき目をあわさない。むしろ視線をそらす。
だから思いがけなくて、知らずに強く君を見つめ返してしまった。
いや最初からすでに、君の心の内側まで、僕は見たいと思ってしまっていたんだ。
この女はどういう女なんだろうと。
そのことに戸惑って、あわてて視線をはずした…そんなことも初めてだったよ。」
あの時のジャヌが、どれほどそれまでの男と違っていたかを、カナも思い出した。
「ねえ、ジャヌ、なぜ、アンがベッドにいる部屋に私を連れて行ったの?」
「本当に困っていたのも確かだ。でもなんでもいい、君と親しくなるきっかけが欲しかった。それに…」
「私の反応を見たかった… いいえ、私に火をつけようとした…」
「そこまで計算してたわけじゃない。本当だよ。」
「私があなたとアンのことを誤解したの、わかったでしょう?
なぜすぐにその誤解を解いてくれようとしなかったの?」
「僕が否定したら、君は信じたかな?」
「いいえ、信じなかったでしょうね。いいわけがましい男だと、軽蔑したわ。」
「君たちが友達なら、すぐに真実は伝わるだろうと思った…
でも意外だったな。」
「何が?」
「君が、何故アンのことにあれほど捉われたのか。
アンはパオロに自分だけを見て欲しいと思いつめてて、
他の男を追っかけるのはデモンストレーションだと、僕にはすぐにわかった。
だから君も、アンのことを真剣にはとりあわないと思ったんだ。」
「今度だけは違うような気がして…」
アンがついた小さなウソのことは、言わなかった。
「見たくないもの、恐れているものが、何故かすごくリアルに思えることって、あるでしょう?
きっと、私の目は潰れてしまっていたのよ。最初にエレベーターであなたから浴びた視線で…」
いつしかカナの涙は乾いていた。
ジャヌの大きな手がカナの頬をつつみこみ、指が涙の跡をたどる。
次に唇がそのあとを消していく。
舌が交互にまぶたを行き来し、やがてカナの唇にたどりついた。
その唇が肉体の隅々まで送り込む甘やかな官能を味わいながら、カナは思った。
たとえどんな傷を負おうとも、ジャヌのいない世界など考えられないと。
「ジャヌ、わたし一年前に戻ったとしても、また同じ道をたどるつもりよ。」
「たとえ傷つくとわかっていても?」
「そこを通り抜けなければあなたにたどり着けないなら、同じようにこの道をまっすぐ歩いて来るわ。」
ジャヌの腕が、いっそう強くカナを抱きしめる。
「ぼくもだよ。
君に出会わない筋書きはごめんだ。何度リプレイしても、同じことだ。」
ジャヌの肩にほほをあずけ、目を閉じると、まぶたにきらめく光に永遠が見えた。
コメントを残す