<11>
ジャヌとパオロが買い物から帰ってくると、アンも彼らに加わり夕食の支度を始めたので、
カナはベッドに一人残された。
薬のためか、体の痛みはずっと楽になっている。
しかし心の痛みは、肉体の痛みが薄れるのと反対に、強まっていた。
ファビオの受けたショックはわかる。
誰だって、ついこの間まで付き合っていた女のあんな姿を見せられたら、その女を憎むだろう。
自分が否定されたと傷つくだろう。
そのことに対する罰だと思わないでもなかったが、
もし罰だとしても、私はそれを甘んじて受けたのだ。それで許されてもいいではないか…
彼は何故、ただの暴力だけでは納まらなかったのだろう。
最初私は性的な支配と感じ、次いで報復と感じた。
彼が正確に、私の心の最も痛みを感じる部分に、怒りの鉛の弾をぶち込んだからだ。
その鉛の弾は私という女の尊厳を、いとも簡単に破壊した。
ジャヌに対する欲望や、写真を撮らせたことに、後ろめたさも後悔もなかった。
そもそもこれは、他人にとやかく言われるようなことではない。
他人? そう私はファビオを他人と思い、彼は思わなかった。
いや彼は私を人間とすら思わなかったのではないか。
君は僕のものだ、彼はそう言った。
そうだ、僕のものだと…
カナは今ようやく、自分がなぜファビオから離れようとしたかが分かった。
イタリア人は独占欲が強い、嫉妬深い…だからファビオもそうだと思っていた。
だがそれは単なる独占欲ではない。支配欲とでも言うべきものだ。
愛という名の下に築かれる支配と被支配の関係から、私は逃れたかったのだ。
ファビオが最後に奮った暴力は、支配の究極の形なのだ。
カナはこのことを、単なる事故だと考えてもみた。
もしファビオがあの写真を見なかったら、彼もこれほどのことはしなかっただろうと。
だが離れていこうとするカナを、彼はすんなり手放ししただろうか。
カナが絶対に自分の思うとおりにならないと悟ったとき、彼はどうしただろう。
そして結局同じところに戻ってしまう。
ファビオの荒れ狂う暴力に、殺されるかもしれないと感じた恐れ、
どれほどの抵抗も無駄だと悟ったときの無力感、
押さえ込むしかなかった、行き場のない怒り、
そして失われてしまった何か…
何より、喜びの行為が憎しみからなされたということが、
快楽を与えるはずのものが苦痛しかもたらさなかったということが、耐え難かった。
一時は欲望を満たしあった相手が、ただ奪い、踏みにじっていくだけの男に堕してしまったことが、
受け入れられなかった。
満たしあった?私たちは本当に満たしあったのだろうか…
かつて、ファビオに激しく求められることで、呼び覚まされる深い官能があった。
そこに己を消滅させていく快感、見られ、求められて現れた、ただの一個の女になりきる快感…
しかしその女にはいつしかほころびが生じ、そこから居心地の悪い違和感がこぼれでていた。
その違和感は、ぶつける言葉が少しも沁みていかない、
ファビオの表面を覆う膜のようなものに感じるいらだちと共にカナの中に堆積していた。
ファビオは自分の見たいものしか見ない。
だから違和感も、言葉も、どちらも最後までファビオには届かなかった。
それらはついに片側から流れるだけの一方通行のままだった。
キッチンから話し声や、なにかを刻んだりする音が聞こえてくる。
やがて良い匂いが漂い始めるとカナは空腹を感じ、そのことにほっとした。
これしきのことにへこたえるような私じゃないわと、つぶやいてみる。
けれどもし彼らが帰って、この部屋に、このベッドに一人取り残されたらと思うと、恐怖が襲ってくる。
大丈夫、そのために睡眠薬があるんだからと自分に言い聞かせてみても、
その恐怖は消えなかった。
食卓には真っ白なおかゆと、味噌汁が載っていた。
おかゆの上には梅干まで。
最近はイタリアでも日本食がブームだから、色々な日本の食材が手に入ることは知っていたが、
まさか彼らがここまでしてくれるとはカナも思わなかった。
料理が苦手なアンと、少しだけ中華料理を知っているパオロと、そしてジャヌが、
カナのためにこれを用意してくれたのだ。
「驚いたわ。どうしてこんなことできたの?」
「ジャヌが市場の日本人の女の子に根掘り葉掘作り方を聞いたんだ。でもほんとに、これでいいの?」
ようやくパオロがいつもの口調で言った。
パオロはファビオとかなり親しい友達付き合いをしていたから、今度のことは相当ショックだったのだろう、
今までほとんど口を開かなかった。
自分の嫉妬深さを自覚している彼には、他人事とは思えなかったのかもしれない。
「ええ、美味しそう。
思い出すな。風邪を引いて食欲がないとき、よく母が作ってくれたのよ。」
結局カナは、おかゆとわかめの味噌汁をゆっくりと味わい、
そのあとはアンとパオロの力作の野菜炒めと、かに玉ならぬえび玉もぺろりと平らげた。
カナの食欲に、三人とも安堵の表情を浮かべている。
「ありがとう、みんな。おかげで元気になったわ。すっかりお世話になってしまって…」
「カナ、そんな水臭いこと言わないで。私たちに遠慮は無用よ。」
そうは言っても、これ以上甘えることがためらわれる。
食事をしながらアンは、パオロと過ごすバカンスの計画について話していた。
支度だってあるだろう。そろそろ解放してあげなければ。
ジャヌも…
けれども食事が終わって、いくらカナが大丈夫だからと訴えても、アンは承知しない。
あんたを一人にしておくわけにはいかないと、一歩も引き下がらない。
カナは根負けした。
しかしそれなら、私が今夜一緒にいて欲しいのはアンではない…
カナはジャヌを見た。
ジャヌがうなずく。
「僕が残るよ。」
「そうしてもらおうかな。 まさかジャヌは私を襲ったりしないでしょうし。」
冗談で言ったつもりだったのに、その言葉はぎこちなくテーブルの上に止まった。
「いやだ、ジャヌがそんなことするわけないじゃない。」 ひきつった笑顔でアンが言う。
私はこれからずっと、こんなふうに壊れ物みたいに扱われるのだろうかと、カナの気持ちは余計沈んだ。
「それはどうかな…」 ジャヌの声がおおらかにその場の空気を否定した。
「襲って欲しければ襲ってもいいよ。」
「ジャヌ!」 パオロが驚いた声をあげた。「こんなときに…」
しかしカナは、自分を見つめるジャヌの、まっすぐな眼差しが嬉しかった。
特別扱いにしないことが大きな救いとなることを、ジャヌは知っている…
「OK、ジャヌ。じゃ襲って欲しいときは襲って、って言えばいいのね。
その言葉、覚えておくわよ。
いつ、どこで言っても、約束は守ってよね。」
ジャヌが嬉しそうに笑った。
「頼むからカナ、授業中の学生達の前でとか、夜のポンテヴェッキオの上でとか、言わないでくれよ。」
「さあ、いつ、どこで私がそんな気持ちになるのか、今はなんとも言えないわね…」
こんなやりとりに、パオロもアンも笑い、安心したような表情を浮かべて帰って行った。
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