●「絶対の愛」(原題/TIME)
「私の映画はすべて私のコンプレックスから生まれている」(キム・ギドク)
整形手術が盛んな韓国でなくとも、恋人に飽きられるのではないかという強迫観念から、恋人好みの新鮮な女に変身して彼の気を惹きたい、そのためにはどんなことでもやる、という気持ちは理解できる。
その執着が愛なのかと言われると答えに窮するけれど、
愛の底に黒々と横たわっていることは確かだ。
けれども時と共に移ろっていく人の気持ちのその先に、常に自分の身を置く事など不可能だ。
先回りは、せいぜいが一回くらいしかできない。
それにもし恋人が新しい顔にも飽きたらどうするのか…
だがそんな通俗的な疑問は、キム・ギドクには無縁だ。
セヒはスェヒとなってジウの愛を再び獲得するが、セヒを忘れられないジウによって、スェヒとセヒに引き裂かれていく。
セヒとしては、ずっと忘れないでいてくれるのが嬉しい。
だがスェヒはジウの記憶の中に生きている過去の自分に嫉妬する。
一方スェヒの中にいるセヒはこれで満足なはずなのに、
もうセヒとしてジウの愛を受けることができないことに気付き、おののく。
ヒロイン役のソン・ヒョナが素晴らしかった。
セリフはぎりぎりまで切り詰められている。
ほんの少しの表情の変化が、(観客だけが知っている)彼女の心のうちの言葉を語る。
映画のすごさ、キム・ギドクのすごさ、役者のすごさ。
ジウは真実を知って、お前が怖い(当然だよな)と一旦は彼女の〝愛”から逃げようとするが、やがて自分も整形を決意する。
6ヵ月後、だがいつも会っていた喫茶店に行っても、
スェヒにはあらたなジウの顔がわからない。
ジウかもしれないと思って部屋までついていき、直前に違う人間だとわかる、そんなことが繰り返される。
間違いに気付いて逃げ帰ろうとするスェヒを、レイプまがいに襲おうとした男を、部屋の外に呼び出し暴行を加えたのはジウなのか。
何故ジウはスェヒに自ら名乗らないのか。
ようやく一人の男がジウだとわかる。
かつて手を握り合ったときにスェヒが言った「からだにぴったりあった洋服みたい」
と言う言葉がその男の口から出たからだ。
だが男と寝たあと、「ジウさん」と呼びかけると、彼は応える。
「違うよ、ぼくはジウではなく…」
この映画はとてもコワい映画だけれど、コワサが複雑にからみあって、どんどんねじれていく。
ジウがスェヒの前に現れることの出来ない理由、
それはもう彼がジウではなくなってしまったから。
ジウはもはや、流れてしまった過去の時の中にしか生きてはいない。だからただ、ジウを求めてさ迷うスェヒを、姿を見せずに見守ることしかできない。
関係はもはや取り返しがつかないほど歪み、スェヒの精神もねじれ、やがて破壊されていく。
交通事故という形で、ジウの肉体は悲劇的に失われるが、実はすでに失われていたのだ。 スェヒは亡霊のように整形外科医を訪れ、「全てを忘れたいか」という医者の言葉に頷く。
オープニングのシーンが繰り返される。
病院から出てくるサングラスとマスクをした女。額入りの写真をかかえている。
通りがかった女がぶつかり、額が地面に落ち、ガラスが割れる。
その写真は手術前のスェヒ、まるで死者のように青白く、陰りのある顔。
謝り、落ちた写真を拾う、その女はセヒ。
うなるようなエンディングだった。
オープニングとエンディングがメビウスの輪のように円環しているのは他のキム・ギドクの作品にも共通で、そこに写真が効果的に使われているのも同じだが、この作品ではそれがとても洗練されていて、円環の恐ろしさを見事に語って秀逸だと思う。
そのあたりのワザを楽しむためには、もう一度借りないといけないな…。
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「韓国には整形手術によって、新しい自分を手に入れようとする人がたくさんいます。
整形によって自信を得て、新しい人生を始める人たちも確かにいます。
しかし私には、人々が整形手術を受けた後に、自分の独自の特徴やアイデンティティについて、混乱しはじめるように思えるのです。私は、このような事象を、愛についてのひとつのイメージとして、描き出したかったのです。」
(キム・ギドク「絶対の愛」上映時来日インタビューより)
Q: 作風が以前のものは「痛み」が前面に出ていたが、ここ数年は「痛み」が常に存在しつつも「癒し」の色が濃くなっているが、何か監督の世界観や愛に対する考え、そしてそれらを表現する映画に対する考えに何か変化があったのですか?
監督:私の初期に作った映画『鰐』に始まり『ワイルド・アニマル』『悪い女 青い門』『魚と寝る女』『リアル・フィクション』『受取人不明』『悪い男』『コースト・ガード』までの7本の映画を作っているときの私というのは、「憤怒」が爆発し、加虐と被虐そして自虐といった内容が反復されていた映画だと自分でも思っています。
しかしそれ以降の『春夏秋冬そして春』『サマリア』『3-Iron(空き家)』と作るに連れて、私の作風が変わってきたと自分でも感じています。それは私の社会に対する見方が変わってきたと言えます。世界をもう少し理解し、また和解をし、世の中を今までよりももう少し美しく見ようとする視覚が自分に芽生えてきたと思います。
『春夏秋冬そして春』以降は、過激な表現もあまりしていませんし、どちらかというと、もっと魂と対話をしようと考えてきたと思います。私自身も変わったのでしょう。今日も空港に到着したときに、私を知っている韓国の人が、「監督、なんだか表情が明るくなりましたね」と声をかけてくれました。その時、私は「『春夏秋冬そして春』を撮って以降、少し私も変わったようです」と答えました。
まだ『コースト・ガード』を作っていた頃は、私は世の中に対してとても怒りを感じていて、攻撃的でもあり、また自分自身にコンプレックスも持っていましたが、『春夏秋冬そして春』以降は世の中をもう少し楽に見られるようになったと思っています。しかしこの先どうなっていくかは、私自身も分かりません。
私の映画は大きく3つに分ける事が出来ます。まず一つ目はクローズアップ映画、二つ目はフルショット映画、そして三つ目がロングショット映画と言う事が出来ます。
一つ目のクローズアップ映画としては『悪い男』『魚と寝る女』そして『鰐』です。この3つは非常に人間をクローズアップした映画だと言えます。これは本当に人の近くによって、細かいところまで、そして強い怒りまでを表現した映画です。あまりに近づくと、人間の良いところも悪いところも細かく見えてきますが、そういった事を念頭に置いて作ったのが、これら3つのクローズアップ映画です。
二つ目のフルショット映画としては、『受取人不明』『コースト・ガード』『ワイルド・アニマル』そしてこの『サマリア』です。フルショット映画は人間の全体を観た映画。それは社会の中で人間がどの様に矛盾を抱いているかという点に焦点を当てた映画です。
そして三つ目のロングショット映画には『春夏秋冬そ
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