須賀敦子と歩く…③ トリエステ 下

posted in: 読書NOTE | 0 | 2011/11/27

日本から手配したホテルが、
須賀さんが1990年に泊まったのと同じホテルだと気づいたのは、
旅の計画もかなり進んだころだった。
私が予約したのはレジデンス部分で、レセプションや朝食ルームは共通だが、
部屋は、十字路を斜めに挟んで数件先の、まったく別の建物にあった。
それでも、私も、やはり須賀さんファンの友人二人も、
不思議なめぐりあわせを喜んだ。

トリエステは、ペッピーノが、
「いつかきっと君を連れて行く」と須賀さんに約束しながら、
それを果たせなかったいくつかの街のひとつだ。
彼が亡くなった二年後、69年の夏に、半ば仕事で訪れたときのことは、
「きらめく海のトリエステ」に記された。

二度目に訪れた90年は、最初の記憶をエッセイにまとめてから、
それほど時間のたっていない頃だろう。
「なぜ自分はこんなにながいあいだ、サバにこだわりつづけているのか」
と自問しながらの、たった一日だけの滞在だった。

この日のことは、「トリエステの坂道」となるが、
あこがれと追憶が多くの行を埋める「きらめく海のトリエステ」と違って、
こちらのエッセイでは、不安を映し出すような、夜の到着のこころもとなさや、
心の底に渦巻く問いをはぐらかすように街を歩く様子が、
まさに今のこととして、活写されている。

私たちは、このときの須賀さんの歩いた道を、
それほど忠実に辿ろうとは思っていなかった。
どう歩こうかとの相談も、ただ、
「山の道」と、サバが経営していた書店だけ行けばいいよね、 と、
あまり欲がなかった。
そもそもサバにそれほどの思い入れがあるわけではないので、
詩人が住んでいた家に行ってみても、
なんの感慨も湧かないのは、知れたことだった。
それよりも、ホテルから海までのあいだにある、城や、聖堂や、
ローマの遺跡を見たかった。

サン・ジュスト城からは、港がよく見えた。
弱い秋の日差しでは、空も海もぼんやりと煙っていて、
レンガ色の屋根の色も、遠くに行くにつれて薄くなり、
その向こうの岬は海に溶けるように細くなっていた。

城の中には、エノテカ(ワインを楽しめるレストラン)があったが、
城壁の上も、中庭も、私たち以外ほとんどひと気はなく、ひっそりとしていた。
それはすぐ近くにある教会も同じで、
翌日のサン・ジュストの祝日の準備をする人たちが、
教会のあちこちに散らばっているだけだった。

正面(後陣)のモザイクはきらびやかだけれど、最近のものだとわかる。
左のマリアと右のイエスが中世のもので、
いずれも美しかった。
私たちはお布施によってライトアップされるマリアを、
順番にコインを投じながら眺め続けた。

右の丸天井では、コインを入れる必要はなかった。
その手前の、板絵のような聖人像とあわせて、
ライティングの調整が行われていたからだ。

指図をしていた神父に、タイミングを計って訪ねてみた。
この板のような絵は何なのかと。
続けて、身廊の左右の柱に、
大きな羽根のような棕櫚の葉がくくりつけられているのは何故なのか、と。

絵は(むろんのこと)聖ジュストで、
絹布に、表からも裏からも同じに見えるように描かれている、
6-7世紀のものだよ、とのこと。
棕櫚は聖人のシンボルです。
ほら、この絵でも、キリストの左にいる聖人が棕櫚を手にしているでしょう。
神父は、注意深く見ればわかることなのに、ものを知らない旅人に、
少しも面倒がらずに、ていねいに答えてくれた。
手のひらをこう押し出しているのは、と自分の手を同じようにしながら、
悪を退けようとしているのです、と。
教会の床には、まだたくさんの棕櫚の葉が置かれていた。

「山の通り」は、もういちど城を半周し、
少し下ったところにあるはずだった。
須賀さんが、記憶にあるサバの詩行を頼りに探し当てたのとは違って、
通りはホテルでもらった地図でもすぐに見つかったし、
実際にも、ほとんど迷うことなく行き当たった。
建物の壁に、Via del Monte の標識と隣り合って、
その詩が三行、彫り込まれていた。

悲しいことも多々あって、空と
街路の美しいトリエステには、
山の通り、という坂道がある。

同行のOさんは、とくに手すりにこだわっていた。
その熱意はいつしか残りの二人にも乗り移り、坂道に手すりを見つけると、
感慨深く眺めたり、写真に納めたりしていた。

手すりは、トリエステ名物の北風ボーラに吹き飛ばされないようつかまるもの。
確かにそれは、「きみなんか、ひとたまりもない、吹っとばされるよ」
と夫が妻に語ったトリエステの、
ある種のシンボルのようにも、感じられた。

「山の通り」の手すりは、他のどの通りのものよりも趣があった。
それは壁の様々な色合いの石にもよくなじんで、
人びとをささえてきた重みに少したわみ、
左に大きくカーブする壁が続くかぎり、ずっと続いていた。
私たちは須賀さんとは逆に、坂の上から、急な道を下っていった。

途中に、塗りこめた表面のしっくいがはがれ、
明るい色のレンガが露出した、閉ざされた門があり、
梁の上には十字架が乗っていた。
これが、「荒れはてた、……旧ユダヤ人墓地」だろうか。

坂道の終りが予感されたとき、ふと、「とばくちはユダヤの会堂」という、
訳詩の一行が浮かんだ。
それが口を突いて出たのと、
見上げた建物の正面に、金色に光るダビデの星を見つけたのが、
ほぼ同時だった。

黒っぽい切り石の壁面も、大理石にはめ込まれた星のプレートも、
十字架の門の荒廃とは違って手入れが行きとどき、
建物が現役であることを語っていた。 

私は、「山の道」があまりに短く、あまりに大きく曲かっていること、
壁がまるでカキの貝殻のように味わい深く古びていること、
てすりが少し頼りなげにうねっていること、
そして「ユダヤの会堂」が、(今は博物館として)
あまりにすっきりと立派にそこに建っていたこと、
それらの全てに、胸がいっぱいになっていた。

少し呆けたようになって、坂を下りた。
観客席部分だけが残るローマの円形劇場を、さしたる感慨もなく眺め、
トリエステ名物の、ブッフェと呼ばれる気軽な料理店で、ひとごこちついた。

地元の人でごったがえす店内は、奥のテーブルに座ってみると、
すっかり落ち着ける店に変貌した。
私たちは、予想以上の美味しさの、ゆでたソーセージや、豚肉を、
山盛りの酢漬けキャベツと、キャラウェイの入った黒パンと、
そしてもちろんビールとで、楽しんだ。

それからウィンドウショッピングをして、店が空くのを待ち構えて買物をして、
おしゃれな店が並ぶ通りの、ふと向かい側を見ると、
そこが「ウンベルト・サバ書店」だった。
散策のもう一つの目的を、思い出した。

書店は閉まっていた。
周りの店のように、昼休みというわけではないようだ。
けれども、営業していない、というふうでもない。

ウィンドウには古書がきれいにディスプレイされ、
ガラスも磨かれていた。店の奥を覗き込み、
サバがパイプをくわえて歩いているポスターがかけられているのを、確認した。

私たちは須賀さんにならって、海岸に近いカフェに入った。
同じカフェではない。 印象も、少し違った。
ウィーン風ではあっても、
「そのすべてが、裕福、と定義してよい階層の人たちで」
埋められているわけではなかった。

確かにこの店に、広場にテントを張ってしゃがみこみ、
渡したロープにメッセージをぶら下げていた、
ジーンズ姿の若者たちは、似合わない。
似合うのは、恋人を従えた真っ赤な髪の、
そのままブティックのウィンドウに座らせておきたいような若い女性とか、
奥のカウンターに並んだ、銀髪のシニョーレやシニョーラたちの、
くつろいだ背中だ。

だが、驚いたことに、このカフェはおそろしく居心地がよかった。
座ったとたんに妙に落ち着いてしまうのは、昼のブッフェでも経験していたが、
こんなちょっと気取ったカフェの、
土地の人をも選別するようなところが、 行きずりの旅人を、
これほど当たり前のような顔をして受け入れてくれるのが、とても不思議だった。
このことに、一杯のアペリティフで二時間以上もおしゃべりしたあとで、
ようやく私は気づいたのだ。

すっかり暮れた道を、私たちはホテルに戻った。
たいした距離ではないだろうと甘く見た登りの坂道は、
目を引くしゃれたディスプレイの商店が途切れると、やがて、
一列になって黙々と歩く私たち三人だけとなった。

ひっきりなしに車が上り、下る。
けれども、重い足を引きずりながらも、
人通りのない見知らぬ夜の街を歩く緊張感は、私にはなかった。

須賀さんは、ホテルのスタッフが電話で言った、
「トリエステはまだ安全な街です」という言葉を頼りに、
深夜の街に着いた。
20年後の私たちも、最初の夜の運転手から同じ言葉を聞いた。
でも、それらのことも、あのときの私は忘れていた。

ただ自分の部屋に帰ることだけを思いながら歩いていると、
城につづく道まで来ていた。
角のトラットリアを過ぎると、丘はそこから緩やかな下りとなり、
また商店が現われ始めた。

そこには夕方の少し遅い賑わいが残っていて、
おいしそうな果物や、小さなスーパーマーケットの棚の卵や、
照明に照らされた肉屋の生ハムのかたまりや、
数種類しかないワインのボトルを、自慢げに並べているウィンドウが目を引いて、
すっかり歩き疲れている自分が、悔しかった。

突然の賑わいだった。
自分がこの街でたずねていたものが、
不意にむこうからやってきて、私をとりかこんでいた。
サバが愛したに違いない、
そしてサバが自分のものにしようとしてできなかったすべてが、
そこにはあった。

街にただようフレンチ・フライの匂いは、もうひとつ、
私がトリエステに惹かれる理由に気づかせてくれた。
サバの中にも綿々と流れている異国性、あるいは異文化の重層性。
ユダヤ人を母として生まれただけでなくて、サバはこのトリエステという、
ウィーンとフィレンツェの文化が合流し、
せめぎあう街に生きたのだった。
サバが書店につけた名、ふたつの世界、には
そんな意味も含まれていたのではないか。
そして詩人は痛みとともにそれを知っていた。
ふたつの世界に生きようとするものは、
たえず居心地のわるい思いにさいなまれる運命を逃れられないことを。

「ふたつの世界に生きようとするもの」とは、まさに須賀敦子自身のことだ。
「居心地のわる思いにさいなまれる運命」も。
だがこれは、一度でも自分の「世界」から外に出てしまった人間には、
多かれ少なかれ共通のものであるとも思う。
たとえば私や、おそらくは、私と一緒にトリエステを歩いた二人の友人にも。

だが、そのような人間にとって、「異国性、あるいは異文化の重層性」は、
同時に、居心地のよいものでもある。
私たちが、一瞬旅人であることを忘れて歩いていたり、
料理店やカフェで落ち着いてしまうのも、 トリエステのこの特質のためだ。
それは、運転手や、聖堂の神父や、ブッフェのウェイターや、
街行く人びとを通して、街を覆う空気ともなっていた。

サバがたえずトリエステに戻ったのは、
トリエステが、まさにそのような街だったからであろう。
トリエステがもたらした哀しみが、トリエステによって慰められる。
ルネッサンス一色のフィレンツェなどでは考えられないことだ。
サバの詩には透明な幸福感も漂っているが、
それもまたトリエステのこの特質のためと、考えることもできる。

須賀さんは、「山の道」を歩きながら、こんなことを思っている。

坂は息切れするほど急だった。 塀の反対側は、
白い壁にレースのカーテンをかけた小ぎれいな窓がならんでいる。
手編みレースの縁がついたカーテンといい、窓のがっしりとした大枠といい、
これもまたイタリア風というよりは、オーストリア的だ。春が来ると、
白壁に映える赤い花のゼラニュームの鉢がこの窓辺を飾るのだろう。
花の鉢を置いたこんな窓のある家に暮らすのもわるくないかな。

あの、北風に逆らって歩くのが困難の極みのような坂道で、 
須賀さんが見たのは、たわんだ手すりではなく、花のある窓辺だった。

そういえば、イタリアの西のジェノバも、
歴史的・文化的「重層性」を持った港町だが、
猥雑で無国籍な裏通りと、エレガントな邸宅が並ぶ通りは、
非連続的かつ劇的に重なっていて、その重なりを歩くのは、
迷路にまよいこんだようで楽しくはあっても、
人をくつろがせてくれるものではない。

だが、トリエステでは、丘とそれに続く急な坂道と、
広場とその先の海、といった異なった街並みが、
個性ある、あるいは無個性な街路によってなめらかに繋っている。
重層性が、いつのまにか、途切れることなく混ざり合っている。
「とげのあるうつくしさ」を秘めながらも、
いや、だからこそ一層優美に、親しさに満ちて。 

「実像のトリエステにあって、たぶんそこにはない詩の中の
虚構をたしかめようとするのは、無意味ではないか」
須賀さんの疑念は、トリエステそのものの魅力に出会い、消えていった。
サバのトリエステが、須賀敦子のトリエステに、なったのだ。

翌朝、湾を大きくカーブしてヴェネツィアに向かう列車の窓から、
海の向こうに遠ざかるトリエステを眺めて、私は、
イタリアにありながら異国を生きつづけるこの町のすがたに、
自分がミラノで暮らしていたころ、
あまりにも一枚岩的な文化に耐えられなくなると、
リナーテ空港の雑踏に異国の音をもとめに行った自分のそれを重ねてみた。

何故須賀敦子がこれほど人気があるのか? という、
今回あれこれ読み返していて膨らんだ疑問に対する答えも、
ここにあるような気がする。
須賀敦子は、私たちにとってのリナーテ空港であり、トリエステなのだ。
「一枚岩的な文化」に、耐えられない、ほどではなくても、
閉塞感からつかの間抜け出して、ほっと息をつげる、
「異国性、あるいは異文化の重層性」を見せてくれる窓、
あるいは、その先に続く道へ、歩みを進めるための扉。

 

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