須賀敦子と歩く…② トリエステ 上

posted in: 読書NOTE | 0 | 2011/11/26

トリエステは、明るい街だった。
雨の多い季節の旅だったが、
トリエステを歩いた最初の一日は青空がのぞいていたので、
よけいそう感じたのかもしれない。
あるいは、海に突き出た埠頭が、街の遊歩道の続きのように、
ゆったりと無防備に、波の間にのびていたからかもしれない。
でも、何よりも明るさを与えていたのは、
空と海に向かってシンプルに開けた、街の中心となる広場と、
周囲の建物の軽やかさだったと思う。

到着の日の夜、空港から乗ったタクシーの運転手は、聞かれもしないのに、
今過ぎたのが中央駅、この先はウニタ(統一)・イタリア広場、
白い宮殿はジェネラリ保険の本社で、隣は船会社、あ、さっきのは市庁舎で、
みんなオーストリア風だ、トリエステはオーストリアの街なんだ、と、 話してくれた。

街を離れる日に乗ったタクシーでも人懐っこさは同じで、
似たような説明を逆に繰り返し、名物料理を教えてくれたあと、
どこから来たのかと訪ねる。
日本だと応じると、すかさず、日本人は初めて乗せたと私たちを笑わせた。
「地球の歩き方」にも載っている街に、それはないだろうけれど、
案外本当かもしれない。

確かに、フィレンツェやローマのいたるところで見かける日本人観光客には、
一人も出会わなかった。それどころか、
思い返してみても、そもそも観光客らしい人がいなかった。

トリエステは北イタリアの東のはずれ、
アドリア海を回り込んで、スロヴェニアにくい込んだような細長い街。
国境は東と南の二面を囲んでいる。

このような立地ゆえ、古代ローマの時代から、
人や物が行き交う商都として、また防衛上重要な港町として栄えた。
小さいけれども、ローマの都市であった証の円形劇場や、
フォロ(広場)の遺跡が残っている。

そればかりか、帝国が滅びたあとの中世の城もあれば、
ゴシックの教会もある。
そして近・現代までの、周囲の国が奪い合った挙句の、
ハプスブルク家のなごりの宮殿と、イタリア統一広場、なのである。
トリエステの明るさが、海岸に近い、
歩きやすい平坦な通りや広場を覆っていたにしても、
その影は、背後の丘の城塞や、曲りくねった急な坂道をたどるまでもなく、
“オーストリア”を強調する運転手の言葉のなかに、既にある。

そして私の中には、須賀敦子のトリエステと、
彼女をトリエステに導いた、ある詩人の街が、既にあった。

トリエステが私にとって、他のイタリアの街と決定的に違うのは、
須賀さんのエッセイで初めて知ったということがある。
その印象があまりに強くて、ここだけは、
須賀敦子を胸に置いて歩くしかないと、思っていた。
この街を訪れた須賀さんが、既に自分の中にあるイメージと、
それを与えてくれた人を思いながら歩いたように。

トリエステは須賀敦子にとって、
イタリア語を学ぶために滞在し、イタリアへの扉を開いたペルージャや、
暮らしと思索の両方で根を張ったミラノや、
カトリックから「ヨーロッパ」に入った彼女が、
古代の思想と感覚に目覚めたローマなどとはまた別の、重みを持った街だった。

まだ留学の日も浅いころ、『鳥、ほとんど散文で』という題に引かれて、
サバの詩集を買って読んだことがある。
イタリア語がやさしい、とは思ったが、
それ以上なんということなく月日がたった。
ところがやがて結婚した相手は、部類のサバ好きだった。
しかし、彼は私にその偉大さの秘密をすこしも説明することなしに、
ただ、その詩集をつぎつぎとわたしてくれた。
そして、サバの名といっしょにトリエステという地名が、
私のなかで、よいワインのように熟れていった。 
(「きらめくく海のトリエステ」/『ミラノ霧の風景』所収)

須賀敦子にとってのトリエステも、 実際の出会いより先に、
詩人サバによって、サバを愛した夫ペッピーノによって、
イメージが出来上がっていた街だった。
「サバが書店主だったこと、彼が騒音と隙間風が大きらいだったこと、
そして詩人であったことから、私のなかでは、
ともするとサバと夫のイメージが重なり合った。
しかもその錯覚を、夜、よくその詩を声をだして読んでくれた夫は、
よろこんで受入れているようなふしがあった」と記すように、
サバの街は、ペッピーノの街でもあった。

トリエステには冬、ボーラという北風が吹く。
夫はその風のことを、なぜかなつかしそうに話した。
瞬間風速何十メートルというような突風が海から吹き上げてくるので、
坂道には手すりがついていて、風の日は、吹き飛ばされないように、
それにつかまって歩くのだという。
「きみなんか、ひとたまりもない、吹っとばされるよ」
と夫はおかしそうに言った。

須賀さんを通して浮かび上がるトリエステは、
けっして華やかなウィーン風だけの街ではない。
それはエッセイに引用しているサバの詩を読むと、一層はっきりとしてくる。

多くの悲しみがあり、
空と町並みのうつくしいトリエステには
「山の通り」という坂道がある。
……坂の片側には、忘れられた
墓地がある。葬式の絶えてない墓地。
……ユダヤ人たちの
昔からの墓地。ぼくの想いにとっては
とてもたいせつな、その墓地……
(「きらめくく海のトリエステ」略部分もそのまま)

後の翻訳では、訳語が更に吟味されている。

悲しいことも多々あって、空と
街路の美しいトリエステには、
山の通り、という坂道がある。
とばくちがユダヤの会堂で、
修道院の庭で終わっている。道の途中に小さな
聖堂があり、草地に立つと、人生のいとなみの
黒い吐息が聞こえ、そこからは、船のある海と、岬と、
市場の覆いと、群集が見える。
それから、坂の片側には、荒れはてた
墓地。ぼくの記憶にあるかぎり、
絶えて、葬式も、埋葬もない、
旧ユダヤ人墓地。そこにいるのは、
ぼくの想いにとって大切な、
苦労を重ね、商売にあけくれて、
葬られた、たましいも
顔も同じな、ぼくの先祖たち。
(「三本の道」より/『ウンベルト・サバ詩集』 須賀敦子全集第5巻所収)

「三本の道」にはこの前に、
「トリエステには、閉ざされた悲しみの長い日々に
自分を映してみる」旧ラッザレット通りと、
「山の通りは聖なる思い出の道だが、
歓びと愛の通りは、ドメニコ・ロセッティ街」と、
幸福な時間をうたう通りも描かれているが、

やはり須賀さんが引用した「山の通り」が、
後年の訳詩を丸ごと読むと、とりわけ印象深い。

「きらめく海のトリエステ」では、サバの出自については、
母がゲット出身のユダヤ人だったことと、
この「山の道」が、かつては「絞首刑通り」と呼ばれたいた、
そんな哀しい場所に、ユダヤ人は墓地を与えられていた、と、
短く触れているだけである。

いや、つづいて、「ユダヤ人にたいして、どういうわけか、
夫はいつもふかい愛情を示していた。おそらくは、
聖書にある彼らの流浪の運命に共感してのことだったに違いない。
また、第二次世界大戦中、
反ナチスの抵抗運動にたずさわってユダヤ人をかくまった世代の、
それはひとつの生のあかしだったのかも知れない」
と、語られてはいる。

だがこの部分を、私はさらりと読み流していて、
長いあいだ深く考えることもなかった。

イタリアのユダヤ人たちが被ったホロコーストについては、
漠然とした、類推に近い、ばらばらな知識しか持っていなかった。
何本かの映画で、緊迫の時代を生きた人びとの姿に触れてはいたのに、
(たとえば、あのロベルト・ベニーニの、「ライフ・イズ・ビューティフル」や、
イザベラ・ロッセリーニ主演の「二人のトスカーナ」とか)
ユダヤ人狩りやホロコーストそのものを、イタリアの特定の場所や、
特定の人に結びつけて考える視点も、
総合的にことを見るための情報も、持ち合わせていなかった。

ゲットという呼び名がヴェネツィアから始まったことは知っていたのに、
そこを初めて歩いたのも、シナゴーグを「見学」したのも、
ローマの「ゲット」を意識的に訪ねたのも、この4-5年ほどのことだ。
それには、河島英昭氏の「イタリア・ユダヤ人の風景」を読んだことが大きい。

この本には、ローマやヴェネツィア、フェッラーラ、そしてトリエステといった、
「ゲット」のあった街と、そこに住むユダヤ人が、
ホロコーストの当事者として描かれていた。

1943年、ムッソリーニが失脚すると、
ナチスは即座に北イタリアに侵攻する。
それは、連合軍による解放がローマ、フィレンツェと北上する直前にあっても、 なお、
トリエステに「絶滅(中継)収容所」が作られる、苛烈な日々の始まりだった。
イタリアの他の地域から運ばれてきたユダヤ人たちは、
それ以上の旅に耐えられない者はここで殺され、
耐えられる者たちは列車で、アウシュビッツに搬送された。
もと精米所だったこの「リジエーラ・ディ・サン・サッバ」は、
今は博物館となっている。

トリエステが持つ暗い記憶が、あまり表立って語られないのは、
それがヴェネツィアの支配やオーストリアの占領と同じ、
ひとつの歴史となっているからだろうか。
それとも、誰もあえて口にだす必要などない、
まだあまりに近しいことだからか。

散策の途中で買い求めたサバの詩のアンソロジーを、
辞書をひきひき、やっと最初の数ページだけ読んだ。
詩に入る前のイントロとして、サバのバイオグラフィーや、
解説が書かれていた。

そこには、1938年、「人種法」が制定されたあと、サバは一時パリに逃れたこと、
ナチ占領下では、 フィレンツェで家から家に隠れ歩いたことなどが、
年代を追って簡潔にまとめられているだけだ。

おそらくこれだけで、イタリアの、あるいはヨーロッパの人々は、
ことのほぼ全貌を理解することができるのだろう。
だが、私たちは違う。

トリエステのうつくしさにはとげがある。
たとえば、花をささげるには、あまり
ごつい手の、未熟で貪欲な、
碧い目の少年みたいな。 (『トリエステ』「きらめく海のトリエステ」所収)

このようなことを頭において読むとき、
この詩も、「三本の道」も、また異なる意味合いを持つ。

だがサバは、パリ滞在からいくらもたたないうちに、
「仲間と一緒に、水平線に現われた恐怖に立ち向かう為に」イタリアに戻る。
ローマでは詩人ウンガレッティがサバを守った。
フィレンツェでは、 作家カルロ・レーヴィや、
詩人エウジェニオ・モンターレが、 彼を支えた。

そしてトリエステが解放されたのち、故郷に戻る。
サバは何度もトリエステを離れるが、そのたびに必ずトリエステに戻っている。

サバの詩から感じられるのは、孤独と、重い人生と、 悲しみに満ちた愛。
だがそれらは、トリエステのひっそりとした通りや、
ダルマチアに続く海辺の明るい光によって、しっかりと受け止められていた。
トリエステは、決してそれらを跳ねのけることはなかったのだ。

トリエステを歩き、サバを読むとき、
「ユダヤの哀しみ」に過剰に囚われることは、むしろ戒めるべきかもしれない。
言葉少なく語る須賀さんのように、しっかりと背景に置く必要はあるにしても。

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