上善水の如し、沢木耕太郎の文章を我が家ではこうたたえている。
時々目にする朝日新聞の映画評など、
まさにさらさらと流れる水の如きなめらかさである。
うまい(ときにうますぎる)。
もちろん、『深夜特急』は面白く読んでいた。
『旅する力』は、前半は『深夜特急』に至る道と、
旅を終えて帰国するまでの話である。
著者は旅の定義として、大言海の、
《家ヲ出デテ、遠キニ行キ、途中ニアルコト》
というのが一番的を射ていると書き、
小学生の頃から始まる旅の遍歴を、
「旅を作る」「旅という病」「旅の始まり」「旅を生きる」(前半)として綴る。
『深夜特急』の、香港からひたすら西に、乗り合いバスで移動する陸路は、
気候や水や食べ物に徐々に慣れていくことができたために、
「理想のルート」であったようだ。
移動していくとき、土地に慣れていくのと同時に、
少しずつ異なっていく変化もあったはずだ。
それがイスタンブールに入ったときは少し違った。
「ああ、自分はついに西洋に足を踏み入れたのだなと思った」。
イスタンブールは、東から西への、大きな転換点だったわけだ。
続けてこう記す。
「ところが、ヨーロッパから下がってきた人によると、
イスタンブールに入ったとたん、ああ、これからは東洋なんだと思ったという」
しかし境界は、どちら側からたどり着いたかとは別に、
常にこのような両義性を持つものだ。
確かに私も、西洋しか知らずにイスタンブールに行ったのなら、
ここは東洋だと、思ったかもしれない。
だが、と思いなおす。
その西洋とはどこのことだろう。
少なくとも西ローマ帝国のビザンチンを見た後であれば、
やはりまだここは西洋だと、思ったのではないか。
私が西洋で一番東洋を感じたのはブルガリアであった。
イコンの宗教画や、リラの僧院の木造の修道院に、「東」を強く感じた。
あのときは、ヴェネツィアやラベンナのビザンチンを見た後だったのだが、
いまだキリスト教世界の領域のなかに、
明らかに「西」にやってきた「東」を感じたのだ。
去年シリアとヨルダンで見た古代の遺跡は、
「東」よりむしろ「西」だった。
私の東と西の境は、今はあのあたりから、ブルガリア、
イスタンブールと、ひろがってしまった。
ボスポラス海峡は簡単に渡れる川ほどの幅しかないし、
古代、地中海世界では、海路は陸路より確かな道だったのだから、
境界はもともと行ったり来たり、広がったり狭まったり、していたのである。
バンコクで出会った日本人駐在員の言葉に、
沢木耕太郎が深く共振したことも、印象に残った。
「しかし、外国というのはわからないですね」
そして、さらにこう続けた。
「ほんとうにわかっているのは、わからないということだけかもしれないな。知らなければ知らないでいいんだよね。自分が知らないことを知っているから、必要なら一から調べようとするに違いない。でも、中途半端に知っていると、それにとらわれてとんでもない結論を出してしまいかねないんだ。どんなに長くその国にいても、自分にはよくわからないと思っている人のほうが、結局は誤らない」
なるほど、と私は思った。彼が商社員なのか大使館員なのかはわからなかったが、外国にいる日本人の中にこのような人がいるということに、私は救われるような思いがした。旅の早い時期に彼らと出会ったことで、その後の私の旅は大きな影響を受けることになった。
旅とは、訪れたその土地のことを自分は何も知らないのだ、ということを、
自分の体でしっかりと知るために出かけていくもの。
先日イスタンブールで、私も同様のことを思って帰ってきたばかりだ。
旅に関する考察が続く。
フレドリック・ブラウン『シカゴ・ブルース』から。
「おれがいおうとしたのはそれだよ、坊や。窓の外を見たり、なにかほかのものを見るとき、自分がなにを見てるかわかるかい? 自分自身を見てるんだ。ものごとが美しいとか、ロマンチックだとか、印象的とかに見えるのは、自分自身の中に、美しさや、ロマンスや、感激があるときにかぎるのだ。目で見ているのは、じつは自分の頭の中を見ているのだ」青田勝訳
ひとり旅の道連れは自分自身である。周囲に広がる美しい風景に感動してもその思いを語り合う相手がいない。それは寂しいことには違いないが、吐き出されない思いは深く沈潜し、忘れがたいものになっていく。
もちろん、せめて夕食のときくらいは誰かと話しながら食べたいと思う。しかし、相手のいないひとり旅では、黙って食べ物を口に運ばなくてはならない。寂しいと思う。しかし、その寂しさを強く意識しながらひとりで食事をするとき、そのひとりの時間が濃いものになっていく。
ほとんどの行程を乗り合いバスで移動した著者は、
まさにバスの「旅の窓」に映る自分自身を道連れに、旅をしたのだ。
さらに胸にせまるのは、旅に倦んだ人びとの描写だ。彼らの倦怠は、
ある程度長い旅をした人だけにまとわりつくもののような気がする。
デリーで、アムステルダムで見かけた旅人、
ぼんやりと安宿のベッドで天井を見つめているこれらの旅人が、
『オーパ!』で虚無を抱えていた開高健を思い出させる。
彼の、どこかの旅先での後姿のようなものが浮かび、
これらの人々に重なる。
だが、沢木耕太郎は重ならない。
優れたノンフィクションライターである著者は、
その倦怠と虚無に感応しながらも、
ぎりぎりのところで「こちら側」にとどまっているように見える。
そういえば開高健は、『オーパ!』で、
常に自分のことを「小説家」と呼んでいた。
これは、フィクションの世界に踏み込んでいくか、
ノンフィクションの世界にとどまるかの、資質の違いかもしれない。
後半は、帰国後『深夜特急』出版までと出版後のはなし。
「一便」「二便」を書くまでに10年、「三便」はその6年後。
「旅」には熟成が必要ということだ。
以下、付箋をつけた箇所。
・旅で得るものと失うもの。
自分はどこでも生きていくことができるという思いは、どこにいてもここは仮の場所なのではないかという意識
を生む。
・異国の不条理
–異国をうろついていた私は、異国に在るということの根源的な恐ろしさをまったく自覚しないまま歩いていた。
自分の育った国の法律や論理や常識がまったく通用しない不条理な世界。
本来、異国とはそういったもののはずだった。
この「不条理な世界」「根源的な恐ろしさ」を描き出したのが、
ポール・ボウルズだ。『シェルタリングスカイ』しかり、短編しかり。
彼はこの怖さを、「旅」だけでなく、「旅」を超えて描いた作家だと思う。
・移動の風、アクションとリアクション
旅を描く紀行文に「移動」は必要な条件であるだろう。しかし、「移動」そのものが価値を持つ旅はさほど多くない。
大事なのは「移動」によって巻き起こる「風」なのだ。
いや、もっと正確に言えば、その「風」を受けて、自分の頬が感じる冷たさや暖かさを描くことなのだ。「移動」というアクションによって切り開かれた風景、あるいは状況に、旅人がどうリアクションするか。それが紀行文の質を決定するのではないか。
・一線を越える、越えない
ポール・ニザンが『アデン・アラビア』で《一歩アシを踏みはずせば、いっさいが若者をダメにしてしまうのだ》と言ったのは二十歳についてだったが、それは若者のすべてに、若い旅人のすべてに言えることでもあるのだ。私は結果としてその「一歩」を踏みはずさずに済んだ。
帰ってくるのが「旅」であるのなら、
では、行ったままになるのは「旅」ではなくて何なのだろう。
でも、小説はその一線を越えて書くこと、なのではないか。
ゆえに、沢木耕太郎は、優れたドキュメンタリー作家なのだと、ふたたび思う。
いずれにしろ、彼には帰ってくる「運」(私には資質に思える)が確かにあった。
「旅の行方」「旅の記憶」と続き、最終章「旅する力」は、
具体的かつ基本的な、帰ってくる「旅」の極意。
【11/9 追記】
「旅」の定義に、確かに「帰ってくること」は必須だろう。
いまだ途上にあることが「旅」であるにしても、
帰ってきて初めて「旅」は完結する。
再び『オーパ!』を思う。
開高健は黄金の魚エル・ドラドを追って旅に出た。
沢木耕太郎の旅の目的は、
陸路ユーラシア大陸を東から西に横断することだ。
エル・ドラドは黄金郷の呼び名でもある。
幻の魚はその名の通りたどり着くこと叶わず、
一方ユーラシア横断は無事達成される。
人が旅に出るのは、非日常を求めてである。
あるいは、ここではないどこかへ向けて、
日常から逃げて行くこと。
沢木耕太郎がアムステルダムやデリーで見た「倦怠」とは、
旅が日常と化してしまった者の「倦怠」だ。
日常化とは、帰るところがなくなること、
今いるところが、うらびれた仮寝のベッド一台のスペースが、
世界でただひとつの、己の居場所となること。
「ここではないどこか」などどこにもなかったという、寂寞とした苦い自覚。
沢木耕太郎が、なんとしても日本に帰ろうと決意するのは、
この旅の変容に対する自己防衛本能ゆえだ。
彼はまだ26歳で、帰るべき場所は確固としてあった。
目的は達せられた。
いや、真に目的を達成するためには、
帰ることによって、旅を「旅」としなければいけない。
ノンフィクションライターとして順調に歩んでいた作家には、
この旅を書くということが、最終目的として見えていたはずだ。
さて、『オーパ!』の倦怠である。
これは旅の日常化による倦怠ではない。
小説家はすでに、エル・ドラドなどどこにもないことを、
誰よりもよく知っている。
並外れた非日常を数多く「旅」した彼は、驚くことにこのときまだ40代。
私の印象は、すでに「人生の全てを見てきた人」であった。
「全てを見てきた人」は、「旅」がその途上にある限り、
エル・ドラドがどこかにあるという幻想を、
己に信じさせる力を持つことを、知ってもいる。
そしてその途上こそが「エル・ドラド」だということも。
「旅」はここで、もう一度変容している。
その変容が、「帰っていかなければならない倦怠」を照らし出す。
待っているのは、ぽっかりと口をあけた、空漠とした日常。
「旅」とは、人をこのようなところにまで連れて行く、
実に危険なものでもある。
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