須賀敦子と歩く…① ミラノ

posted in: 読書NOTE | 0 | 2011/10/30

11月のはじめに、トリエステからヴェネツィアをプライベートで廻ることになって、
須賀敦子のエッセイを読み返している。

これらの地域、とくにトリエステを選択するのに、
須賀さんのエッセイが大きな役割を果たしているので、せめて、
「ヴェネツィアの宿」と「トリエステの坂道」ぐらいはおさらいして行こうと思った。

ところが、トリエステとヴェネツィアに触れている箇所は上記二冊だけでなく、
複数の本に渡っているので、それらを拾い出しているうちに、
ついその前後も読みふけってしまい、
気がついたら、まるまる一冊を次々に読み継ぐ結果となっている。

そうして読んでみると、二度・三度と読んだはずの本でも、
ほとんど、いやすっかり忘れている箇所がある。
10年以上、あるいは20年もたっていればこんなもんだよ、とも思うけれど、
同時に、私は須賀さんの何を読んでいたんだろう、という、
読んでいたそのときの自分への疑問もある。
全てのものは、ひとの言葉も、絵画も、本も、
そのときそのひとの受け入れ幅や能力の分しか受け取れない、
あるいは、ひとはその対象のなかの、見たいものしか見ない、
ということではあるにしても。

もうひとつ、今年の夏は須賀さんがらみで印象的なことがあった。
古い知人のKさんとN子さん夫妻が、友人たちを誘ってイタリアに行くというので、
あれこれお手伝いをした。
Kさんから、実はN子さん、須賀敦子の大ファンなんだ、
だからアッシジに行きたいって言ってて、と初めて明かされて驚いた。
イタリア好きの人たちに須賀さんのファンは多いけれど、
これまで二人の関心は、北欧やドイツに向けられているとばかり思っていたので、
ちょっと以外だったのだ。

さらに驚いたのは、N子さんから、ペリクレ・ファッツィーニの美術館に寄りたいから、
ちょっと調べて欲しいと、リクエストがあったことだ。
現代彫刻の作家であるファッツィーニのことも、
彼の個人美術館がアッシジにあることも、 私は知らなかった。
N子さんは、ほらここに書いてあると、「時のかけらたち」を書棚から出してきた。
私はこの本も読んでいるはずなのに、 
ファッツィーニについてはまったく記憶に残っていなかった。

夫妻は帰国すると、2500枚の写真と、長いビデオを見せてくれた。
そこには、私も(めずらしく)須賀さんのことを頭に置いて歩いたことのある、
ローマのヴィア・ジュリアという通りや、
N子さんが絶対訪ねたいと言っていた、
ミラノのコルシア・デイ・セヴィ書店があった。

この書店は、「コルシア書店の仲間たち」に描き出された、
須賀さんがイタリアに渡るときの(ひそかな)目的のひとつであり、
その目的が叶って実際に関わるようになった後は、
イタリアでの暮らしと人間関係、思索と行動の核となり、
なにより、彼女の文学を育てる学校ともなった場だ。
夫となるペッピーノ・リッカ氏とも、この書店を通じて出会っている。

だが、その書店は、創設者である二人の神父が運営から距離を置くようになり、
カトリック左派の活動理念と、 経営実務両方の中心を担っていたペッピーノが、
須賀さんとの6年の結婚生活を経て亡くなったあと、
この場所から引っ越している。

正確に言うと、急進化する書店を切り離すため、
母屋となるサン・カルロ教会から追い出されたのだ。
以後、コルシア・デイ・セルヴィという名前を使うことも禁じられた。
つまり、当時のコルシア・デイ・セルヴィ書店は、名前も実態も、
今は須賀さんの「コルシア書店の仲間たち」の中にしかないのだ。

それでも、当時と同じ場所にあるサン・カルロ書店は
須賀敦子ファンの聖地となっているようで、
K氏が店主に、自分たちがここを訪れた目的を説明しようとして、
須賀さんの本をバッグから取り出すのに手間取っていると、
もういい、それがどういう本かわかっている、アツコのだろう、
出さなくていいよ、と言われたという。

彼らは帰国の日の早朝、(まだ眠っている?)友人たちをホテルに置いて、
タクシーを飛ばして、須賀さんとペッピーノが暮らしたムジェッロ街のアパートと、
ペーピーノが結婚まで母親や弟と暮らし、須賀さんも何度も訪れ、
リッカ家の物語を織りこんだエッセイに印象深く登場する鉄道官舎も、訪ねていた。

私は、アパートの窓や、鉄道官舎の写真を眺めながら、
しみじみと、彼らの情熱の前により明らかになった、
私の情熱の欠如について考えた。
何故私は、今までほとんど、彼らのように、
須賀さんゆかりの場所を訪ねようとしなかったのだろう。
彼らよりはるかにその機会は多かったのに。

実は、夫妻と友人たちの旅に先立つ8月、私もミラノに行った。
今、あまりまじめに読んでいなかった「須賀敦子のミラノ」(大竹昭子・著)を取り出し、
地図を見ると、 私が泊まったホテルからサン・カルロ書店は、目と鼻の先だ。
ムジェッロ街のアパートと鉄道官舎は、
リナーテ空港に着いたあと、ホテルに向かう道筋だった。

N子さんがサン・カルロ書店に行くというので、 私は、
行ったことないから、絶対写真撮ってきて見せてね、
などと頼んでいながら、自分で行けばいいとは、ついぞ考えなかった。
アパートや鉄道官舎に至っては、その存在を思いつきもしなかった。
これではファンを自認する人間として、あんまりではないか。

それでもったいないとも、残念とも感じていないのは、
もともとこの手の志向性が私にないからではあるけれど、
それにしてもなあ……、と、初めてわが身を振り返ってみたのだった。

 

そもそも私は、須賀敦子のエッセイの、何に惹かれたのだろう。

1990年11月、私は、旅と呼ぶには長く、住んだと言うには短い、
6ヶ月という中途半端なイタリア滞在を終えて帰国した。
「ミラノ霧の風景」が出たのが12月。
手にとったのが年内だったか、年があけてからだったかは覚えていない。
いずれにしても、帰国直後の、ぽっかりとした内面の空洞を扱いかねていた私は、
須賀さんのエッセイを貫く喪失感に、たちまち感応してしまった。

突然、霧の向こうに友人の弟が行ってしまった、冒頭の、
「遠い霧の匂い」は鮮烈だった。
彼は本当に霧のために命を落としたのだが、
そのことが明らかになる前の、ミラノ名物の霧が流れるいくつかの風景が、
喪失に続く、あるいは喪失を孕んだ心象風景ともなる。
それらの描写は、最初精緻な前奏曲のようにも感じられるが、
気づいてみると、主旋律でもあるのだった。

だが、私が、二度読んでも、三度読んでも必ず泣いたのは、
ガッティとマリア・ボットーニの章で、彼らの死を告げる一行だった。
その死は、見知らぬ人の個人的な最後ではなく、
少しずつ失われていたのに、そのことにすら気づかなかったものの、
決定的な喪失の顕現であり、宣告だった。
悲しいのは、失われつつあったと気づいたときには、
もう取り返しがつかないということだ。
喪失感の大きさは、死という切断にあるのではなく、
死に至る長い時間のなかの、もう埋めることの叶わない空白にある。

20年を経て読み返してみたら、涙は流れなかった。
ああここで泣いたな、と思いながら、
ガッティやマリア・ボットーニが久しぶりに会った友のように懐かしかったり、

すっかり忘れていた人たちを再発見できたことが、嬉しかったりした。

泣かなかったのは、ガッティやマリアにしても、他の人々にしても、
一筋縄でいかない人生を歩んだ姿が、
深い陰影を帯びてくっきりと描写されているのに、
あらためて魅了されたからでもある。
彼らはあまりに生き生きと、切なく、そこに生きている。
須賀さんのなかに生きていた像が、あらためて命を与えられている。
須賀敦子が描き出したのは、喪失だけではなく、蘇生でもあった。

そしてもうひとつ、もう泣かないのは、あのときから今までのあいだに、
私も親しい友が遠くに行ってしまった経験を、持ったからかもしれない。

彼女も、ミラノの人だった。
世界を放浪した果てに、日本で19年暮らした。
最初は、友達みたいなイタリア語の先生、だったのが、
すぐに、イタリア語を教わっている友達に、変った。
一度一緒にイタリアに行こうと約束していたのに、
亡くなる10ヶ月ほど前の早春には二人ともミラノにいたのに、
その数ヵ月後に白血病が発症することも知らず、
時間の都合がつかないのを嘆きながら、電話で話しただけだった。
 
けれども、私の中のGが、決していなくなったわけではないことを、
私は知っている。
Gとは、もう私の中でしか会えないということも。

私が須賀さんのミラノを歩く気がしなかったのは、
あのミラノはもうどこにもないと、かたくなに思い込んでいたからかもしれない。

それでも20年たって須賀さんのミラノを読み返してみたら、
昔は記号に過ぎなかった通りの名前に、個人的な記憶が甦るものがあった。
たとえばスパーダリ通り。
ドゥオーモを正面に見て、右と左を庶民的と貴族的に分けてみせた須賀さんが、
庶民的な街並みとして、紹介している通りだ。
私はそのことを完全に忘れたまま、この通りのホテルに二度も泊まっていた。

魚屋や八百屋が軒を連ねる通りだったのが、
高級惣菜店が出来て少し趣が変ってしまったという。
その惣菜店で買ったものを思い出したり、
須賀さん、あの頃も、あの通りに、秋になると絶品のマロングラッセや、
チョコレートでコーティングしたほおずきが並ぶお菓子屋さんはありましたか、
などと、心の中で問いかけたり。

その発見が、須賀さんのミラノと私のミラノが重なったようで嬉しかった。
それが私の記憶の中で重なったのが嬉しかったし、
恣意的でない重なり方であったのが嬉しかった。
それぞれの歩んでいる道が、ほんの偶然交わった、そんな嬉しさだった。

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