<第一章> “…una storia nascosta dietro la nebbia…”
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列車がパドヴァを過ぎると、
ジンはバッグの中から大振りの日記のようにも見える一冊のノートを取り出した。
固い表紙はブルーの水紋を描くマーブル紙で覆われ、背には紺色の革が貼られている。
昔から変わらずにヴェネツィアの古びた小さな店の奥の工房で、
ひっそりと作られてきたハンドメイドのノートだ。
表紙の真ん中から少し上にはイタリア語で、水の流れに浮かび上がるように、
濃い青のインクでタイトルが書かれている。
“…una storia nascosta dietro la nebbia…”
ウナ・ストーリア・ナスコスタ(隠されたある物語)と、
冠詞と名詞と形容詞がきれいな響きで韻を踏み、
ディエトロ(~の背後に)という副詞を挟んでまた、
ラ・ネッビア(霧)と冠詞と名詞で同じ韻が繰り返される。
このノートを見せられたときどう発音するのかと問うと、
ドクドは、ウナ・ストーリア・ナスコスタ・ディエトロ・ラ・ネッビアと、
滑らかに、歌うような抑揚をつけて読んだ。
続けてジンも、ドクドを真似て同じように読んでみた。
6つの単語の連なりは聞く耳にも美しかったが、自分で発音しても、
慣れない動きを終えた唇と舌の先に余韻が残り、なかなか心地よかった。
ノートはとても大切に保存されてきたに違いない。
背表紙の革やマーブル紙は少し変色していたが、張りを失ってはいなかった。
ただ、綴じられた紙のふちが微妙に波打っていることが、長い時間を経てきた事を語っている。
よくドクドが貸してくれたものだ。
ずっと傍らから離さずに持っていたのだろうに。
それだけドクドはジンを信じてくれたのだ。
だがそれは、それだけ強く、ドクドがこの仕事に思いを込めているということでもあった。
ノートを開く。
最初のページに挟まれていた一枚の紙を手に取る。
用紙の端にはヴェネツィアの病院の名前と日付とファックス番号が印字されている。
そこには少し乱れた文字でこう記されていた。
ルイジは一命をとりとめたわ。
挨拶も、前書きも何もない。
この一行を書いた者の安堵と、
一刻も早くこのことを伝えなければと言う性急さが、滲んでいる。
列車がヴェネツィア・メストレ駅に着いた。
コンパートメントの乗客が入れ替わる気配に、紙を戻し、ノートを閉じる。
何度も読み返しているので、そのあとに続く文字を目で追う必要はなかった。
“まだ意識はもどらないけれど、それも時間の問題だって、医者は言ってる。
空港で、あなただけを行かせるのは本当に辛かった。
彼の様子が落ち着いたらすぐにそっちに行くつもりよ。
ディー、だからちょっとだけ待っていてね。
私は大丈夫。あなたの声を聞きたいけれど、
病院じゃ携帯は使えないし、時差があるからタイミングが難しくて。
だからファックスにしたの。
あなたのことばかり、想ってる…… ミーナ”
メストレを出ると間もなく、窓の外の霧が一層濃くなり、 列車の振動音も変わった。
ヴェネツィア本島に渡された橋の上に差し掛かったのだろう。
周囲は海のはずだが、あまりに真っ白で、まるで雲の中を走っているようにも思える。
撮影のときも、うまい具合にこの霧が出てくれるだろうか。
なにもかもを覆いつくすような霧を、物語の基調にしたいとジンは考えていた。
霧は見られたくないものを隠してくれる。
だが、ときには霧は、隠したいものをそんなに物分りよく隠してはくれない。
いや、隠した結果、一層隠されたものの存在を予見させることもあるのだ。
映画のイントロだけは決めてあった。
まもなく到着する、ヴェネツィア・サンタルチア駅のシーンだ。
タイトルバックに駅のホームを映し出す。
列車の到着を告げるアナウンスや、ホームのざわめきが流れ出す。
線路はプラットホームのはずれから、もう霧の中に消えている。
やがて黒々とした影が現れ、近づいてくる。その形から列車だとわかる。
到着した列車に、介助の男二人に担がれるようにして乗り込む中年の男。
積み込まれる車椅子。
その後に従う東洋の女。
女は若さに似合わず奇妙なほど落ち着いている。
静かに滑り出る列車。
しばらく列車を映したあと、そこにさっきのファックスの文を女の語りで流す。
やがて画面は車内に切り替わり、先ほどの男と女が映し出される。
女は男の足をひざ掛けで覆い、「これでいいかしら、ルイジ」 と声をかける。
「ああ、ありがとう、ミーナ」 男が答える。
男はまるで、車内の様子も、窓の外も、何も見たくないとばかりに目を閉じる。
女は、男の秀でた額とくぼんだ眼窩をしばらくみつめた後、
窓の外に視線を向ける。
その視線を追ってカメラがパンする。窓の枠の中を白一色の霧が流れていく。
女はノートを取り出す。今ジンが手にしている、このノートだ。
表紙には、まだ何も書かれていない。
女はノートの一ページ目に、何か書き始める。
その文字を、霧の窓に重ねて映し出す。
いやそれとも、文字が記されていくノートを大写しにするか…
“ディー、
もう私を待たないで。
先週、ルイジと結婚しました。
今列車はメストレに向かう橋を渡っているわ。
あれからルイジは、けっしてヴェネツィアの空港に行こうとしないの。
だからわざわざ列車に乗って、ヴェローナまで行かなければならない。
ヴェネツィアの湿気が彼の体によくないから、
私たち、あの館を離れることにしたのよ。
借り手はすぐに見つかって、あっという間に引渡しも終ってしまった。
落ち着く先は、まだはっきり決まっていないの。
ナポリのホテルでしばらく暮らして、
そのあとはたぶんナポリ湾を見下ろすどこかの海岸か島に、
家を探すことになると思う。
窓の外は霧で何も見えない。まるであの時の海みたいだわ。
私、これから物語を書くつもり。
君はきっと書けるって、いつもあなた励ましてくれたわね。
そう、書けるかもしれない。生涯にただひとつ、私たちの物語なら……
この物語はもうあなたのもの。だから読まずに捨ててしまってもいいのよ。
でももし読んでくれて、あなたのそばにずっと置いてくれるなら、約束してね、
誰にも見せないって。そして物語の中の私だけを愛して。
私のあなたへの想いは全て、このなかに閉じ込めてしまうから…”
ノートは捨てられはしなかった。9年近く、彼の傍らに置かれていた。
だが何故、今になって約束を破る気になったのだろう。
その疑問にディー、すなわちドクドは、答えてくれなかった。
訊きたいのはそれだけではなかったが、ジンは全ての問いを胸に納めた。
答えはおそらく映画を作っていくなかで、次第に明らかになるのだろう。
キム・ドクドとは半年ほど前、『メトロ』の試写会後のパーティーで出会った。
『メトロ』はパリの地下鉄を舞台にしたパク・ナムジンの6作目の映画で、
生まれ育った国からはじき出された若者が、異国での成功にもかかわらず、
ラストでは自らそれを捨て去るという内容の作品だ。
3作目がベルリンで賞をとったことから、
それ以来メジャーな配給会社がついてくれるようになり、
はでなパーティーも開けるようになっていた。
パーティーは制作会社が仕切ってはいても、
ジンは監督兼主演俳優なのだからホスト役をこなさなければならない。
パーティーは苦手だなどと言っている場合ではなかった。
問われるままに作品の意図や意気込みを話す。
映画はすでにジンの手を離れ、興行的な成功も評価も、
ここに集まっている評論家やマスコミや、配給や上映にかかわる人々や、
そして映画を観てくれる観客に委ねられるのだ。
「すみません、少しいいですか?」
若い女がジンの前に立つと、
磁石に吸い寄せられた砂鉄のようにジンのまわりに女たちが集まり、取り囲んだ。
ヒロイン役の女優が傍らから離れる隙をうかがっていたのだろう。
少し離れたところにいるカメラマンのハン・リュウが、
笑いながらジンに向かってグラスを掲げている。
彼と祝杯をあげたかったが、どうやら無理そうだった。
しばらく前から俳優としてのパク・ナムジンの人気に火がつき、
どこから紛れ込んだのか芸能レポーターや熱狂的な女性ファンが、
ジンの周囲で絶えず接触を窺うようになっていたのだ。
「パリを引き払われたとか? フランスでの最後を飾る素晴らしい作品でしたね」
女が差し出した名刺には、
女性誌に軽い語り口調で記事を書いているエッセイストの名があった。
「いや、活動の拠点はすでにこちらに移していました。
ただそろそろ区切りとなる作品を撮りたかった」
「『メトロ』はパリと、パリに暮らす外国人に向けたオマージュだと、思いました」
女が案外まともなコメントを口にした。
だからだろうか、相手役の女優との交際に話が及び、
それを否定したあと結婚の予定を尋ねられたときも、いつになく気軽に応じていた。
「全てを捨ててもいいと思える女性が、現れたら……」
「そしたら映画も捨てますか?」
「映画は…… 自信がありません。金も名も問題ない。
だが映画は、捨てられないかもしれません」
「理想の女性は?」
「僕にとっての映画のように、やはり大事な何かを抱えている女性、かな……」
なるほどと女たちがうなずいた。
その真剣な視線をはぐらかすように、
「そういう人だったら、僕に映画を捨てろとは言わないでしょう?」 と付け加えると、
皆一様に笑い、ほっと息を吐き出した。
女たちの熱を孕んだ眼差しや、情念の波動のようなものが、ジンを幾重にも取り巻いている。
それがもう一人のジンを形作っていく。
俳優パク・ナムジンは、もはやスクリーンの中だけの演技者ではなかった。
ジンは映画にのめり込んでいる男と、俳優パク・ナムジンの乖離を意識する。
完全に分離しているわけではない。
パク・ナムジンという男の、監督から俳優までの幅が大きく広がったと感じてもいる。
だがときどき、一本の映画を撮り終え、自分を吐き出して空っぽの状態になったようなとき、
俳優パク・ナムジンであり続けることが、少しだけ重くなる。
そんなとき、もし全てを捨ててもいいと思える女がいたら……
「やあ、パク・ナムジン、久しぶりだな」 いきなり男が声をかけてきた。
「まさかキム・ドクドを忘れたとは言わせないぞ」
キム・ドクドと聞いてジンを囲む人垣に緊張が走った。
財閥の二世ながら斬新なアイデアで次々に新しいビジネスを仕掛けている男、
マスコミぎらいでも有名なあのキム・ドクドなのか、と。
「先輩、お久しぶりです」
ジンが応じると、波が引くように人垣が消え、二人は遠巻きに観察されるだけとなった。
「有名税を払わされているようだね」 ポツリと、ドクドが言った。
「助かりました。だがあなたは、ご自分に見合った税金を払ってはいないようだ……。
そうだ、初めまして、ですね。僕は……」
「この場にいる人間で君の事を知らんヤツはいないよ。僕のことは?」
「存じ上げています」
キム・ドクドの次のビジネスが映像コンテンツに関するファンドの設立だという噂は、
ジンの耳にも入っていた。
だから今、どの制作会社も、監督も、
キム・ドクドとのパイプを喉から手が出るように欲しているはずだ。
「自己紹介の手間がはぶけたな」
ドクドは手に持っていたシャンパングラスのひとつをジンに差し出し、
よろしくと自分のグラスを合わせた。
このときドクドとは、映画の話しかしなかった。
あたりを威圧した鋭い視線も、人を寄せ付けようとしない端正な面差しも、
映画の話を始めると少年のように無垢なものに取って代わり、
いつしかジンは一回りほども違う年齢の差を忘れていた。
話しながら自然に二人は、人いきれを避けるように部屋の片隅に移動する。
壁の一面は床から天井までガラス張りで、
戸外では庭園灯だけが闇の中の木立を照らしていた。
そのガラスに、背丈もほとんど同じジンとドクドが並んで映っている。
胸をはだけた黒のシャツの上に、黒のスーツを合わせたジンは、
すらりと伸びた長い足も、無造作に肩まで伸ばした髪も、どこをとっても俳優パク・ナムジンだ。
一方ドクドは、オーダーメイドなのだろう、完璧にからだに合った、
不自然なしわなどひとつもない、やはり黒のスーツ姿だ。
柔らかで艶のある男と、シャープで隙の無い男は、だがよく似ていた。
二人が並ぶ姿は、久しぶりに出会った、優等生でエリートの道を順調に歩んできた兄と、
道のない荒野を奔放に突き進んできた、弟のようにも見えた。
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