<第一章> “…una storia nascosta dietro la nebbia…”
ii
ドクドが、『メトロ』に関する感想を口にした。
「感心したよ。セーヌ川もエッフェル塔も凱旋門もないのに、
地下鉄と裏通りとビルの中だけの舞台が、どこをとってもパリそのものだ。
異国でビジネスの世界で成功した若者が、
最後にその成功を捨て去るのも、カタルシスがあってよかった。
メトロの駅に小さな荷物ひとつで立つ彼の姿は、深く心に残ったよ」
熱っぽくそう語るドクドに、ジンは好感を持つ。
「敢えて言えば、ラストが甘い。
そこに女が現れると、女のために全てを投げ打ったとも取れる。確かに口当たりはいいが」
鋭い指摘だった。
だがこの言葉は、ドクドに対するジンの好感をそれ以上のものに変えた。
本当はジンは、主人公が苦労して勝ち取った地位や金を捨てるように、
それらを体現し、それらと等価である女をも捨て去るラストを考えていた。
ところがプロデューサーの強硬な反対にあい、反対がこのラストだけだったこともあって、最後にジンが折れたのだ。
この経験から、次は自分でプロデュースもしようかと思っている。
昔のように、低予算でもいいから妥協などせずに、映画を撮りたかった。
ジンが肯定も否定もしないでいるとドクドが話題を変えた。
「君は一度、本格的なラブ・ロマンスを撮るべきだ」
「ラブ・ロマンス?」
「そうだ、君の女性ファンを満足させるためばかりじゃない。
監督としてはいくつになっても恋愛映画を撮れるさ。若者の初々しい恋を描くこともできる。
だが俳優としては、30代には30代にしか表現できないものがあるだろう?
だから今君は、若さと成熟のあわいに立つ、
愛に餓えて悶える一人の男ジンを、撮っておくべきだ」
ドクドの口からラブ・ロマンスという言葉が出たのが不思議な気がした。
ずっと独身を守っているドクドに浮いた話はなかったし、
見るからに辣腕のビジネスマンという姿にも、その言葉は似合わなかった。
だがメタル・フレームのメガネの奥の瞳を覗き込んでみると、
そこには熱い炎が燃えているような気もする。
巧妙に隠されているその炎は、暗く、しかし決して消えることなく燃え続けているのかもしれない。
それからもドクドとはあちこちで顔を合わせ、親しく言葉を交わす仲になっていたが、
あるときいきなり訪ねてきて、読んでみてくれとこのノートを渡された。
「どうだろう、次の作品がまだ決まっていないなら、これを君が撮ってくれないか。
ようやく映像コンテンツに出資するファンド部門の目処がたったんで、投資の第一弾として考えている」
パーティーで会ったときに、
すでにドクドは自分の持つ原作をジンに撮らせたいと考えていたのだろうか。
それでさりげなく近づいてきたのか。だとしてもいやな気はしなかった。
生まれも育ちも違うドクドだが、彼に対する信頼と、互いに共感し会うものをジンは感じ取っていた。
受験に失敗したジンは、一年間、学歴優先の社会を外側から眺めて暮らした。
その結果、本当に学問を必要としているわけでもないのに、
有名大学卒業という肩書きのために、再度受験に挑戦する気がなくなってしまったのだ。
それで絵の修行と称してパリに渡り、映画に出会い、
いつしか社会の枠からはみ出してしまう人間をテーマに、映画を撮るようになっていた。
一方ドクドは財閥の二代目として活躍してきたから、
親の敷いたレールからはみ出しているとは誰も思わない。
だがジンには、『メトロ』に対する感想を熱く語ってくれたときに、彼が同類だとわかった。
ドクドは枠からはみ出していくものを抱えたまま、枠の中に戻ってきて、そこにとどまっている人間なのだ。
ジンはその場で、渡されたノートに挟まれたファックスと、最初の一ページを読んでみた。
物語と言うが、もしかしたら日記とさして変わらないのかもしれない。
実話なのか創作なのかもわからない。
だが主人公のディーがドクドだということは明らかだった。
ジンは、ほんの数十行で語られたふたつの時間のあいだで、
彼らの関係が大きく変化したのに興味を惹かれた。
一命を取りとめたとは病気のためだろうか、あるいは事故か。
物語を盛り上げる装置としてはありきたりだが、ヴェネツィアという舞台がいい。
故国を捨ててきた女に、故国からはみ出した男が出会う……
霧に覆われた運河や街の風景が湧きあがり、
その霧に溶けるように、細い通りに消えていく男と女の後ろ姿が浮かんだ。
「叶わなかった愛の物語、ですか?」
ドクドは時を遡るように目をそらし、「ああ……」 と、息を吐き出した。
「すみません、勝手な推測をして」
一瞬だけ沈黙したドクドは、小さく首を横に振るとそれまでと同じ口調で続けた。
「ヒロインのキャスティングはまかせたい。もちろん候補に対して意見は言うよ。
だがディーの役は君がやってくれ。これが第一の条件だ」
「なぜ僕を?」
「イメージがぴったりだ。『メトロ』を見て、ディーは君しかいないと思った。
それに君なら、ヴェネツィアを美しい一人の女のように撮ってくれるだろう」
「それは光栄ですが…… では第二の条件とは?」
「この物語の作者を、探して欲しい」
映画の製作にあたって出されるような条件ではなかった。
自分の役割ではないとも思う。
だがジンはそこに、仕事を越えた好奇心を覚えた。
「作者というと、ミーナですか?」
「そうだ」
「なぜ今になって?」
「彼女に、この映画のシナリオに参加して欲しい」
「あなたは冒険がお好きなんですね。何の実績もない人を。
それとも何か別の理由があるのかな」
ドクドは映画を介して、別れた恋人とよりを戻したいのか? そう思うのは当然だろう。
「個人的な思い入れがないとは言わない。
だが彼女は劇作家になるのが夢だと言っていたし、
それにこれは彼女が書くのが一番いいと、僕は思っている。
もしミーナが見つからなかったら、映画化はあきらめるかもしれない」
「それはあまりに身勝手じゃないですか。
映画は大勢の人間の共同作業で作るものだ。
一旦動き出したものを、あなたの個人的な感傷で止めることはできない」
そう言いながらジンは、まだ正式に話を受けたわけでもないのに、
自分がすでに一緒に映画を作っているような物言いをしているのに気づいた。
ドクドはそんなジンに知らぬ顔で続ける。
「では君の意向を聞こう」
「僕はまだこの物語を読んだわけでもないし、あなたの申し出を受けたわけでもないんです。
対等に意見を述べる立場にはいない」
「もちろん、君は断ることができるさ。
だがそしたら僕は、やはりこの物語の映画化はあきらめるよ。
とにかく監督も主役も君しかいないし、脚本は彼女しかいない、それだけは確かなことだ」
「最後まで物語を読んで、そのうえでお返事します。
ただし、単なる出資ではなくあなたがプロデュースするというのが、僕が出す条件です」
だが別れの挨拶のために立ち上がり、
「彼女のフルネームは?」 と訊ねたとき、ジンの気持ちはすでに半ば決まっていた。
「ミナミ・シマムラ。今は、ミナミ・ダンドロだ」
ドクドは即座に答え、ジンの気持ちを見透かしたかのように、こう続けた。
「ロケハンをかねて、なるべく早くイタリアに渡って欲しい。
そして彼女を探し、シナリオを一緒に書き上げてきてくれ……」
列車がヴェネツィア・サンタルチア駅に着いた。
シーズンオフとはいえ、構内には大きな荷物をかかえた観光客が多い。
皆寒さに身をすくませるどころか、期待に白い息を吐き、頬を上気させている。
ジンは人の流れや、プラットホームの真ん中に立てられた時刻表や、ベンチを、ぐるりと眺める。
パリで絵の勉強をしていた頃、友人とヴェネツィアへの旅を計画したことがあった。
10年ほども前の、やはり冬のことだ。
カーニバルでは何もかもが高いからと、そのあとの時期を選んだ。
だが結局、ヴェネツィアには来なかった。
ちょうど親からの仕送りが途絶え、どうしても金の工面がつかなかったのだ。
絵の才能にも見切りをつけ、かといって国に帰る気もせず、
仕方なく映画の制作会社にアルバイトで入った。
最初映画は単なる生活の糧だったのに、いつしか自分も映画を撮りたいと、思うようになっていた。
むさぼるようにひたすら現場を渡り歩く日々、ヴェネツィアは遠かった。
あのとき、もし父親のやっていた小さな会社が倒産しなかったら、
ジンはヴェネツィアに来ていただろう。
パリで厳しく自分を見つめる必要もなく、絵にしがみついていたかもしれない。
映画の世界に入ることも、なかっただろう。
そして今、ヴェネツィアを舞台にした映画を撮るために、ここに立つこともなかったのだ。
インフォメーションが、すぐ目の前にあった。
ディーとミーナが初めて出会った場所だ。
ドアには、9:00~19:00とオープンの時間が記されている。
中に入ると、カウンターに座った若い女が観光客になにか説明していた。
入り口付近に置かれたパンフレットや、壁に貼られたポスターを眺める。
これならもし内部撮影が許可されなかった場合でも、
別の場所で似たような雰囲気を出すのは難しくなさそうだった。
地図やバポレット(水上バス)の時刻表を貰い、ホテルの場所を確認する。
こんなふうにしてディーも、インフォメーションの女性と話をしたのだ。
カーニバルの時期にホテルの予約もなしにやってきた無謀な男、
彼は案外、何の準備もなしに冒険を始めてしまう男なのかもしれない。
「本島から少し離れてしまいますが、メストレなら何とか手配できます」
インフォメーションの若い女が事務的な口調で言う。
「またあんな殺風景な街に戻る気はしません。
どんなところでもいい、なんとか宿を探してもらえませんか。
もし無理なら、ここに泊めてください」
背後で、小さな笑い声が起きた。
ディーは振り返り、入り口にたたずむ女を見る。中国人か、いや日本人だろう。
ジーンズにダウンのハーフコートの姿は観光客のようにも思えるが、
小さなショルダーバッグだけでゆったりと立つ姿に旅の緊張はない。
「あら、ミーナ。ごめんなさい、もう少しで終わるから……」
毛糸の帽子から、明るい栗色の髪が肩まで垂れている。
ちらりとディーに向けられた視線は、すぐにはずされてしまう。
だがディーは、なおもミーナの唇にとどまる微笑みに見とれている。
「いいのよ。ちょっと教えてほしいことがあって寄ったの。
でもどうせヒマだし、あなたがこの人のホテルを見つけるまで、私待ってるから」
女はうなずき、あちこちに電話をかける。
空室は見つからない。ため息交じりにリストを閉じる。
するとミーナが数歩カウンターに近づいた。
「無理そうね。それなら私のところはどうかしら」
「それしかないかも」 女が同意する。
このやりとりに、二人の顔を交互に見るディー。
「つまりね、私が下宿してる館に、空いている部屋があるの。
今オーナーにかけあってあげるわ」
受話器をとりあげ、電話で話すミーナ。話しながらディーを見る。
さりげなく交わる視線……
インフォメーションを出て駅の外に向かう。
霧はだいぶ薄れていた。
階段の下にはぼやけた運河が見え、ゆるゆると水が揺れていた。
対岸に石の建物が浮いている。
重いはずの石が水に浮かんで軽やかに見える。
ジンはようやく、ヴェネツィアが島だということを実感した。
列車が橋を渡るときはあまりに霧が濃くて、
駅に着いたときは、まるで空中に浮かぶ雲のトンネルを抜けてきたように思えたのだ。
階段を降りるにしたがって迫ってくる運河と、建物の石の色のグラデーションに見とれて立ち止まる。
大きく息を吸い込むと、水の匂いが鼻をついた。
目の前に水上タクシーの乗り場があり、運転手が乗っていけと手招きしている。
バポレットにはこれから何度も乗ることになるだろう。
ジンがうなずくと運転手が駆け寄り、さっとスーツケースをボートに運び入れた。
カナルグランデ(大運河)は、大きく逆S字型を描いて島のほぼ真ん中を貫く、
言ってみれば街のメインストリートだ。
ヴェネツィア本島には車が走る道は一本も無いので、
移動は入り組んだ細い小路を足だけを頼りに歩くか、あるいは運河を行くしかない。
水上タクシーは何艘ものヴァポレットとすれ違いながらカナルグランデをゆっくりと進んだ。
すれ違うのはヴァポレットだけではない。
たくさんのゴンドラや、野菜や生活雑貨を満載したボートや、
横原にPOLIZIA(警察)と文字のあるボートもいる。
考えてみたらあたりまえだ。ここでは車の代わりは船しかないのだから。
これらの船は、ヴェネツィアでは主要な道は建物の間を縫う小路ではなく、
島を網の目のように走る運河なのだと、教えてくれていた。
運河の両岸にはヴェネツィアンゴシックやルネッサンス様式の館が軒を連ねている。
世界でひとつだけの壮麗な街を目のあたりにして、ジンの気持ちは高揚した。
タクシーは白い石造りのリアルト橋をくぐり、
サン・マルコ広場より少し手前、大運河に面したホテルに着いた。
運河が主な道である以上、当然主要な玄関は船が横付けできる運河側にあった。
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