<第三章> ”ヴィーナスの仮面“
vi
翌日、リュウとジンはオンデの会議室でフランコと向き合っていた。
ポスター撮りが終わったので、
リュウはあさってには助手たちを連れて帰国することになっている。
その前に撮影のスケジュールを打ち合わせておく必要があった。
クランクインをカーニバルの初日とすることだけは決まっている。
ディーが駅に到着する場面はともかく、
カーニバルの開幕を告げるサン・マルコの祝祭のシーンだけは、
その日に撮ってしまわなければならない。
できれば、雑踏の中でディーがミーナとはぐれてしまうシーンも。
仮面舞踏会はカーニバルが終ってから、エキストラを募って撮る。
それ以外のシーンも、全てカーニバルが終ってからだ。
となるとカーニバルの間、撮影スタッフをどうするか……。
「ここに、カプリを入れたい……」 ジンが切り出した。
フランコは表情こそ変えなかったが、
「それはなんとも言えないな」 と言葉を濁す。
「ナミと話し合ったわけではないんだろう?」
「まだです。
シナリオもどうなるかわからない。
実際に撮っても編集でカットする可能性は高い。
全シーンをヴェネツィアでまとめたいとは思っているんです。ただ……」
「君が個人的に、ルイジに会いたいというわけか?」
「いずれにしろ、一度会いたとは思っています。
やはりこの映画について、彼とも話をしておきたい。
だがそれとこれとは別だ。
映像に関しては、あとで撮りたい、撮っておけばよかったと後悔したくないからです。
とにかくスケジュールだけは入れておいてください」
フランコはしばらく考えていたが、
「この件はナミと相談させてくれ」 とだけ答えた。
ナミの姿はオンデにはなかった。
朝には館に出かけてしまったのだという。
「ナミさん、少し疲れてたみたいだな」
ジンがいつ尋ねようかと思っていた言葉を、リュウが口にした。
「ああ……」
フランコが、どこまで話したらいいのかと言葉を選んでいる。
「辛いシーンに差し掛かったから、ですか?」 ジンはそう訊いてみた。
フランコは、「それもあるが……」 と言いかけたのをすぐに、
「そりゃそうだろう」 と言い替えた。
「君たちも知ってのとおり、あとにはディーとの別れが待ってるんだから」
ということは、実際にミーナがディーに別れを告げたあとの苦悩を、
フランコは知っているのだ。
だがそのことの他に、なにがあるのだろう……。
「おいジン、あんまそり大変そうだったらお前が書けよ」
「もちろんですよ」
クランクインまであと一ヵ月ほどしかない。
それまでにシナリオを書き上げなければならないのだ。
順調に行くようなら一度帰国して、
撮影チームの編成をチェックするつもりだったが、それも無理かもしれない。
だがこのチームでは、すでに何度も映画を撮っていたから、
一声かければ問題なく動いてくれるだろう。
プレセールとプロモーションは、ディーが進めてくれている。
キャスティングも問題ない。
あとはリュウとディーとスタッフにまかせて、
ヴェネツィアに腰を落ち着けているのがよさそうだった。
打ち合わせが終わるころ、ユキが現れた。
空き時間に少しでも多くヴェネツィアを見ておきたいというリュウを、
案内するためだ。
ジンも一緒に歩くつもりでいたが、今からでもナミの元に行ってみようと思いなおす。
ユキとリュウを見送り、フランコに言葉をかける。
「話してくれませんか。ナミさんは何を苦しんでいるんですか?
物語の背後に隠し通さなければならない秘密があるのは、わかっています。
そのためにナミさんは苦しんでいる、違いますか?」
「ナミは何て言ってる?」
「話せることは話してくれると……」
「それならやはりナミに訊いてくれ。
ただ僕は…… 僕はひと言君に、ナミを頼むと、言っておきたかったんだ」
「ナミさんを?」
「そうだ。時々ナミは、必要以上に苦しんでしまうから」
「たとえばどんなときに?」
「たとえば今みたいに、書いているシーンから抜け出せなくなったとき…… 」
「そのときは、僕はどうすればいいんですか?」
「ナミはそこから抜け出すために、ナミであることを捨てたくなるんだ。
もしそんな様子が見えたら、すぐに僕に連絡してくれ」
ナミであることを捨てる?
名前のない女になって、その事を確かめるために、
名もない男を求めると言うのか?
「そういうときには、あなたが愛人を送り込むというわけですか?」
「さすが映画監督だな。想像力がある…… 」
想像力だけでも、観察力だけでもない、
ナミとのあの一夜が、ジンにそのことを教えてくれた。
『ナミは僕が何者で、何をしている人間なのか、
一切知ろうとしない。知ってしまったらおしまいだって……』
というアルヴィーゼの言葉も浮かぶ。
だがジンは、自分がアルヴィーゼにナミを委ねることなどできないと、わかっていた。
ミーナの部屋。
ベッドで抱き合って眠っているディーとミーナ。
朝日が薄いカーテンの布地を通して、部屋に差し込んでいる。
カメラが、柔らかな光に浮かび上がるものをひとつひとつ追っていく。
乱れたミーナの髪に差し込まれた、ディーの指、
ディーの顎に触れそうになっている、ミーナの唇。
ソファーに脱ぎ捨てられたディーのジーンズ、その足元の少し汚れたスニーカー、
ベッドのすぐ下には、ミーナの下着……。
机の上の積み重ねられた本、本の上に置かれたカメラ、
脇には封筒からこぼれ出た、ミーナが移っている何枚かの写真。
ドレッサーの横の壁に、ルイジが作ったヴィーナスの仮面がかかっている。
ドアが控えめにノックされた。
「ミーナ?」 ルイジだ。
だがミーナは目覚めない。
もう一度、さっきより少し強いノックの音が響く。
「ミーナ! まだ寝てるのかい?」
その声に、ディーが気づく。
あわてて起き上がり、ベッドから出ようとする。
静かにノブが廻り、ドアが開く。
ルイジが、部屋に入ってくる。
ディーは踏み出した片足を、再びベッドに戻す。
「失礼……」
ルイジは表情ひとつ変えずに部屋に入ってくると、
ぐるりと部屋の中を見回している。
「何なの?」 ミーナが不機嫌そうに体を起こす。
「君は寝ててくれ。ちょっと探し物があるだけだ……」
ルイジは壁にかけられた仮面に目を留め、歩み寄り、それを壁からはずす。
「私の仮面、どうするつもり?」
「これは失敗作だ。もう一度最初から作るよ。
またデッサンからやり直しだ。あとでポーズをとってくれ」
ルイジはそう言い、ドアに向かう。
ふとその手前の、机の上のミーナの写真に気づき、
写真とカメラを手に取り、そのままドアから出て行く。
「待って!」
ミーナは床からディーのシャツを拾い、それをはおると、
そのままルイジを追って部屋を飛び出す。
リビングの暖炉の前にルイジがしゃがみこんでいる。
火掻き棒でかきまわすと、炎が大きくなった。
傍らの床にはヴィーナスの仮面が投げ出されている。
「ルイジ、それ、私にくれたんじゃないの?」
ドアをあけたミーナは、そこから部屋に足を踏み出せないでいる。
「君には完成品をあげるよ。こんなのじゃなくて」
「私はそれがいいわ!」
ゆっくりと、首を横に振るルイジ。
ディーがジーンズだけの姿で、ミーナの後ろに立つ。
ミーナの肩を、持ってきたストールでくるむ。
ルイジは振り向きもせず、仮面を手にする。
「やめて!」 ミーナが叫ぶ。
だが仮面は、炎の中に投げ入れられてしまう。
踊りながら、仮面が燃えいていく……
震えているミーナの肩を抱くディー。
ミーナの頬には涙がひとすじ、流れている。
ルイジが立ち上がり、振り向く。
ディーとミーナの姿を、まじまじと眺める。
手でフレームを作り、目の前にかざし、二人をその中に入れてみる。
右に動かして素肌にディーのシャツをまとったミーナだけを、
指の枠の中に切り取る。
シャツのボタンを留めていないので、
ミーナは喉から胸の谷間も、腹部も、足の付け根の陰りまでも曝している。
続いてその枠を左に動かし、
半裸の姿で大理石の床に立つディーだけを切り取る。
何をしているのかと、ディーとミーナはいぶかしげにルイジを見つめる。
「ディー、できれば君の仮面も作りたかった」
枠の中のディーを見ながらルイジが言う。
「だが、もう限界だ。君たちをこれ以上見ていられない。
ディー、僕の婚約者から手を離して、今すぐこの館から出て行ってくれ」
「婚約者だって?」
ディーがミーナから体を離す。
「……」
ミーナは口元を手で押さえ、ルイジとディーを交互に見る。
「違うわ! 私はルイジの婚約者なんかじゃない!」
ディーを見て、振り絞るような声でミーナが言う。
「ミーナ、今、プロポーズするよ。
僕は君がいなければもう仮面ひとつ作れない。
そのことはよく知っているだろう?
君だって僕の手から素晴らしい仮面が生み出されるのを、
ずっと傍らにいて、見届けたいだろう?」
「ルイジ…… でも…… でも私……」
ミーナはその先の言葉を発する事ができない。
ただ交互に、ディーとルイジを見るばかりだ。
「ミーナ……」 ディーがミーナの手をとり、自分の胸に引き寄せる。
「僕と一緒に行こう……」
ミーナはその言葉の意味がわからないとでも言うように、
しばらくディーの顔をみつめていたが、そっとディーの腕から逃れ出る。
そしてゆっくりと、首を横に振る。
傷ついた表情のディー。
部屋から出ようとして振り返り、
マントルピースの上に置かれたミーナの写真とカメラに目を留める。
それに気づいたルイジが、写真とカメラを手に取る。
「それは僕のものだ!」 ディーが鋭く言う。
ルイジは写真をしばらく眺めていたが、
もう見たくないとばかりに、それらを暖炉の火に投げ入れる。
たちまち、炎に包まれるミーナの笑顔。
写真が燃え尽きると、ルイジはカメラをディーに差し出す。
だが彼はカメラを、床に落としてしまう。
「すまん」 と言って拾い上げ、カメラをディーに手渡す。
ディーはルイジの動作のずべてを、憎しみと怒りの表情で凝視している。
それから一瞬だけ強くミーナをみつめると、足早にその場を立ち去る。
「待って! おねがいよディー、行かないで。待ってちょうだい!」
だがディーは立ち止まることもなく自室に入り、
追いついたミーナの前で、音を立ててドアを閉めてしまう。
鍵のかけられる音が響く。
やがて荷物をかかえてディーが出てくる。
一言も発せず、玄関から外に出ていくディー。
呆然と立ち尽くすミーナ。
背後に、開け放たれたドアからディーの部屋が見える。
そこには、仮面舞踏会でディーが身に纏った貴族の青年の衣装と、
仮面だけが、残されている……。
ジンは書斎のナミのパソコンの前にいた。
物語の中の緊張をはらんだ空気が、そのまま館に残っているようだ。
ナミは放心したようにソファーに座っている。
「ディー」 ナミが小さな声で呼んだ。
ジンはナミの傍らに座り、その手を握る。
「私、あなたを追いかけて行きたかったわ」
黙ってその言葉を聞く。
「でも、出来なかったの。
ルイジのプロポーズを受けるつもりなんか、これっぽっちもなかったのよ。
なのに私の足は、一歩もそこから動かなかった……」
「でもまた、君は僕を見つけてくれた」
「あなたに宿を紹介したと、インフォメーションの友人が教えてくれたから。
もしそうでなければ、私達二度と会えなかったかもしれない」
「そんなことはない。
僕は君に会いに、こっそり館を訪ねたよ」
「本当に?」
「ああ、本当だ。
どんなことをしても、僕は君を連れて帰りたいと、思っていた」
ナミの顔が、苦しそうにゆがんだ。
「それなのに私、やっぱりあなたの元に行かなかったんだわ……」
ジンはナミの肩をそっと抱き寄せる。
「いいんだ。こうして、僕が来たんだから……」
ディーを演じているというつもりは、まったくなかった。
ジンは本当にかつて自分が、
ミーナが引き止めるのも聞き入れず、館を飛び出したような気がしていた。
シナリオを書き直すように、現実も、いや記憶だけでもいい、書き直せるものなら……。
だがこみ上げる苦い悔恨を、ナミと一緒に味わうほか、
ジンにできることはなかった。
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