<第四章> ”悪魔の橋“
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その夜PCで、ジンは漫然とアジアの芸能ニュースのサイトをスクロールしていた。
だがそこに予想もしていなかった文字を見つけ、
思わずマウスにかけた手を止めた。
『マリー・チャン、韓国の実業家キム・ドクドと婚約!』
マリー・チャンは香港出身で、父親の故郷である日本はもとより、
アジア全域で活躍している女優だ。
今回ミーナ役の候補にも挙がっていたのだが、イメージが違うと、
ディーがまっさきにはずした女優だった。
そのマリー・チャンとディーが婚約だって?
ウソだろうと、ジンは記事を読む。
信じられなかった。
即座にディーのオフィスに電話をかける。
秘書が、ディーはこれからホテルで記者会見だと教えてくれた。
時計を見ると、始まるまであと10分ほど時間がある。
迷わずディーの携帯にダイヤルする。
数回の呼び出し音のあとに電話が繋がった。
「ニュースは本当なんですか?」 挨拶もせずに問う。
「ああ……。もう少し伏せておきたかった。
発表は映画が完成してからと思っていたんだ。だが週刊誌にすっぱ抜かれちまった。
それで仕方なく、これから記者会見だよ」
「じゃ、僕がさっき送ったメールは?」
「それどころじゃなくて…… すまん、今時間がないんだ」
歩きながら話しているのだろう、ディーの声が揺れている。
「わかりました。
記者会見を終えてメールを読んだら、なるべく早く、いやすぐに電話してください」
ジンはディーに、こう書き送ったばかりだったのだ。
『ディー、あなたはナミさんを迎えに来るべきだった。
いや今からでも遅くない、ヴェネツィアに来てください』 と。
ディーから電話がかかってきたのは、
翌朝、ルームサービスの朝食をリュウと取っている時だった。
「なぜこんなに長く、ナミさんのことをほっておいたんですか?」
やはりジンは問い詰める口調になる。
「そう責めないでくれ。僕も辛かったんだ」
「彼女の苦しみを、知っていますか?」
「ああ……」
「だったら何故……」
「ずっと考えていた。
あの朝、もし霧が出なかったらどうなっていたのか。
それに僕も、罪悪感を感じていた。
あんなやりかたでなく、しっかりルイジと話し合うべきだった。
だがそれでも、どうしても、彼女がルイジを選んだことを受け入れられなかったんだ。
いくらこれが、彼女なりの僕に対する愛の形だと頭でわかってはいても、
僕はミーナを許せなかった……」
「では許せないと、言うべきだった」
「君にはわからないか!
もし彼女に会いに行けば、僕はとんでもないことをしでかしたに違いないんだ」
「とんでもないこと?」
「そうだ。
ミーナに対する愛は、憎悪とより合わされて一本の太い縄のようになっていた。
僕をがんじがらめに縛るその縄を解くことは、
ミーナと僕の破滅を意味した……」
「では今は? 今はどうなんですか?」
知らずにジンの声が高まる。
「全てを受け入れられるまで、これだけの時間がかかったということだよ。
ミーナのなかに、僕に理解出来ない何かがあるにしても、
ようやく僕はミーナの書いた物語を受け入れる気持ちになれた」
「マリー・チャンのおかげで?」
「いや、時間と共に次第に縄がゆるくほどけていって、
ふと気づいたら、そんな気持ちになっていたんだ。
彼女と出会ったのはそのあとだ」
「映画化の意味は?」
「彼女の物語に対する返事だ。
あの物語の中で、僕もミーナを愛し、ずっとミーナと生きてきたと、伝えたかった。
でも同時に、こうも言いたかった。
そろそろ、君が物語の中に閉じ込めたディーとミーナを、
自由にしてあげないかと……」
「それなら、そう言ってあげてください。
それからひと言、許すと。
そして、迎えに行かなくてすまなかったと」
「いや、彼女にはわかるはずだ」
「しかし……」
「大丈夫だよジン、彼女は心の底では感じている……」
そのときリュウが、もう時間だと、
自分の腕の時計をジンの前に差し出した。
見るとフランコが、いつ入ってきたのかリュウの後ろに立っている。
「わかりました。これから出かけなけれならない。
またあとでかけ直します」
電話を切るとフランコが、
「何かトラブルでも?」 と尋ねた。
「なんでもありません。プライベートなことでちょっと……」
ジンはフランコの視線をさりげなくはずす。
まずはディーの婚約をどのような形でナミの耳に入れるのがいいのか、考えたかった。
物語の中に封印したミーナが、ナミによみがえったばかりなのだ。
ナミなら耐えられることも、ミーナにはこたえるだろう……。
このことを、映画を撮り終わるまで、いやせめてシナリオを書き終えるまで、
ナミに伏せておく事ができるだろうか?
彼女はアジアの芸能ニュースをチェックするだろうか?
オンデの顧客は、主にアジアのマスコミ関係だ。
マリー・チャンは香港でも日本でも人気のある女優だし、
ニュースは香港と韓国、そして日本でも流れるに違いない。
ナミがこのニュースを目にするのは時間の問題だろう。
フランコは何か言いかけたが、ジンの様子に口をつぐんでいる。
「すみませんが、一緒に行けなくなりました。
もし昼食に合流できるようだったら、あとで連絡します」
ジンは二人を送り出すと、急いでナミのいる館に向かった。
インターフォンで名を告げると、オートロックがはずされた。
小路からドアをくぐり、階段を登る。
二階の玄関のロックも、解除されている。
だがホールにナミの姿はなかった。
「ナミさん……」 と呼んでみたが返事はない。
誰もいないのかと思えるほど、人の気配が感じられなかった。
ナミはまだベッドにいるのだろうか……。
ナミの寝室をノックしてみる。
やはり答えはない。
そっとドアを開けて中をうかがう。
あれ以来初めて見るナミの寝室だったが、
今のジンには何の感慨も湧かなかった。
リビングをのぞき、キッチンにもいないのを確かめる。
書斎のドアを、あける。
ナミの机の上のパソコンが、日本のポータルサイトを映し出していた。
誰もいないほの暗い書斎の中で、 サイトの画面の小さな窓の、
マリー・チャンとディーの記者会見の様子を映し出す動画だけが、動いていた。
「ナミさん!」
書斎を出るとジンは、もう一度廊下の奥に向かって声を張り上げてみる。
だが館はやはり静まり返ったままだ。
ジンは今度はナミの寝室の奥の、バスルームまで覗いてみたが、ナミの姿はなかった。
寝室の中を、ぐるりと見回してみる。
今抜け出したばかりのように乱れたナミのベッド、
そこでナミを抱いたベッドを、ほんの一瞬だけ、見つめる。
ドレッサーの鏡の前には化粧品や香水のビンが並び、
小さなトレーにナミのクロスのペンダントが置かれていた。
そのクロスと一緒に、ナミが持ち去ったジンのリングがあった。
吸い寄せられるようにドレッサーに近づき、リングを手にとる。
自分のものだったのに、それはもう自分のものではないように思え、
そっとリングを元に戻す。
ナミはディーの部屋にいた。
暗い、寒々とした部屋の、ディーのベッドの上にぺたりと座り込んでいた。
ジンが入っていくと、
「ディー……」 と小さく呼んだ。
ジンは携帯電話を取り出すと、
着信履歴からディーの番号を選び、コールボタンを押す。
すぐに電話は繋がった。
それをナミに差し出す。
「ディーです」
おずおずと差し出されたナミの手が、携帯を受け取り、
恐る恐るそれを耳にあてた。
静かに、「ディー……」 と呼びかける。
「ええ、そうよ、ミーナよ……」
そう答えるナミの顔が、一瞬だけ輝いたようにジンには見えた。
だがそれも錯覚だと思えるほど、ナミの声は沈んでいた。
ジンはそっとドアを閉めると、閉めたドアに背を預け、
そのまま床にしゃがみこんだ。
片方の膝をかかえ、その膝に肘をのせ、頬杖をついた姿勢のままでいる。
まるで主人に降りかかった難事に、
いつでも声をかけられれば救出にいけるように待ち構える、番犬のように。
だが声は、かからなかった。
少しの間続いていた話し声がしなくなっても、長い間、
ナミは声をかけてもくれず、部屋の外に出てこようともしない。
ついにジンは、ドアをノックしてみた。
「ナミさん? 大丈夫、ですか?」
しばらくしてから、ナミが答えた。
「ジン? まだそこにいたの?」
「ええ……」
「私を、心配してくれたのね……」
ジンはナミがドアを開けてくれるものと待ち構えた。
だがナミは、
「私は大丈夫よ。でも、しばらく一人にして欲しいの」 と、沈んだ声で言うばかりだ。
「ホテルにいます。いつでも呼んでください」
ナミがナミを捨てたくなるのではないかと、ジンは恐れた。
それでしばらく、アルヴィーゼが現れるかもしれないと、
外階段に座って様子を窺いさえした。
現れたとしても、自分にはどうすることもできないのだと、思いながら。
だがやはり長い時間がたっても、
館は静まり返ったままで、訪れる者もいなかった。
リュウとフランコにはホテルの部屋から、行けなくなったと連絡を入れた。
ナミは電話などかけてはこないだろう。
だがやはりホテルを、ジンは離れることが出来ない。
かといって自分からは、電話してはいけないような気がした。
ナミが抱えてきた空白を埋めることは、ジンにはできないのだ。
いや、ジンだけではない、そんなことはだれにもできないのだ。
フランコにも、アルヴィーゼにも、
名もない男にはもちろん、そしておそらくは、ディーにも。
ナミからの電話を待ちながら、ジンはディーの憎悪について考えてみる。
ルイジは本当に二人の目の前で、あのリビングの暖炉で、
ディーが撮ったミーナの写真を焼いたのだろう。
二人がベッドの中にいるのを平然と見つめるルイジの内には、
憎しみの炎が燃え盛っている。
そして写真を焼き捨てるルイジを、凝視するディーの内にも。
その憎しみは、自分に苦痛を与えるミーナにもやがて募っていくのだとしても、
直接は、やはり愛する女を奪う男に向けられるものだ。
ミーナがディーを選び、黙って館を出たと知ったら、ルイジはどうするだろう?
もし自分がルイジだったら?とジンは考えてみる。
もし自分がルイジだったら、最後に一度ミーナの声を聞きたいなどと、
ひとの良いたわごとなど言わないだろう。
想いは激しくたぎっているのだ。
ただミーナを行かせたくないと、二人を追うだろう。
そしてディーにも、それはわかっている。
ならばディーは、ルイジに知られないように館を出ることも、
空港に無事着けることも、霧も出ず、予定通りに飛行機が離陸することも、
全ての運を天に任せただろうか?
いや、ディーはそんな男ではない。
それなら、どうする?
もし自分がディーだったら?
リュウが戻ったので、
スタッフも一緒にホテル近くのトラットリアに夕食に出かけた。
今日フランコがリュウを案内した場所は、すでにほとんどジンも見ていたので、
それぞれについて、リュウと意見を交わす。
舞踏会の館は、リュウも気に入ったと言う。
だが運河に面した中庭だけは、やはり距離の離れていない対岸から撮りたいと、
リュウも望んでいた。
これだけは、オンデにもっと探してもらう必要があるだろう。
リュウやスタッフの帰国のために荷物をまとめなければならないので、
早々とホテルに戻った。
ジンはレセプションでメッセージを確認する。
ナミからは、何の連絡も届いていなかった。
機材の荷造りを手伝っているとき、ようやく部屋の電話が鳴った。
「ジン?」
受話器を強く耳に押し当て、ジンはその声に聞き入る。
沈んではいないか、痛みはないか……。
「今日はありがとう……。私ったら自分のこと棚に上げて、おかしいわね」
少し湿ってはいる。だが苦しみは感じられない。
「たくさん、ディーと話せましたか?」
「ううん、それがね、あんまり言葉が出てこないのよ。
私だけでなく、彼も……」
「そうですか……」
「元気だったかとか、今何をしているのか、とか。それで私、結婚おめでとうって……」
「結婚はまだです。婚約を発表しただけだから」
「ディーにも、そう言われたわ」 ナミが小さく笑った。
「僕をお呼びですか?」
リュウが聞いていようと、かまわなかった。
「来て欲しいと、素直に言ったらどうです?」
また、ナミが笑った。
「いいえ、今日は一人でいたいの。
一人で、ここでお酒を飲むのよ。
どうしても相手が欲しくなったら、ディーをたたきおこすわ」
「そうしてください。ずっと眠らせずに、責めてやってください」
「そうするわ。
でも、向こうはもう朝ね……」
そうだったとジンは頭の中で指を折り、8時間を足してみる。
そろそろ韓国では夜が明けるころだ。
ナミはいつもこうやって、ディーの時間を数えていたのだろうか。
「あなたの携帯、明日の朝でいいかしら?」
明日はトルチェッロ島に、一緒に出かけることになっていた。
「かまいません。明日は予定通りで大丈夫ですか?」
「もちろんよ。
実はね、ユキも行きたがっていたから誘ったの。いいでしょう?
三人でチプリアーニで美味しいお昼を食べましょう」
美味しいお昼、というナミの言葉だけが、
闇の向こうに射しこむ明るい光のように、ジンには思えた。
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