声 vol.1

posted in: | 0 | 2009/3/27

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その派遣会社を選んだのは、二つの理由からだった。
一番惹かれたのは、
――希望により紹介予定派遣可 という一行だ。
紹介予定派遣とは、派遣後6ヵ月経った時に雇い主と派遣社員双方の合意により、
直接その会社に雇用されるという制度のこと。

もう一つ、
――医療事務希望者優遇、未経験者可、研修あり というのも魅力だった。
多少時給が低くてもここにしようと、私は決めた。

求人誌の広告には、来社の前にお電話くださいとあったので、すぐに受話器をとった。
喜多と名乗る女性が出た。おだやかな声の人だった。
その声を聞くと、意気込んでいた肩の力が抜けた。

派遣の経験や、以前の仕事について訊かれ、
運転免許など資格の有無について訊かれた。
続いて、喜多が尋ねた。

『恋人はいる?』
声はやはりおだやかで、それまでの質問と同じようにさりげなく、同じように職業的だった。
基本的なビジネスソフトの他に経理ソフトにも習熟していますと、
私は前の質問に答えていて、
その答えと同じようにこの質問にも答えなければならないと、
暖かいけれども事務的な喜多の声は告げていた。

『恋人というほどのひとは…』 

そう言うと、ドンファの顔が浮かんだ。
以前の派遣先の広告代理店のアートディレクター。女子社員の憧れの的。
出入りの業者や、モデルたちにも絶大な人気を誇る遊び人、
どういう気まぐれか、一度だけ私とデートしてくれたアン・ドンファ…

『肉体関係は?』
そう聞かれ、答えに詰まった。
次は結婚の可能性について問われるだろうと、予想していたからだ。

どう答えるのがいいのか、何の意図でこのような質問をするのか…
私はドンファとのたった一度の夜を思いながら、言葉を捜した。
『それは…』 思いがけず声が上ずって、揺れた。

しばらくして喜多の声が、含み笑いのように低く、耳の中で響いた。
『明日、事務所に来て正式に登録してください』

電話を切り、手にした求人誌の広告をもう一度眺める。
職種の最後にこう書かれていた。
――医療機関における臨床・治験作業の補助

 
翌日、街の少し寂れた一角の、うす汚れたビルの中にある事務所を訪ねた。
流行とは関係ない上品なスーツを着こなした喜多は、予想通りの年齢で、美しかった。

挨拶を交わすと、肉体関係は?と囁いた電話の声が甦り、
またドンファを思った。

『新しい仕事が決まったら連絡してよ』 
ドンファはそう言って携帯の番号を教えてくれたので、
ようやく彼に電話する口実ができたと、私は浮かれていた。

だから登録者数が思ったより少ないことや、
派遣先の病院がどこも小規模な個人病院であることも気にならず、
書類にあれこれ書き込むのも、
来週から週4日は泌尿器科の長島クリニックに勤務して、
1日はこの派遣事務所の経理事務を手伝って欲しい、
長島院長はけっこう美人の女医なのよ、そうそう条件はね…
などと喜多があれこれ説明するのも、上の空で聞いた。
臨床・治験作業の補助とはどういうことなのかと尋ねるのも、忘れてしまった。

 
昨日電話を切ったあとは、会議室で仮眠しているドンファの、
徹夜明けで無精ひげが伸びた無防備な横顔や、
エレベーターで一緒になり、何階まで?と同時に訊ねあったあとに交わした笑顔を、
思い出したりしていた。

それから初めての、一度だけの夜…

登録していた派遣会社がつぶれ、その広告代理店との契約がもうすぐ切れるという日、
めずらしく朝から出社していたドンファと、コーヒーメーカーの前で顔を合わせた。

『キッコとこのまずいコーヒーを飲むのもあと一週間か…』 
キリコが呼びにくいと、キッコと呼び始めたのはドンファだった。
すっかりなじんだ名前で私を呼ぶドンファの声が、特別親密に感じられた。
それは単なる希望的な錯覚にすぎないと私は知っていたが、
退社の日を正確に覚えてくれていたことは、素直に嬉しかった。

『この商売じゃ、皆で集まって送別会なんかできないしな…』
派遣社員には歓迎会も送別会も関係ないのを憐れに思ったのか、
ドンファが言った。

いつもぶっきらぼうなくせに、どうかすると彼は、
誰にも真似のできない優しい気遣いを見せる。
それがとても残酷な結果を招くことがあるとは、思いもせずに。

その日彼は、よほど暇だったのだろう、
ふと思いついたような口ぶりで、さらにこう続けた。
『僕が誘ったら今夜つきあってくれる?』 

フロアの女子社員の間に嫉妬をはらんだ緊張の糸が張り詰めた。
彼の誘いは二重の意味で驚くべきことだったから、男子社員も耳をそばだてた。

ドンファをめぐって、正規の女子社員同士は激しい争奪戦を繰り返していたが、
給料や保証などの待遇に差があるように、
この面においても派遣社員はレースの外に追いやられていた。

それにドンファは、絶対に自分から女を誘わない男だった。
女が誘い、気が向けばつきあう。
そんな彼がこの時初めて、私が知る限り初めて、
派遣の女を、しかも自分から誘ったのだ。

おそらくドンファとは今夜だけで終るだろう。
女子社員たちがロッカールームで交わす会話で、
ドンファはけっして女と長く付き合わない男だと、私は知っていた。

   最初はとても情熱的に抱いてくれるんだって。
   でも二度目はお義理みたいって言ってた。
   私が聞いたのも同じ。
   だからほとんど三回目はないって。
   きっと女から去っていくようにって手なのよ。
   でもいいわ、一回でも…

私もそれでかまわないと思った。
彼はどんな女にも、一夜限りでいい、一度でいいから、
その胸のなかで歓喜の声をあげてみたいと、思わせる男だった。

『もちろんです…』 即座に私は、刺すような女たちの視線を浴びながら答えた。
すると熱いものが突然湧き起こり、
からだの中心がじんと潤っていくのがわかった。

 
酒は甘美で、酔うほど飲みたくはなかったのに、酔いはすぐにまわった
ドンファの言葉は、唇の上に登ると固有の意味を失い、
蜜をたっぷりと含んだ南国の果物のような声そのものになって、私を誘った。
彼の声が、酒とともに私の血の中を巡っていた。

ほの暗いバーの片隅で唇を重ねた。
舌を絡ませるのも、それも強く吸いあうのも、自然なことだった。
次は彼の指が私の胸をまさぐるだろう、
いや腿の内側をなで上げるだろうと、私のからだは待ち構えた。
けれども彼は、唇に残る欲望だけを丹念に味わうと、そっと体を離した。
私の目に涙が滲んだのに気づかない振りで薄く笑い、
長い指で酒のグラスのふちをなぞった。

送って行くよと乗せられたタクシーの中で、私は彼の胸に顔を埋め、言うしかなかった。
『もう少し、一緒にいて…』 

声は切実な欲情にかすれ、その震えが、ドンファの胸の骨に響いたようだった。
声が骨だけでなく、肉にも伝わって欲しいと私は願った。
肉と骨と両方に伝わって反響しあい、彼の芯まで届いて欲しいと、私は願った。

しばらく沈黙のままタクシーを走らせたあと、ドンファは都心のホテルの名を告げた。
それは最近オープンしたばかりの、スタイリッシュなホテルだった。

『ここで、ここでいいです。停めてください』 私はあわてて言った。
既にマンションの近くまで来ていた。
ホテルの明るいロビーを思うと気持ちがひるんだし、
そこまで戻る時間も惜しかった。

彼の裸の胸が熱かった。
裸の肌がこすれあう感触や、立ち上るの男の匂いが、私を昂らせた。
肌は汗で湿り気を帯び、快楽の予感そのものが既に快楽となっていた。

突然、ドンファが私の左の胸を強くつかんだ。
声をあげそうになり、とっさに彼の肩を噛む。
もみしだかれる乳房から、強い刺激が津波のように全身に広がっていく…

吐息が漏れ、私はあわてた。
隣に、聞こえてしまう…

薄い壁を隔てた隣の部屋には女子大生が住んでいて、
週末にはいつも恋人を連れ込み、決まって甘ったるい喘ぎ声を上げていた。
その声はわざとらしく、他人の抱き合う声は白々しいものだと、私は知った。
だから自分の喘ぎ声を聞かれて、
同じように白けた思いをされるのはいやだと思ったのだ。

ドンファは私の吐息に煽られたように、更に左の胸にだけ愛撫を加えていく。
私は必死で耐えた。
やがて唇の愛撫が加わり、かりっと乳首を噛まれ、痛みにからだがしなった。

それでも耐える私の左の胸は、ドンファの容赦のない激しいキスで朱に染まっていった。
同時に、愛撫どころか触れても貰えない右の胸が疼いて、
意図的に捨て置かれているその乳房を、私は自分の手のひらでつかんだ。

ドンファは体を離し、しばらくじっと私を見つめた。
過剰な愛撫に息も絶え絶えな左の胸と、与えられない刺激に飢え、もだえる右の胸。
引き裂かれた二つの感覚がより合わされて、ひとつの、荒々しい欲望になっていた。

ドンファが一気に、私を突き上げた。
彼の腰の動きが早まり、私が応じて、
私が逃げ、彼が追いかけ、そして私たちは同時に果てた。
かろうじて声を押さえ込むことができた私は、満ち足りて眠りに落ちた。

翌朝目覚めるとベッドの右側は空っぽで、左の胸だけがずきずきと痛んだ。
その痛みが愛しくて、
私はノーブラのまま緩やかなブラウスを纏い、仕事に出た。

その日一日、柔らかな布が触れるたびに乳首が疼いた。
するとドンファと分かち合った喜びが目覚め、
一瞬、体の奥から走り出る快楽の余震が、
まだ彼に抱かれているかのように私を浮遊させた。
 

 

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