—私家版・忘れられない女たち/園子
『花芯』 瀬戸内寂聴 講談社文庫(2005.2)
アナイス・ニンについてのコメントで、瀬戸内寂聴の名前を出してから、
『花芯』が気になっていた。
1958年の発表当時、ポルノ小説と批判された作品である。
文庫版の川上弘美の解説によると、
そのきっかけとなった平野謙の批評は、
必ずしも全的な否定ではなかったようだ。 にもかかわらず、
瀬戸内さんは「子宮作家」(今となっては勲章ですね)と揶揄され、
その後5年間ほど文芸誌から干されることになってしまう。
◆『花芯』はポルノ小説か?
この問いは、今さら聞くまでもないものだ。
ポルノではない。
「性行為の露骨な描写を主題」としているわけではないのだから。
そうは言っても、当時の感覚からしたら、
やはり「露骨」な描写があったのではないか、と思う方もあるだろう。
ところが、記憶をたどってみても、 そんな場面は浮かんでこない。
印象に残っている箇所はいくつかあるけれど。
たとえば、冒頭とか。
きみという女は、体中のホックが外れている感じだ
–それが越智の口癖であった。それでいて、そういう私を、
私のなかのなによりも愛している越智なのだ。
電車や人ごみの中で、見もしらない男に、
きまって着物のやつ口から手をさしこまれたり、
スーツの腰を撫でられたりするのだけれど、
私は蝿でも払うようにからだをちょっとゆするだけで、顔色も変えない。皮膚までが、貞操感覚を欠如しているのだと、
さすがの越智も興ざめた口調でなじる。
皮膚の貞操感覚などという言葉は、
聞いたこともないという目つきをすれば、
きみだって、処女のときは、男が近づいたら、
反射的に身を護ろうとして、皮膚がこわばっただろうと、
したり顔をするのだった。そうだったかしら、私は声にださないで、ぼんやり微笑する。
しかし、このように始まる一人の女の物語りの何かが、
当時の(ある種の)人びとに、拒否感や、不快感を引き起こしたのだ、
ということは、言えるような気がする。
いや、もしかしたら、この物語は、
50年後の(一部の)人たちにも、
同じような感覚を呼び起こすのではないか。
園子は、母が決めた婚約者雨宮と結婚するまで、
「生理的には処女」だった。
だが、「私の処女の時とは、どこの境界の一線をひけばよいのだろう」
と思い返す。
女学校の頃、英語教師との好奇心から始まった関係も、
「不良」少年グループや、肺病の青年とのつきあいでも、
「私の処女なんて、全く偶然に、結婚まで護られたにすぎ」ず、
彼らを通して、「私はある意味で、もう男をしっていた」からだ。
夫はハンサムなエリート青年で、
自分たち童貞と「処女」の初夜に、無邪気に感激するような男だった。
一方、園子にとっては、
……それはあっけなくおかしな行為であった。
自分の上にいるこの男の、
動物的なこっけいな身動きが、処女譲渡の儀式–
女というものは、 自分の目でさえ遂に確かめることの出来ない、
小さな薄い一枚の膜のため、
死ぬまでの貞操を約束されねばならないのだ。
貞操って何だろう。女が財の一つとして売買された時代の、
足枷の名残ではないだろうか。
となる。
だが、この感慨はこのとき初めて生じたものではない。
彼女は以前から、母親の、体裁をとりつくろうような貞女ぶりが大嫌いで、
むしろ父の「オメカケ」である芸者の友奴に「ひかれてしまい」、
しょっちゅう彼女のもとに出入りしていた。
友奴は、私の母とちがい、父が浮気をすれば、前後も忘れ、
胸倉にしがみついて攻めたてるし、
負けずに自分も、さっさと浮気した。
友奴の家で、私は何度も父以外の男に出逢ったことがあった。
……その折々の男たちに、友奴は悪びれずに、
私を旦那のお嬢さんと、紹介した。
男のことは、目下のあれよと、片目をつぶってみせ、
からからと笑った。
私が父に告げ口をしないことを信じきっていた。
園子は、女に与えられる「処女」や「貞女」という価値観に、
早くから疑問を抱いていた。
さて、この作品に対する当時の非難は、一般的には、
次のような描写によると思われる。
出産のあと、私はセックスの快感がどういうものか識った。
それは粘膜の感応などの生ぬるいものではなく、
子宮という内臓を震わせ、
子宮そのものが押さえきれないうめき声をもらす激甚な感覚であった。
あれほど大きな胎児を十ヵ月もその中に抱いていながら、
私はそれまでその内臓の存在を実感することができなかった。
それなのに今、セックスの行為によって、私は、私の内臓が、
生きて、いのちを持っているのを、ありありと感得した。
これは、「性行為の露骨な」表現ではない。
まして官能的でもない。
半世紀前の非難は、女が自分の快感をストレートに吐露したことに、
その率直な性の捉え方に、
男と女を見つめる園子の率直な姿に向けられた、ということだろうか。
園子は、社会が定めた倫理や、
「味気ないないうそでぬりかためた家庭(結婚)」に嫌悪を抱き、
夫や、それまでつきあった男たちを醒めた目で観察しているが、
その視線は、男たちの態度や理屈にだけ、 向けられているわけではない。
母と友奴という二人の女を対比させ、
友奴の偽りの無い生/性に共感を寄せる一方、
母に代表される「貞女」を、批判的に眺めてもいる。
それも、「小さい時から、同性を本能的に嫌っていた」と記されるように、
大多数の女たちに敵対するような位置から。
雨宮の転勤先の京都で、
アパートの大家、 北林夫人との会話でも、
園子のこの姿が繰り返し描写される。
「わたくし、人づきあいが、とても下手な方ですから」
「そうね……雨宮さんの奥さんも、
同性には反感をもたれるタイプかもしれませんねえ」奥さんもという”も”に、微妙な含みをみせ、
未亡人はその言葉を私に向かってでなく、越智に云った。
「それじゃ、お二人は同類だ。せいぜい仲良くなさるんですね」
越智は腕時計を眺めながら云った。二週間もたたぬうちに、私はアパートじゅうの女たちに、
冷たい眼でみられているのを皮膚で感じた。
私のことを、女には無愛想で、男には会釈する目の色からしてちがうと、
聞こえよがしに噂されるのを耳にもした。「ほらね、あなたには存在しているだけで、
同性に反感を感じさせる何かがあるのよ。
つまり、それだけ殿方には魅力的な女なのだけれど……」「べつにどうってこともありませんわ。
お辞儀したくない人には頭を下げないし、
にっこりしたい人にはにっこりするだけなんですもの。
一々、人をみる度、お辞儀の角度や笑い方の度合いまで、
調節できはしませんわ」……巧言令色は女の方に多い。
幾枚もの舌をもっているのも女の方に多い。
……私には、女はどうも苦手だった。
このヒロイン像は、女性たちの支持を得るだろうか。
作中で「反感をもたれる」だけだろうか。
女性読者たちは、彼女の恋に、感情移入するだろうか。
◆恋の成就と終焉
京都では、雨宮の上司、越智がアパートを用意して待っていてくれた。
私のからだの奥のどこかで、
何かがかすかな音をたててくずれるのを聞いた。
あ、と声にならぬ声を私がたて、
越智がどこかを針で刺されたような表情をした。
私は越智が私を感じてくれたことをさとった。
不思議な震えが、私の内部のもう一つのいのちに伝わっていった。
越智が目をそらせた。
アパートの隣は、大家の北林夫人宅で、
越智はその離れに住んでいた。
園子は夫人に可愛がられ、越智とも親しんでいく。
出会った瞬間に生まれた恋は、その親しさのなかに、 封印されていた。
封印が解かれるのは、越智がながく、
園子の母よりも年上の北林夫人と愛人関係にあると、
雨宮から知らされたときだった。
互いの気持ちを伝え合ったことすらないのに、
園子は頭の中で北林夫人をそしり、越智をなじる。
夫にも、「越智さんが好きになってしまったの」と打ち明けてしまう。
雨宮は、実際には二人の間に何の関係も無いことを知って安心するのだが、
妻が日に日にやつれ、セックスも拒否するに至って、
冷静さを失い、暴力をふるうようになる。
幼い息子は東京の母に引き取られ、
園子はアパートに、自らも閉じ込もるようにして暮らす。
越智がいつか救い出してくれるのではないかと妄想しながら、
彼に自分から会おうとも、連絡を取ろうともしないのである。
「洩れたガスのこもる部屋の中で昏倒していた」というようなことがあり、
やがて園子は母の元に帰ることになる。
出発の直前、ようやく越智が園子を訪ねてくる。
彼はそれまで、園子が恋のために憔悴している様子を、
(雨宮も北林夫人も、越智の耳に入れないようにしていたために)、
知らずにいたのだ。
このとき、ほんの数分の間に「性欲の無いキス」をしたのが、
初めての越智との触れ合いであった。
そして東京で、友奴の手引きで越智と会ったときも、
やはりキスを交わすだけである。
自分たちの恋に「結果を示してみせるしかない」と思い定め、
旅に出た先でも、園子は胃痙攣を起こしてしまう。
そこで四日、私は胃の痛みのとれた後も、熱を出し、
温泉にも入らず寝てくらした。越智は完璧な看護人だった。
わたしたちはセックスを忘れたように、終日静かに話し合って暮らした。鶯と山鳩の声と、渓向こうの山の腹に流れる雲のうごきが、
私たちと共にあった。
越智と暮らした強羅の四日間だけに、私の恋は生きていた。
ところが、逆上し、怒りを顕にする母や、
雨宮の肩を持つ妹の容子だけでなく、京都や東京の職場でも、
スキャンダルとなった越智と園子の「不貞」に、
肉体関係を疑わないものなどいない。
それは仕方の無いことだけれど、興味深いのは、
園子の恋物語が、長く性のないまま進められていくことである。
その行為がないことにおいて称賛される「処女」と「貞女」に対して、
行為が無くても断罪される「不貞」を、作者は対置させた。
いずれも、内実を問題にしない世間の価値観の空疎さが際立つが、
同時に、ここで作者が問いたいのは、行為そのものの意味だろう。
また、園子の一途な恋が、性を後景に押しやっていることで、
純粋さを増す。
おそらくここまでの、少なくとも恋する園子は、
当時の読者にも、すんなり受け入れられたのではないか。
私には、『花芯』が浴びた非難は、
この後に書かれたことによると、思えるのだ。
強羅の描写では、続いてこう記される。
その後二ヶ月を経て、越智とはじめて肉体的に結ばれた時、
私の恋は終ったのだ。
これはどういうことだろう。
あれほどに焦がれた相手と結ばれたときとは、
恋が成就したときではないのか。
和らいだ越智の眼の尋ねる意味に微笑で応えかけ、
わたしはふっと胸の奥に痛みがはしるのを感じた。
越智の場合と、雨宮の場合と、わたしのセックスの感応度が、
どれだけの差をもったといえるのだろう。
小肥りのなめらかな白い肌をもった雨宮と、
筋肉質のひきしまった浅黒い肌の越智と、
皮膚にうける感覚はちがっても、
私の子宮が享ける快楽になにほどの差があっただろう。
越智は北林未亡人に対しても行ったであろう同じ動作、
同じ順序で私のからだをさぐり、私のセックスに触れてくる。
私は恋のあるなしにかかわらず、
雨宮に応じたと同じ姿勢でからだを開き、
じぶんを放棄し、子宮は恥しらずなうめき声をあげるのだ。越智と分かちあった快楽の名残りに、
私は全身を熱くけだるくゆだねながら、
私の恋が、潮のひくようにさめていくのを、ながめていた。
園子は、世間の道徳律や、女や男の「幾枚もの舌」に向けたまなざしを、
自分自身にも向けたのだ。そしてそこに、
愛の無い、「味気ない」結婚生活においても、
恋愛感情の頂点にあっても、
相手が誰であっても、
肉体が感じるものは同じである、という事実を見た。
園子は友奴のつてで家を探し、
帽子店に勤めながら速記を習い、速記者として自活する。
だが、越智は北林夫人の「命がけの執念」から逃れられず、
東京にたまに通ってくるだけとなる。
ある日園子は、帽子店のマダムに、
彼女の若い恋人とのデートの代役を頼まれ、
バーやクラブで飲んだあと、ホテルへ行く。
越智の顔が浮かんだが、心には何の痛みもなかった。
その若者のからだの下でさえ、私の子宮はうめき声を押さえきれず、
私は快楽の極に持つあの甘美な失神に、
夜明けまでに二度もおちいった。
マダムは帽子店を隠れ蓑に、コールガールの斡旋を本業としていた。
園子は高級娼婦として、スカウトされたのだ。
最初は金を取らなかった。
だがある老人が、「執拗ななうしろめたさを取り去ってくれた」。
「きみのこんな女らしさ、女の完璧さは、私のように、
人生のほとんど終りに近づいた者の目には、
怪しくみえるより、痛々しい……。きみはおそらく、
きみの恵まれた稀有な官能に、身を滅ぼされるよ。
それが私には見える。それだけに、
きみがいじらしくてどうしてあげてよいのかわからないのだ」老いた男は……私の胸に、柔らかな白髪の頭をうずめ、
うわごとのように囁いた。
かすかな、気配ほどの低い声であったけれど、私は聴いてしまった。
「かんぺきな……しょうふ……」
いきなり、全身の皮膚をはぎとられる、痛みと寒さが私を襲った。分厚な札の感触が、掌におしつけられたとき、
不思議な感動が、全身を貫いて走った。私は今、男からためらわず、金を受け取る。
「このごろ、あなた以外の男は、みんなあれにしか見えないわ」
越智にそんなことを、あけすけにいう。
私には恋だの愛だの、思いつめた目の色は遠々しいものになっていた。
娼婦という名に、じぶんをのめりこませた今は、
ぬるま湯にひたっているような、けだるい安息があった。
ここまで書く必要があったのか、という声もあるようだけれど、
徹底を求める作者の筆が、「貞女」の対極に園子を置いた、ということだろう。
川上弘美は、「まことにすっきりと整ったよい作品に思える」と賛辞を述べ、
非難されたのは「ある意味での理想の女性」を、女性作家が書いたからだ、
と分析している。
そしてそれは男女を問わず、「怖いことだったろう」と。
非難が怖れに根ざしていたのではないか、というのは同感である。
その怖さとは、「理想の女性」が、
性のアナーキーさを白日の下にさらけ出した怖さだと、私は思う。
そして、(アナーキーな性とは、まさしくポルノであるから)、
もしこの作品が、「性行為の露骨な描写」とともに、
ポルノ(官能)小説として書かれたのなら、
おそらく非難はなかったのではないか、とも思うのである。
『花芯』は中篇小説だが、
北林夫人の、老いてなお男に向かう執着や、
園子と夫人の共感や触れあい(文字通りの)など、印象的で忘れ難く、
それ自体一つのテーマとなるような女の姿も、巧みに織り込まれている。
いずれも、さらさらと心地よく流れていくものではない。
読後に、苦い澱のようなものがひっかかって残る。
しかし、その苦味を私たちが感知するかぎり、
この作品の今日性が、失われることは無いだろう。
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