—私家版私の好きな女たち/アナイス・ニン(4)
『ヘンリー&ジューン』 アナイス・ニン 杉崎和子/訳 角川書店 1990年
『インセスト』 アナイス・ニン 杉崎 和子/訳 彩流社 2008年
◆インセスト(近親相姦)へ
アナイスは、ヘンリーとジューンとの関係を通して、
女としてひとつの困難な山を乗り越えた自信を得ていた。
アランディ(=父なるもの)に求めた複雑な感情も見据え、
失望とともに、ある種のカタルシスも感じていただろう。
だが、「父が戻ってきたとき、私はすでに、彼を罰したいという
盲目的で冷酷な本能を生き終わっていた」 とは言うものの、
やはりアンビバレントな、整理しきれないものもあった。
二十年間の空白の後、父との出会いは、単なる邂逅ではなく、認識であった。
男と女として性的な完結を果たすこと以外に、
二人の関係は成立し得ないという認識であった。強く、冷酷なヒーロー、苦しみを与える人として頭に描いていた父は、
会ってみると、やさしく女性的な、傷つきやすい人だった。
彼とともに、神までが、私にとって人間的な、不完全な、
傷つきやすいものになってしまった。私から恐怖も、苦しみも、冒涜的な情熱も消えた。
そして、神聖な父が残った。神聖なものを見つけた。解放された私は、
ヘンリーが言うように、神と「和解した」のかもしれない。
注目すべきは、明確に、父との「性的な完結」という言葉が記されていることだ。
アナイス・ニンは、1932年に書き始めた小説『近親相姦の家』について、
「初恋はいつも家族のなかで始まり、
感情的な意味では必ず近親相姦的なものである」 と、
晩年のインタビューで語っている。
この作品は、ヘンリーとともに一年間記録をつづけた夢をもとに、
ジューンのイメージを定着させようと試みた、シンボリックで詩的な、
アナイスの処女小説だ。
このなかでは、父と娘の近親相姦は、「絵画の部屋」に、
旧約聖書にあるロトとその娘の姿として、燃えあがる都市(ソドム)を背景に、
まるで一幅の絵のように描かれているだけだ。
だが、アナイスのなかで、父との「性的な完結」は、
けっして途切れない地下水脈のように、 流れ続けていたようにも思える。
整った体型、無駄のない優雅さ、力強い仕草、ゆったりとした若さを感じさせる。
何とも言いようのない魅力がある。欺瞞的な魅力だ。
人をはばからぬエゴイズムがある。張り巡らされた嘘、
まだ言葉になってもいない非難への防御がある。
他人の眼に映る自分の姿を気にしてばかりいる。批判を恐れている。
傷つきやすい、恒常的に、そして不可避的に、事物を奇形化する。
縦横に機知を駆使する会話。イメージの暴力。子供っぽさ。
相手を骨抜きにしてしまう魅惑。いつでも魅惑的な彼。裏には、虚偽と幼稚さと非現実がある。
自分を甘やかしてきた男。それでいながら、私が重く抱える問題を、
すなわち、拡張志向や突然の激しさや破壊力を内包する不安を、抱えている男。
創造に情熱を燃やし、ときとして、冷酷にならざるをえない男。私の分身(ダブル)、私の邪悪なダブル。
私の不安と、自信のなさと、欠陥を人格化した男。私の性癖を誇張する男。
アナイスの父、ホアキン・ニンは、スペインの没落貴族の息子で、
ピアニストであり、作曲家としても活躍していた。
ハンサムな芸術家は、また、華やかな世界で女遍歴をかさねるドン・ファンでもあった。
夜の夢で私は恋人のように父に抱かれていた。快楽が深い。
目を覚ますと、私が抱かれているのはヒューゴーだった。
その夜は、また、父とヘンリーと似ているところがあると気づく。
( 『インセスト』 -以下同- ここまでの引用はすべて1933.5.5)
この夢は、父と二人で過した6月の南フランスで、現実のものとなる。
◆崩れる幻想
君を伴って陽光の世界へ逃避することを、
そこで君を私だけのものにできる数日間を、夢見ている。
そうした絶大な楽しみが、我々には許されてもいいはずだ。
触れあう度に炎に焦がされてきた二人の心は、そこで一気に花開くだろう。
(1933.5.21)
父から娘への手紙は、すでに、
ずっと許されなかった恋の成就を夢見る、ラブレターのようだ。
ヴァレスキュールのホテルで、父は娘に、彼女の母親とのセックスや、
数々の愛の遍歴を語って聞かせる。
母の話には妙な気分にはなるものの、娘も負けじと、
自分の性愛の冒険を語る。
それはまるで、互いがモラルや規範からどれだけ自由であるかを確認し、
次のステップへ進む手続きのようだ。
父の腕が私を抱いた。私はためらった。
複雑な感情をどう整理すればいいかわからない。
「最後まで行ってはいけない。だが、キスだけはさせてくれ」
彼が私の胸をまさぐる。乳首が硬くなる。
「だめよ、だめです」 こばみながら、私の乳首は硬い。
彼の手が私の芯に触れる。何もかも知り尽くした手。私は溶ける。
でも、私のどこかに、こわばり、恐怖に慄いている部分がある。
躰は彼の指をゆるしたけれど、私は抵抗を止めない。
歓びを避けている。「歓んでくれればいいんだ。さあ、私に任せて」
でも、歓ぶことなんかできない。
探り当てようと微妙に動く彼の手から逃れるために、
私は偽りのその瞬間を演じてみせる。
彼の上に体を伏せた私に硬いペニスが触れる。彼が上掛けを取った。
私の手が彼を包む。私の手の中で欲望に慄える彼。説明できない激情に駆られて、私はネグリジェをたくしあげ、
彼の上に躰を重ねた。
「ああ、アナイス、私は、私は、神を失くしてしまった!」
うっとりとした父の顔。
もうどうなってもいい、この父と結ばれさえすれば……
私の躰が彼の上で揺れ、彼をかき抱き、縋りつく。彼の躰が、彼の存在そのものが、すべてを私の中に打ち込みながら、
激しく痙攣した。私も私のすべてを彼に託し、彼に応えた。
ただ、凍えた芯があって、それが絶頂の歓びを私に与えなかった。
(1933.6.23)
どちらが仕掛け、どちらが応じたのか。
私には、互角の共犯関係に見える。
この9日間で、父と娘は何度も濃密な性を交わした。
異なるのは、アナイスには罪悪感があり、父にはないこと。
父には性のクライマックスがあり、アナイスにはないこと。
後悔はなかっただろう。
だが、ようやく手に入れた幻想の性愛は、アナイスに混乱もたらした。
いまだにヴェールに包まれた、この近親への愛は夢のようでもある。
それを現実にしたい。だが、それが逃げていく。
罪の意識があるからだと、アランディなら言うだろう。
ランク博士に会って、話しをしたいと思う。
アランディーよりも強い知性が必要なのだ。
芸術や、創造、近親相姦について、ランクと心行くまで、深く掘り下げて、
話しがしてみたい、としきりに思う。(1933.7.21)
父には、誰にも話さない、日記にも書かない、と約束した。
もちろん、日記に書かないという約束はすぐに破られる。
だが、日記に書くだけでは、混乱を収めることは難しかった。
◆「完璧な男」
父への手紙に、「新しく率直な生き方がしたくなりました」とアナイスは書く。
父の影響を離れて生きたい、ということだ。
私にとって大きなひとつのテーマに終りが来た。
あるいはひとつのサイクルが終わった。(1933.8.8)私は山登りの途中で、なぜかリーダーの姿を失ってしまう。
私が探しているのは人間の男ではなくて神のような気がする。
だが、この頃の私は虚無を、神の不在ゆえの虚無を、感じている。ヘンリーを愛することに私は何の抑制もない。
彼は人間の神、ことごとく不完全な存在だから。
だが、父は人間ではない。神であるべき存在だ。(1933.10.30)
アナイスが父に求めたのは、「完璧な男」、
「肉体に顕現した神、両の腕とセックスを持った強い神」であった。
父に再会するまで、彼女は複数の男たちに「父」の断片を重ねあわせ、
彼らを愛してきた。その男たちが、いつしか「父」ではなく、
彼女の「子供」のようになってしまったように、やはり現実の父も、
情熱を解き放った後にしみじみと眺めてみれば、「弱い男」であった。
11月、ついにアナイスは、フロイトの弟子で(当時は袂を分かっていたが)、
高名な精神科医、 オットー・ランクの門をたたく。
結果は、ある意味大成功だった。
ランクはアランディーとは違い、
「類似を強調するのではなく、相違に注目する」分析を実践していた。
彼は「それ以上の何か」をわかってくれる人だった。
父と私とのことには、母に勝ちたいという願望以上の何かがある。
ヘンリーとの関係では被虐的な自己犠牲とか、
ほかの女の優位に立ちたいという願望以上の何かがある。
セックス、同性愛、自己愛を超えた何かがある。
それは創造だ。創り出すことだ。「あなたのエネルギーは、ものを書くということにつぎ込まれるべきですね」
嘘で不自然に固めた毎日の生活に私自身が疲れ果て、
すっきりと完璧な人生を生きたいという私の思いを、
彼はあざやかに理解してくれた。
アナイスは、「日記を前にしたように真摯」に、ランクの前にすわる。
彼は、それまで誰も言わなかった、ショッキングなひと言を口にする。
「日記を書くことを止めてください」
ショックから立ち直った私の心は、所有欲の強い男に、
君の躰も心も魂も全部もらい受けたい、と言われでもしたように、
ざわざわと波立っていた。ランク博士は、たったのひと言で、
彼のすべての要求を突きつけた。その彼の力と技に、私の心が波立った。
これが、私の探していたものではなかったのだろうか? (1933.11.7)
さらにランクは、家や男たちと離れて、ニ三週間ほど一人で暮らし、
その間集中的に分析を受けるようすすめる。
アナイスはランクを信頼し、この二つの要求を受け入れる。
(と言っても、ヘンリーとの関係だけは、ヒューゴーから離れたことを良いことに、
続けられるんだけれど)
彼にはたぶんわかったのだろう。
私の中の女は早々に姿を消すだろうということが。
女が果たす役割はここにはない。
男のために生きる女という役割は私のためのものではない。
三人の男の間で生を分断する私は女を否定し、
それゆえに芸術に戻っていくほかないのだということを。 (1934.1.20)
ランクの分析を経て獲得したこのアナイスの自己像は、
個人的には100%同意できるものではないけれど、
少なくともアナイスの混乱は整理され、肯定され、進むべき道も示された。
1934年6月の日記には、「わたしは父から自由になった」と記している。
だが、新たな愛が始まってもいた。
この半年で、アナイスはすっかりランクに心酔してしまったのだ。
ランクとの性的な夢も見る。
その夢は、父のときと同じように、現実のものとなる。
アナイスは、現実の父には得られなかったもの、
深い知性と信念を持つ、強い「リーダー」を見つけたのだ。
ランクは、恋人としても最高の能力の持ち主だった。
「父」の影は、ランクの分析によって消えていったのか、
あるいはこうして新たな「父」ともいえる恋人を得たことで、現実化したのか。
このことは、上記のアナイスの自己像を翻すものでもある。
彼女は、男のために生きる女にはならなかったかもしれないけれど、
自分の中の女を否定することは、生涯なかったからである。
そして女であることと芸術も、また、矛盾なく彼女のなかに存在しつづけた。
アナイスは、最初こそ一ヶ月ほど日記をつけないで耐えるが、
日記はすぐに復活した。
複数の男に「生を分断する」日々もまた。
【参考】
『近親相姦の家』 木村淳子/訳 鳥影社 アナイス・ニンコレクション Ⅱ(1995.6)
『「父の娘」たち』 矢川澄子 新潮社(1997.7)
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