色・褪せない ④ 変容と予兆

posted in: 色・褪せない | 0 | 2010/11/2
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私家版私の好きな女たち/アナイス・ニン(3)

『ヘンリー&ジューン』 アナイス・ニン 杉崎和子/訳 角川書店 1990年
『インセスト』 アナイス・ニン 杉崎 和子/訳 彩流社 2008年

 

 

◆アナイスと日記

アナイスは日記を、妻と子供たちを捨てて愛人と出奔した父に宛てて、書き始めた。
11歳だった。
最初は手紙のようなものだった。
それが次第に、パリを離れて移り住んだニューヨークでの暮らしを、
父が家族の許に戻ってきたくなるように、魅力的に伝えるための記録となる。
更に日記は、言葉もわからない異国の地で、
何でもうちあけられ、慰めてくれる親友ともなった。

アナイスはこの日記を、生涯を通して書き続ける。
残されているものは150巻、4万ページ近いとも言われている。

彼女は日記を、かたときも離さず、絶えず、どこでも書いた。
カフェで、列車の中で、夫の目前で。
自ら「私の麻薬」と呼ぶほど、彼女は日記に惑溺していた。
(今なら「日記依存症」と診断されてしまうにちがいない。)

作家をこころざし、 作品を発表し始めたこの頃のアナイスにとって、
日記を書くことは、創作に向けるエネルギーと時間を奪うものでもあった。
彼女の日記を読んだヘンリー・ミラーも、その素晴らしさを賞賛しながらも、
「作品創作の代償行為だ」と指摘している。

けれども、誰にどう言われようと、
アナイスの日記に対する信頼は、崩れることはなかった。

私が日記を書くのは、この世でもっとも掴みどころのない人物を、
何とか解明するための努力なのだと思い至る。
その人物、すなわち、私は、自分の探索を巧みにかわす。
自分の嘘もすべては白状しない。
そんなことをしていたら、時間はいくらあっても足りない。
この私という人物は、とても書ききれるものではない。
考える道筋は、際限なく分かれていくんだから。
(『インセスト』1933.4.19、以下特別に記載のないものはすべて同)

「とにかく、日記を持たずに来て欲しい」とヘンリーは言う。
カフェのテーブルの上に置かれた日記は、生きものみたいだ。
ヘンリーの究極のライバル。
私だって、実は悩んでいる。
何でも打ち明けられる生きた人間がいれば、それに越したことはない。
だが、生身の人間は、ほかのことで頭がいっぱいだったり、気分屋だったり、
忙しかったり、心ここにあらずだったり、そして、いつか関心を示さなくなくなる。
私の日記は絶対にそんなことはしない。(1933.6.2)

彼女の『日記・無削除版』は、通常は誰も他人にさらしたくないような、
限りなくデリケートな、性愛にまつわる部分が主軸をなしている。
なのに、他人のプライバシーを覗き見ているような居心地の悪さを、
少しも感じさせない。

私の信条–人は内面奥深く、自己の核にまで認識を模索していくと、
ついには個人的な領域を超越し、外界との接点に到達する。
(『アナイス・ニンの日記』)

アナイス・ニンの訳者、山本豊子氏は、この、
「内面世界から外部の人間関係に纏わる領域へ拡散される動力」が、
「ニン文学の本質を形而している」と記す。
(.『心やさしき男性を讃えて』あとがき)

アナイスの文学のホームベースは、どこでもない、日記なのだ。
書かれた内容が、単なる私的な記録であることを超え、
私たちに、「生命のシンボル」、
「これに触れて初めて人間が単調な世界から抜け出ることができるんだという、
そういうものに満ちた別世界」(『言葉の箱』辻邦生) を、
見せてくれるものだ、ということ。

「代償行為」と言っていたヘンリーも、後に、
「いまから百年後に、この素晴らしい記録がわれわれの時代の文学史において、
特筆すべき作品になるだろうとぼくは信じている」と、書き記している。

では、『日記』についてはこれくらいにして、『無削除版』の二冊目、
『インセスト』という「別世界」に入っていくことにしよう。

 

◆変容

パリに戻ってきたジューンの力は、アナイスが恐れていたほどではなくなっていた。
彼女がいない間に築かれたヘンリーとの信頼関係や、
彼に及ぼしたアナイスの影響力は、ジューンの「美しさ」や「狂気」によっては、
もはや打ち破れないものとなっていたのだ。
作家ヘンリー・ミラーにとって、アナイスは、情熱的な恋人としてだけでなく、
経済的な援助に加えて、創作においても、
批評しあい、高めあえる、得がたい伴侶でもあった。

ある日、ヘンリーのアパートで、議論の末にヘンリーが出て行ってしまったあと、
アナイスはジューンとひとつのベッドにもぐりこみ、明け方まで話しながら過す。
このとき、日記には詳しく語られないが、
性的に一歩踏み込んだ触れあいを持った。
だが、ジューンの冷静さに、燃えあがった欲望は途中で醒めてしまう。
そして鋭いジューンに、それまでひた隠しにしていたヘンリーとの関係を、
気づかれてしまう。

この三人のもつれた関係は、アナイスのジューンに対する愛情や共感によって、
通常の三角関係とはずいぶん違うものとなっている。
アナイスは、この経験を『ジューナ』という中篇にまとめた。
印象的なのは、微妙に揺れ動く女同士の感情の綾や、
一瞬通い合うかに見えたものが、悲しくすれ違っていく様を描いた部分だ。

『ジューナ』は『人工の冬』に収められて、1939年にパリで出版された。
だが、アメリカでは発禁となり、
後に再出版された『人工の冬』からは削られてしまい、
長く読むことができないでいたのだが、
昨年、『ジューナ』の入ったオリジナル版が日本でも翻訳された。

刺激に満ちた森のような彼女の存在に、やわらかい無防備な開口部があった。
足取りも軽く、わたしは分け入った。
羽毛のような愛撫、ジョハンナは蛾の侵入にあらがえない。
私たちの胸には没薬、口には香。
指先を触れただけで風が起こり、巻き毛は逆立つ。
唇のブラシの下、皮膚は花開き、いまにもはじけ蜜をあふれさせる、
雲のようなやわらかさがあった。はじける雲。

巻き貝のようにしなる首に巻き込んでいくキス。
塩味のする花粉が通路に火をつけ、やわらかくふっくらした唇が触れ合う。
巻き毛は逆立ち、わたしたちは閉じた唇のあいだでうめき、
ため息をつき、泣いた。

だが嫉妬はすでにわたしたちの肉体に目覚めていた。
ふたりの髪が織りあわされるほどぴったりと寄り添って寝ていると、
夜明けが部屋を訪れた。

(ジョハンナ、こわいの? 疑っているの?
あなたが恐れていることはすべて事実です。
でも、あなたの半身がわたしであってほかの誰でもないことを、
あなたはよろこばなくてはいけないわ。
あなたにはわたしがわかっていない。これは裏切りではなく、
間結婚であり、三位一体であり、三角形に流れる情熱なのです。

なのにあなたは敵を見るような眼でわたしを見る。
わたしはただあなたを完成しただけ。
でもわたしもあなたなしには完成しない。
あなたは奇跡の可能性をつぶしてしまう。……)
(『ジューナ』)

「何世紀にもわたる女たちの間の戦争を埋葬する」ことは、
アナイスの満たされない願望、夢想に終わる。

ジューンは翌日ヘンリーのアパートを出て行く。
ヘンリーとジューンの間には何度か激しいやりとりが交わされ、
心配したアナイスや友人が金を工面して、
ヘンリーをロンドンへ逃亡させようとまでする。
これは一度目はヘンリーがジューンに金を渡してしまい、
二度目は国境で所持金不足で強制送還されてしまい、計画倒れとなる。

いずれにしろ、事態は次第に落ち着いて行き、
ヘンリーは自分の本が出たら結婚しようと、 アナイスに繰り返しプロポーズし、
ヒューゴーにも打ち明けるべきだと訴える。

お金のことは問題の半分でしかない。
私には、人間として解決できそうもない難問がある。
ヘンリーにもわかっているはずだ。
私には、ヒューゴーが捨てられないということ。

ヘンリーと生きたい。どんなに苦しくても、危なくても、おぼつかなくても、
彼と生きていきたいと思う。
何もかもが満たされた、このヘンリーとの日々は、
私にとって、ひとつの開眼であった。
私がずっと探し求めていたものがある。
芸術家であり、男であり、知性的にも官能的にも優れて豊かな素質をそなえた、
ヘンリーのような男をどんなに探していたことか。
こういう男に、どんなに飢えていたことか。

嘘はもう嫌、二つの生を生きるのは嫌だ。ずっと偽りを抱えているのも嫌だ。
自分を変えたり、役割を入れ替えたり、他人を騙したりするのも嫌だ。
ヘンリーとの完全な生が欲しい。絶対が欲しい。
今の、思慮と知性はあっても表層的な生活は嫌だ。
いくつもの生と愛のバランスをとりながら、
三層、四層もの生を生きることなど、 もうまっぴらだ。(1933.1.1)

クリスマス休暇でヒューゴーが不在のルヴシェンヌで、
ヘンリーと10日を過したあとの記述だ。
それは、これまでの裕福なエリート銀行員の妻としての、
華やかで、かつ表面的な社交生活とは程遠い、
内省的な執筆の時間を、共有した日々でもあった。

 

◆予兆

けれども、ヘンリーと生きたいという強い渇望も、
ヒューゴーと別れられないという思いに打ち勝つことは、ついにない。

今、ほんとうに私がしたいこと、それはヒューゴーも、母も、ホアキン(弟)も、
アランディも、エドワルドも、みんな棄てて、ヘンリーと冒険の旅に出ること。
でも、私は絶対そんなことはしない。
父の出奔で、私が受けた苦しみをほかの人々に味わわせることは絶対にしない!

ああ、そうだったのか……と、最後の一行に深く納得する。

父に関する記述はそれまでもあった。
だがこの頃は、自分の行動の根に立ち返ったとき、そこにいるのは父であることを、
かなり明確に記すようになっている。

たとえばアランディとの関係については、
二度の情事の間に、こう分析されている。

たしかに、アランディは、私を創りだしたと言える。
そしてアランディは私を愛し、私の躰を欲しがっている。
私の方はアランディの中の「父」を征服し、その上で、滅ぼし、
自分の力を主張しようとしている。(1933.4.19)

これを限りと約束しての、アランディとの二度目のセックスは、陳腐なものだった。
アランディが鞭を持ち出し、アナイスを打ったのだ。

失礼な! と彼を打ち返してやりたかった。
一体、このどこが官能的なの? 笑うよりしようがない。
自尊心がひどく傷つけられる。

最初のときと同じだった。脅しや刺激でせっせと飾っても、
彼のファックは、ちっともよくなってはいない。
小さなペニス。そこには神経も通っていない。
これが官能の極地ですか! でも彼は、それを感じたようだ。
このコメディを私も一緒に演じてあげた。
「こんな体験は初めてだ。まさに歓喜の極地だ!」
とアランディは、息を荒げている。
そして私は、<これをみんなありのまま日記に書こう。
真実は下劣極まりない言葉で描写されるべきだから>と考えていた。

アナイスは、ヘンリーに対する嫉妬をむき出しにするアランディに、
ヘンリーとは別れたと嘘をつき、分析においても、ときに正直に自己を語らない。
そして彼とのセックスは演技に終わる。

私が騙したのは、
「仕事が退屈になってきました。 人間はみんな同じですね。
同じような状況で、同じように反応しますからな。
同じパターンだ、侘しいかぎりです」と言った男だ。
彼には類似点しか見えていない。違いが見えないのだ。
素晴らしい違いが見えないのだ。気の毒な人だ。
信じるのではなくて、知っているだけの男。
そんなのは死だ。私なら信じる。

今日、私は、ひどい失望を味わった。 アランディをとおして、
生は、そのいくつもの泉を識れば、自在に操り、支配し、
干渉できるドラマに見えたからだ。
それは、生のエッセンスを、 すなわち、生を信じ、恐れ、
神秘を感じるというエッセンスを破壊することだと思う。
識ることの恐ろしさを、
識るために人が支払わなければならない致命的な代償を、
今日、私はみせつけられた。

でもどっちなのだろう。生の根源に干渉した男たちが、死んだのか、
それとも、死んでしまった男たちは、生に干渉することによって、
生きている幻想を手に入れるのか。
今夜の私は竦んでいる。
私は死の世界を歩いて来たのだ。
私は死と交わったのだ。(1933.4.19)

この少し前、二月の日記に父の記述がある。

もうひとつの、そして最終的な私の生の頂点。
それは私に拒絶された父が、そのことでどんなに苦しんだかを知ったとき。
父は私を愛していたのだ。

パリに戻ってから7年間、アナイスは父と会うことを拒否していた。
だがある人から、「お父様は、子供たちを手放して、
どれほど悲しい思いをされたか切々と訴えられた」と聞かされ、気持ちが変わる。

「父がとっても好きだった。愛していた。
そして、そのことを罪だと感じ、 苦しんでいた」少女、
聖体拝領のとき、「神をいただくかわりに、父をいただき」、
「父を感じ、父と心を通わせ、宗教的な幸福の歓びと、
近親相姦の悦びが入り混じる感激にわなないていた」少女が、
アランディに対する欲望と失望を経て、
父の真実と向き合うときが、訪れようとしていた。

 

【参考】

『心やさしき男性を讃えて』アナイス・ニン 山本豊子/訳 鳥影社(1997.7)

『人工の冬』矢口裕子/訳 水声社(2009.9) ・・・パリで出版されたオリジナル版。
アメリカで発禁となり、1961年の猥褻法失効後も、2007年まで復刻されなかった。

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