誰より先にマリエが言った。
—この人たち、“クラブ・ジェイン”で私と同じアクターをしているの。
でも、なんだか変な気分。
—なんで?
—本当は、こうやってアクター仲間と乾杯してる私は、
あなたのはずじゃなかったかしら?
—そうかもしれない。でもいいじゃない。あなたは私でもあるんだから。
「リョウちゃん……」
みずきがリョウの顔を覗き込み、モモはけげんな表情を浮かべている。
「ごめん。ちょっとぼんやりして」
マリエとの対話が、他の人といるときに始まることなど、今までなかったのに……。
チキンは美味しかった。
みずきが持参した大きなイチゴのデコレーションケーキも、
上品な味でフランチャコルタによくあった。
2本目を開ける。それが半分も減らないというのに、
酒を飲みなれないモモは早くも酔っ払っていたし、
すでにクライアントと飲んできたみずきも、目をとろんとさせている。
酔うとズボンのジッパーをおろすクセのあるモモが、
ウエストボタンに手をかけ、みずきの胸をまさぐり始めた。
「もう、しょうがないわね、このコ。いつもこうなの?」
「さあ、みずきさんのこと、好きなんじゃない?
あ、面接試験が忘れられないのかも」
「いいけどさ。でもリョウちゃんには迷惑よね」
みずきがまんざらでもなさそうな声で言った。
「どうぞご遠慮なく。モモはきっと、今夜は泊まるつもりで来てるはずだし。
よかったらみずきさんも泊まっていって」
「だけど、どうやって寝るの」
—ふふふ
マリエが笑った。
—若い人っていいわね。平気でこんなことができる。
「ごろ寝でいいじゃない。私ちょっと出かけてきたいところもあるし」
「どこよ」
「オステリア」
オステリアでは、クライアントやアクターに一般の客まで混じって、
クリスマスパーティーが開かれていた。
とくにアクターは、ジェインに挨拶するためだけにでも顔を出すのが、
この日の慣わしになっているという。
モモは夕方寄ってきていたし、みずきはクライアントとそこで飲んできていた。
「なんだ、行ってなかったの? OK じゃごゆっくり」
冷蔵庫からブッシュ・ド・ノエルを取り出す。
幸いタクシーはすぐにつかまった。
オステリアにはまだたくさんの客が残っていたが、
ジェインの姿だけがなかった。
「ジェインがいるのは、11時までなんです」
コバが申し訳なさそうに言った。
「すみません、せっかくおしゃれして来てくれたのに……」
あっと髪に手をやる。マリエの髪に、マリエの服で来てしまった。
ジェインがいなくてよかったと胸をなでおろす。
「明日、出直します」
シャンパンだけでも一杯と引きとめられたが、
スローなブルースを踊っている客を後に、扉に手をかける。
—ここがジェインのオステリアよ。
—素敵ね。
マリエが名残惜しげに言った。
—ジェインさんに会いたかった?
—ええ、でも会えなくてよかった。
—会いたかったんでしょう?
リョウは会わせてやりたかった。
—だって、会ったら私、自分がどうなるか……。怖いわ。
—どうなるかって?
—あの頃、ジェインの全てが欲しかった。
彼の前にいると、仕事もなにもかもどうでもよくなってしまう。
きっとあっという間にジェインを焼き尽くして、自分も燃え尽きて、
終わってしまうと思ったわ。終わらせたくなかった。
だからいろんなことをしたの。
でも今ひと目でも会えば、すぐにあの頃に戻ってしまうような気がする。
自分を保っていられる自信がないの。私はこのままがいいのよ。
あなたにはまだわからないかもしれないけれど。
遠くにいれば、静かに、ずっと炎を燃やして、
それを楽しむことだって出来るの。
いつもは言葉を濁してしまう答えを、マリエは口にした。
リョウは黙って、その言葉を噛み締める。
ゆっくりと、何度も頭の中で繰り返す。
終わらせたくなかった……。終わらせたくなかった……。
静かに燃える炎は、楽しさの何倍もの苦しさを伴っていることを、
リョウは知っている。
その同じ炎がジェインの中でもをずっと燃えていることも。
—会いに、行こうか……。
マリエは答えない。
かかえてきたケーキの箱を、駐車場に停められたポルシェのボンネットの上に置く。
携帯を取り出し、記憶されている番号を呼び出す。
「もしもし、ジェインさん……」
「ああ、ルゥか。今夜はどうした。待っていたのに」
「ごめんなさい。今、着いたんです」
「モモから、君のところでパーティーだと聞いた。
だから来てくれないかと思っていたよ。あいつも一緒か」
「いいえ……」
一緒なのは別の人……。
「一人です」
私を待っていたのなら、言って欲しい。ひと言、来いと。
「今夜はもう遅いな」
だがジェインは、即座に、まるで何かを封じ込めるように、
急いで扉を閉めなければ、隙間から大事な何かが逃げてしまうとでも言うように、答えた。
—帰りましょう。
マリエが言った。
—でも……。
木立を揺らして冷たい風が吹きつけ、
駐車場に停められた車の上を通り過ぎていった。その風の向こうに、
突然、夏の夜の重力を伴った空気がよみがえる。
—ここを、ジェインさんと歩いたの。暑い夜だった。
坂を下るとアイスクリーム・スタンドがあって……。
「ルゥ?」
ジェインが、呼んだ。耳に深い声が残る。
「今、どちらですか?」
「マンションだが」
「これから、伺います。あの、渡したいものがあって……」
—ダメ!
マリエが、悲鳴のように鋭い声で叫んだ。
—ダメよ。私、会いたくない……。
—怖がらないで。大丈夫よ。きっと……。
「そうか。迎えに行こうか」
「いいえ、少し歩きたいから。だから心配しないで、待っていてください」
電話を切り、ケーキの箱を手にする。
マンションには向かわず、突き当りまでゆっくりと歩き、坂を下る。
走りだしたいほど気持ちは急いていたが、マリエをなだめたかった。
—あのときがジェインさんの最初のレッスンだったわ。
—レッスン?
案の定、マリエは聞き返してきた。
—ええ、私に教えてくれたの。アクターがどういうものかって。
気が付くと、手を取られていたわ。
握られた私の手が、しっとりと濡れていった。
どこから沸いてきたかわからないような不思議な感覚に、全身が震えた。
それからジェインさん、アイスクリームを買ってくれて……。
坂を降りたところに、スタンドはなかった。
虚ろな空間に闇だけが溜まっている。
往来に流れる車のほとんどはタクシーで、
カラフルな車体が次つぎに目の前を行き過ぎた。
—この季節じゃ、アイスクリームなんて売ってるはずないわね……。
—あなたがジェインを好きになったのは、そのとき?
マリエが言った。その言葉が痛みを伴って体に打ち込まれた。
—そうかもしれない。
隠したってしかたがない。嘘をついても無駄だ。
—いいえ、違う。きっともっと前。初めて会ったときから、だと思う。
—……。
マリエが悲しそうに、ため息をついた。
—ごめんなさい。
—いいのよ。あなたでよかったと、思っているの。
ジェインもきっと、あなたのこと、好きだと思うわ。
—今から、会いにいきましょう。そうすれば、マリエさんだって……。
—いいえ、だめ。今夜はダメ。
もう、帰って。お願いよ。あの、ほらなんて言ったかしら、可愛い男の子、
あの子、あなたを欲しがっていたじゃない。応えてあげて。
マリエの抵抗は、予想以上だった。深夜の交差点に立ちすくんでいると、
通り過ぎるタクシーが決まってスピードを落とす。
その中の一台に向かって、リョウは右手を上げていた。
目の前で開けられたドアに、からだが吸い込まれる。
「どちらまで…」
走りだしたあとの運転手の声に我にかえる。
「……」
交差点の歩道の信号が黄色になったので、タクシーはスピードを上げた。
あわててリョウは声を張り上げる。
「停めて!」
「はぁ?」
「停めてください、すぐに」
あまりの剣幕に運転手は驚いたようだが、
交差点を過ぎたところで、車を歩道に寄せた。
バッグから財布を取り出そうとするのだが、なぜか財布がみつからない。
ヒステリーを起こしそうになって、シートの上にバッグの中身をぶちまける。
しょうのない酔っ払い女……。
だがルームミラーに映る運転手の冷たい視線など、リョウにはどうでもいい。
バッグの底から転がり出た財布をつかんで料金を払う。
タクシーは、リョウが降りるとばたんと乱暴な音をたててドアを閉め、
タイヤを鳴らして走り去った。
だって…… と、胸の底でつぶやく。
私は会いたいの。今夜、あのひとに、会いたいの。
車の流れが切れるのを待ち、赤信号を無視して交差点を渡る。
坂道にさしかかり、重い足を無理やり引き上げるように登る。
—いいでしょう? ね、会いに行きましょう……。
マリエは答えない。
道路から排気ガス臭い風が舞い上がった。
コートのボタンを留めていなかったので、風はコートの裾を踊らせ、
その下に入り込んできた。まるで裸で冬の嵐に晒されているように、
リョウは身を震わせた。
—マリエ、さん……。
誰も、何も答えてくれない。
—寒いわ。とっても。ねえ、あなた、大丈夫?
やはりマリエは何も言わない。
駐車場の脇の小道に入る。
オステリアの庭を突っ切って行けば近道だとわかっていたが、
もう少し、マリエに呼びかけたかった。
—わかって、くれるでしょう? あなたなら、私の気持ちが……。
マリエは去ってしまったのだろうか。
リョウの中に彼女の気配は微塵もなかった。
ただ、押し戻そうという力のようなものだけが、
ジェインを求める想いに抗って、断続的に寄せてくる。
その大きな波に足をすくわれそうになり、リョウは歩を緩める。
それでもゆっくりと、ジェインのマンションが近づいてきた。
たどりついて、部屋の番号を記したボタンに、震える指先をのばす。
私は終わらせようとしているのか、それとも始めようとしているのか。
あるいは増幅する幻想に、ただ身をゆだねようとしているだけなのか……。
きっといずれも同じことなのだろう。マリエが怖れるように。
「はい……」
インターフォンが、ジェインの声で言った。
「ああ、ジェイン……」
「君は……」
「私よ。マリエ」
どくんと、大きく心臓が音をたてた。
インターフォンは、何も答えなかった。
私は何を言ったのだろう。
私の声は何故、こんなに華やいでいるのだろう。
玄関の電子ロックがはずされた。
エレベーターは、なかなか降りてこなかった。
もどかしくて、何度もボタンを押す。
いっそ階段を駆け上がろうかと思い、そうまで思う自分に、たじろぐ。
さっきまで争っていた高揚と沈静が、立場を逆転して、
だがやはり同じように争っている。
ようやくやってきたエレベーターで最上階まで昇る。
左右に扉が開くと、目の前に、ジェインがいた。
「ケーキ、持ってきたの」
「ああ……」
それは、初めて見るジェインだった。
いや、初めてではない。
写真の中で何度も何度も、繰り返し見たジェインだ。
時間が目の前で渦を巻いている。その中心に、ジェインがいる。
「これ……」
ケーキの箱をジェインに渡す。
「まさか……」
「ジェイン!」
そのままジェインの首にかじりつく。
「マリエ……」
ジェインが、私の名前を呼んだ。
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