ラウンジの片隅にカード用のテーブルがあった。
もしここがゲームコーナーのあるようなホテルだったら、
迷わずゲームをしに行っただろう。
リョウはテーブルを移り、ぐるりとまわりを見回してみる。
中年のカップルや女性グループが何組かいたが、
誰もリョウに注意を払うものはいない。
カードで一人遊びをしていると、男と女の影が視界のはじを横切った。
それに気付かぬふりで、カードを並び替える。
顔を上げると、ラウンジの人影はほとんど消えていた。
庭に目をやる。そこにも誰もいない。一人で庭に出る。
植え込みの手前におかれた丸テーブルにレモンリキュールのグラスを置く。
椅子に座り、建物を見上げる。
しばらくそうしていると、母の部屋のライトがついた。
人影が見えるのではないかと目を凝らす。
影は現れず、唐突に光が消えた。
その隣、ジェインの部屋はいくら待っても、ずっと暗いままだった。
あきらめて、そのまま展望風呂に行く。
遅い時間だったので誰も居なかった。
横長の広い湯船につかり、曇ったガラスの壁のしずくを手のひらでぬぐう。
窓の外は真っ暗で、海も、空も見えない。
片隅に設置されたサウナにも入る。
何度か砂時計をひっくり返したあと、冷たいシャワーを浴びる。
出てみると、ガラス壁がさっきより明るくなっていた。
手に持ったシャワーを、水の勢いを最大にして壁にふきつける。
一面に水滴が垂れる暗いスクリーンに、丸い月と、
その月に向かって伸びる光の道が、浮かび上がった。
部屋に戻りたくはなかったが、ずっと風呂につかっているわけにもいかない。
バーももう閉まっているだろう。
母の部屋の前を通りすぎるとき、一瞬気持ちが揺れた。
火照るからだにバスローブをまとい、テラスに出る。
隣の部屋の窓は、明るかった。テラスにジェインが出てくるのではないかと、
しばらく待ってみる。だがその気配はなかった。
月に照らされてほのかに明るいベッドに横たわった。
目を閉じると、庭で抱き合う母と兄の姿が浮かぶ。
だから目を閉じることができない。
アルコールの助けを借りるしかないかと思い、ライトのスイッチをひねり、
冷蔵庫に向かう。そのときかすかに、壁に物音がした。
ジェインの部屋との境のドアのロックをはずし、ノブを手間に引く。
昼間ふさがれていた壁は、なかった。
「起きてた?」 バスローブ姿のジェインが言った。
「ええ……」
「眠れそう?」
「ううん、だって、」
「小石の浜を洗う波の音が、聞こえない」
喜びが、奥深いところからこみあげる。
顔がほころんいくのを、止められない。
ジェインを迎え入れるために、リョウは一歩、後ろにさがる。
ベッドでバスローブをさなぎのように脱ぎ捨て、
代わりに兄の腕にくるまれる。
「ユウにい……」
もうその名を胸の底に無理やり沈めなくてもいい。
「まだ髪の毛、湿ってるぞ」
「乾かさなきゃダメ?」
「いいよ、あとで」
兄は今夜、きっとどんな望みでも叶えてくれる。
リョウは幼い少女が別荘の窓から見た、柔らかな光を浴び、
ぬめる水に戯れていた二人の姿を語る。
それから重なって、動かなくなった母と兄……。
「あんなふうに、私にもキスして」
兄の舌が、記憶の中の映像を溶かしていく。
ああ、これでやっと私はママになれる。
兄の指と唇がたどるところが、ひとつひとつ、新たに生まれかわる。
映像は一度ぼやけ、輪郭を失い、
リョウが声をあげるたびにゆるやかに形を取り戻し、
次第にリョウと兄の姿を結んでいく。
月の光がリョウの体に降り注いでいた。金の雨のように、
くまなくからだの窪みを満たし、皮膚にうがたれたどんな小さな隙間からも、
リョウのなかに浸潤する。
満たされ、張り詰め、零れ落ちる極みの声に、
リョウと兄の映像が一瞬だけ鮮やかに定着した。
けれども、リョウの欲望の波が繰り返し寄せ、そして引いていくと、
その映像はまた少しずつぼやけ始め、最後には、
静かに波がそれをさらってしまった。
「ユウにい!」
思わずしがみつく。
……去っていくものを呼び戻すことは、できなかった。
突然、激しい喪失感におそわれた。
呆然としたまま、なす術もなく、
リョウは自分が声をあげて泣いていることに気付いた。
ジェインがリョウの背中をさすりながら言う。
「朝まで、こうしていよう」
涙で体が溶けてしまうかと思えた。けれども、やがて涙は、
ジェインのあたたかな手のひらに吸い取られるように消えていった。
「私が寝たら、部屋に帰って」
目覚めて、隣に誰もいないことを確かめる。
ジェインがいつベッドを離れたのか、リョウにはわからなかった。
眠りは思いのほか早く訪れ、そして深かった。
起き上がって鏡を覗くと、髪はくしゃくしゃで、まぶたは腫れあがっていた。
胸に寂しさがこみ上げる。
いや、寂しいと言うより、寄る辺なさのようなもの。
自分を支えていた大事な柱が、なくなってしまったような頼りなさ……。
部屋のバスルームではなく、また展望風呂に行く。
朝の光にまぶしくきらめいているだろう海は、湯気に覆われたガラスのために、
ぼんやりとしたブルーの色だけになっている。
中年女性が三人湯船につかっていたが、水滴をぬぐう者は誰もいない。
しばらくすると水滴の粒は大きくなり、
ティアドロップ型の雫がぼやけた海と空を抱えたまま、筋になってたれた。
ゆっくりと湯船につかって戻ると、
ジェインの部屋の前に食べ終わった朝食のワゴンが出ていた。
ノックしてみたが返事はない。
自分の部屋から隣に通じるドアを開けると、そこはまたドアの壁に戻っていた。
テラスからのぞいても、ジェインの窓にはカーテンが引かれたままだ。
見ると、東に落ち込む崖の先の砂浜に、小さな人影があった。
リョウの視線になど気付くはずもなく、
ジェインのジョギングをする背中はどんどん遠ざかっていく。
電話が鳴り、出ると母だった。
時間を合わせてバイキングの朝食をとる。
「ねえ、私、伊豆急で帰るわ」
コーヒーを飲みながら母が言った。母の目も、少し腫れている。
「下田駅までシャトルバスがあるし。ご飯食べたらすぐに出ようと思うの」
「でも……」
「私はいいのよ、もう。これでいい。
だからリョウちゃんはジェインさんと二人、ゆっくりしてらっしゃい」
母はジェインと共に紡ぐ新たな物語を、望んでいたのではないのか。
多くのクライアントのように、
アクターとの擬似的な関係を未来に向けて作りあげることを。
そのために大事な兄を、手放したのではなかったか。
同時にリョウには、母は何も考えてなどいなかったようにも思える。
下田に戻ってみたかった。ここで何が見えるのか確かめるために。
ただ見るということにも、長い時間と勇気が必要だったのかもしれない。
ジェインの部屋の前のワゴンは、まだそのまま置かれていた。
リョウは二つの部屋をつなぐドアを開け、閉ざされた扉に耳を押し当ててみた。
ジェインの部屋はやはり静まり返っている。
携帯に電話しようとは、思わなかった。
ライティングデスクの引き出しからレターパッドを取り出し、
『ママと電車で帰ります、ありがとうユウにい』と書く。少し考えて、
『さようなら、—リョウ』と付け加える。
封筒に入れ、閉ざされたドアの下から差し入れる。
それから荷物を急いでまとめる。
母を一人で帰すことなど、できるはずはなかった。
リョウでさえ兄を送って、これほどの寄る辺なさに打たれているのだ。
ロビーに降りると、フロントでチェックアウトを済ませていて母が、ふっと笑った。
下田から帰ると、母は人が変ったように早い時間からバーに顔を出すようになり、
泥酔するまで飲むこともなくなった。
だが、時おり寂しそうな表情を浮かべる。その表情を見るたびに、
リョウは抱きしめてあげたいような、その場から逃げ出したいような気持ちになる。
けれどもそう思って母を見ると、決まって母も切なげな目をしている。
それで、自分も同じように寂しさを滲ませていたのだと、リョウも気付く。
母と娘は、まるで鏡に映った自分を見るように、相手を見ていた。
その底には、寂しさと同時に、それに服す覚悟のようなものも、覗いている。
耐える力を与えてくれたのは、ジェインだ。
渇きは、いつか“バー”でジェインが語ったように、たとえ一夜であっても、
確かに深く満たされたのだ。今度こそ、本当のプロの手で。
この先にまた耐えられない夜が来たら、そのときはいつでも、
プロの手を借りることができる。そう思える事も力になった。
それは母がホストや若い恋人に求めた癒しなどとは、まったく違うものだった。
確かに自分は何かを獲得したのだと面をあげて言える、まさに力だった。
そんな日々、街はゆっくりと晩秋の色に染まっていった。
季節は消えていくものを惜しみながら、
同時に祝祭の気配を孕んでもいた。
道路の脇で、かさこそと枯れ葉が音を立てるようなとき、
ひそかに近づいてくるものの足音を聞いたような気がして、
そんな夜リョウは、濃い赤ワインを選んで飲んだ。
私の時間がこれほど熟成するには、あとどれだけ時間が必要なのかと、
何かを待ちわびる心を、持てあましながら。
シライや他のクライアントとは、以前と同じような“デート”が繰り返され、
そのたびにリョウはジェインに報告の電話を入れた。
だが話すのは仕事のことばかりで、どちらも下田のことには触れなかった。
ある日シライから直接電話があり、
“デート”ではなくマンションに来てくれないかと頼まれた。
「よう、悪いな。実はルゥに手伝ってほしくて」
ドアを開けたシライはジーンズにTシャツ姿だった。
リビングは雑然としていて、ダンボール箱がいくつか組み立てられている。
「引越しでもするの?」
「マリエのものを整理してるんだ。
だがいざ始めてみると、いるものといらないものの区別がつかん。
あいつ、NYに行ってしばらくしてから、自分のものは全部捨ててくれと言ってきた。
だから全部いらないと言えばいらないんだが」
以前来たとき、シライは残されたマリエの痕跡に、
それほど執着しているようには見えなかった。
いつもきれいになっていた兄の部屋とは違って、
マリエの部屋にはほこりが積もり、どこか荒れた感じがあった。
そのほこりは、まだ塞がっていない傷を覆うかさぶたのようなもので、
少しでも触れれば、そこから生暖かい時間が流れ出しそうな気もした。
だからシライは、それを恐れて何もできずにいたのかもしれない。それがなぜ……。
だが決意とためらいの両方の表情を見せるシライに、リョウは疑問を口にしなかった。
「わかったわ。どうすればいい?」
「本は職場の同僚が来て整理してくれることになってる。
前に話したことあるだろう。NYから日本支社に転勤してきたアメリカ人。
日本語の勉強を小説でするってさ。
一番困ってるのが服だ。もし気に入ったのがあったら貰ってくれ。
本当は全部持ってって欲しいくらいだ」
マリエの部屋は窓が開け放たれ、
以前のようなこもった空気はなくなっていた。
だがやはりものはあるじの不在を、控えめではあっても主張している。
それに反応する感情を、強引にねじ伏せる。
リョウはクローゼットをあけ、つるされた服を片端から選別し始めた。
さすがに全部をひきとるわけにはいかない。マリエの服はどれもセンスがよく、
あまり流行とは関係のないものばかりだった。
ありきたりのものが嫌いで、古着をあさるのが趣味の友人は喜びそうだ。
チェストにとりかかり、
「これは?」 とシライを呼ぶ。
だが、引き出しに一杯詰まった下着は、
シライが一番見たくないものだろうと気付く。
「どれだ?」
引き出しをあわてて閉める。
「古くなってるのは捨てるわよ」
「ああ、そうしてくれ」
半透明のゴミ袋に色のあせたニットなどを入れ、その間に下着を詰める。
外からは見えないように。
引き取るものをダンボールにたたみ、
それ以外をゴミ袋に押し込んで、あらかたの作業が終わった。
シライが何をしているかとリビングに戻ると、
ビデオテープやアルバムを床に積み上げ、そのうちの一冊を開いていた。
傍らには口を大きく開けたゴミ袋がある。
「それ、捨てるの?」
「捨てようかと思ったが……。
手紙とか、日記とか、そういうものは一切合財処分してったのに、
あいつ写真だけはこんなに残していきやがって」
ゴミ袋のなかにはビデオテープが少し入っているだけだ。
「ルゥ、おまえ預かってくれるか」
「私が?」
「この箱に入るだけにする。いつか俺が忘れた頃、捨ててくれ」
「でも写真は置いておけば……」
「もしマリエに会いたくなったら、ルゥの部屋に遊びにいくよ」
いいだろう? と問うシライの顔があまりに真剣で、
リョウは肯くしかなかった。
玄関のチャイムが鳴り、シライが迎えに出た。
現れたのは、赤みがかった茶の髪を肩にたらした女性で、
同僚を勝手に男性だと想像していたリョウは少し驚いた。
「こんにちは、カティアです」
きれいなイントネーションの日本語だった。
「ルゥです」 と答えると手を差し出され、握手を交わした。
「妹さん、でしょ? きいてます」
「向こうじゃ世話になった、だから今度は俺がする番だ」
「ノー、相変わらずお世話してるのは私でしょう」
「まあ、そう言うな」
二人のやりとりで、リョウにはわかった。
シライにマリエのものを整理する気にさせたのは、この女性だ。
それからは、片付けは一気に進んだ。
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