運転しながら、ジェインは口を開かなかった。
リョウも何をどう言えばいいのかわからなくて、やはり黙ったままでいる。
やがて、このままだとあっという間にマンションについてしまうと気付いて、
少しあわてた。
「電話、するつもりでした」
「ああ……」
「何故、ホテルの前に……」
「車の中の様子で、君はすぐに出て来ると思った」
全てが見透かされたようで、なんだかしゃくにさわる。
「もし朝まで出てこなかったら?」
「おそらく、最適なタイミングを見計らって電話したんじゃないかな」
最適な、と言うジェインの声が嬉しそうだった。
「じゃあその前大通りで、
あんなに都合よく私たちの前に現れることができたのは何故?」
「バー・ニュイの前で、君を待っていた。そのまま近くにいたんだ」
ジェインの言葉が、こだわりを溶かした。
「それならどうして、楽しんでくれ、なんて……」
ときどきのジェインの振る舞いに、
自分がとても大切にされていると感じることがあった。今夜のように。
これは個人的な、特別なことなのかと。
だが浮き立つ気持ちはいつも、ジェインによって冷やされる。
「君は一度男を買ってみるといいかもしれないと、実は考えていた。
『フィノッキオ』のマスターはよく知っている。
彼のところのボーイなら、まず間違いはないだろうと思った」
「私、最後までしっかり彼を買うべきだったんですね」
「何故やめた?」
「何故、やめるとわかったんですか」
声が低くなっている。
「何故やめたんだ。君の口から聞きたい」
もう一度問われて、リョウは言うつもりのなかった言葉を口にしてしまう。
「彼とは寝る気にならなかった。
でもあれからもう一度、モモと寝ました」
ジェインは少しの驚きも見せずハンドルを握っている。
やがて見知った通りにでた。
この先の角を右に曲がれば、もうマンションだ。
ああ、もう着いてしまう、そう思うと意思に反して言葉がこぼれ出た。
「モモには熱があったわ。
私の中の女が瞬時に反応してしまうくらいに強い熱。
演技とも、相手を選ばないただの欲望だけとも思えなかった」
ホテルの部屋の前で、その先に進むのを踏みとどまったのは、
直接的にはジェインの広い背中と、
今夜じゅうにと言われた話のことが、気になったからだ。
だがその二つがなくても、やはり自分はケンとは寝なかっただろうとも思う。
「あの手の店の中ではトップクラスの『フィノッキオ』のボーイも、
そんな程度かもしれないな」
ジェインがハンドルを切ると、すぐにジャガーは停まった。
「まだ肝心の話が残っている。手短に話すが……」
マンションの前の通りは狭いわりに車の往来が多い。
口うるさい管理人のことも気になった。
建物の裏にある来客用の駐車場はたぶん空いているだろう。
それに、揺れてばかりいる自分はとうていジェインにはかなわない。
取り繕うのは、時間の無駄でしかないのだ。
「ここじゃ落ち着かないから、あの、狭くて散らかってるけど。
よかったらコーヒーでも入れます」
ジェインが立ったままだと、部屋は一層狭く、みすぼらしく見えた。
「その雑誌どけて、座ってください」
指示されてようやくジェインはソファーに腰を降ろす。
だがやはり落ち着かない様子だ。
「女子大生の部屋、珍しいですか?」
「ああ……、いや、懐かしいよ。学生時代を思い出して」
「女の子の部屋、よく行ったんでしょう」
リョウの軽口にジェインは笑いもせず、返事もしなかった。
コーヒーの豆を電動ミルで轢いていると、ジェインが言った。
「コーヒーじゃなくて、もしあればワイン、一杯だけでいい」
ワイン? と振り返る。
「一杯飲んで話が終われば、すぐに帰る。
この時間ならタクシーもつかまるだろう。
車は明日誰かに取りに来させる」
その言葉に、体の芯がまた少し冷たくなる。
ジェインは一杯の白ワインを 、水を飲み干すようにあおった。
もう少しゆっくり味わいながら飲んで欲しいのに。
「お腹、すいていませんか?」
「いや」
一杯だけと言われたのに、リョウは知らぬ振りでまたグラスを満たす。
自分のグラスも。
確かに水のように薄い、たいしたワインではなかった。
「あまり飲み過ぎないほうがいい」
「大丈夫です。この前みたいな醜態は……」
「そうじゃなくて、明日のことがあるから」
「明日?」
二杯目のワインには口もつけず、ジェインは言った。
「明日、クライアントと会ってもらう。
君の最初のクライアントにと考えていた男が、ようやくNYから帰国した。
僕の学生時代からの友人だ。
外資系の金融機関に勤めている。NYに行きたくて転職したんだ。
一年なんてあっという間だったな。 帰りたくはなかっただろうが」
「どんな方なんですか?」
「外見は無骨なスポーツマンだが、 見かけによらず繊細な男だよ。
女心は、たぶん、僕よりよく知っている」
「私には何を求めて……」
「妹だ。一人っ子だと思い込んでいたあいつは、高校生のころ、
自分を置いて家を出た母親が、 再婚相手との間に娘をもうけていると知らされた。
だがそのときは義理の母親にも遠慮があって、会いにも行かなかった。
しばらくして訪ねたみたら、もうアパートは消えていて、
さして広くもない駐車場があるだけだった。
それからもバイト代をつぎ込んでずいぶん行方を探したようだ。
だが今に至るまで見つかっていない」
「こんなに情報網がはりめぐらされた社会なのに、
見つからないこともあるんですね」
「見つかりたくないと思えば、人は地に潜ったように消えてしまう。
生きているのか死んでいるのかさえわからずに。
どれほど会いたくても、二度と会えない」
ジェインは水滴がテーブルを濡らすグラスに手を伸ばし、
今度もひと息に、ワインを飲み干した。
待ち合わせは、ここからそれほど遠くないオープンカフェだという。
「明日は僕も行くが、あいつの顔を見たらすぐに帰る。
場所は知っているね」
いいえと答える。本当は知っていたけれど。
タクシーで20分くらいだと説明を続けるジェインに、
「だったら一緒に行きましょう。朝、ここから」 と言ってみる。
「そんなわけにはいかない」
「何故ですか」
「今夜中にメールもチェックしなければならないし」
「私のパソコンではダメですか?」
「だが……」
「お願いです。同じ部屋にいてくれるだけでいい。
そうでないと私、眠れそうもない」
自分の言葉に驚いたのはリョウだ。
だが今夜のジェインには、スキのようなものがある。
車の中のジェインの声は、いつもより鋭かったし、
リョウの部屋に入ってからのジェインには、
いつもの落ち着きがわずかに足りない。
そこに敏感に反応してか、リョウは考える前に言葉を吐き出していた。
ふっ、と、ジェインが唇の端だけで笑った。
「ルゥは歳の割りにあんなに大人っぽいのに、
変なところがいじっぱりで、酒に酔うと淫乱になって、
自信がないとなると、やたら人に甘えるのか」
「どれも相手によります」
「だが、僕は君の期待に応えられない」
「わかっています」
ええ、わかっている。
あなたは決して私の望みを叶えてはくれない。ユウにいと同じだ。
「私、寝ている間にジェインさんを襲ったり、絶対しません」
この夜初めて、ジェインの頬が緩んだ。
ジェインがシャワーを浴びている間に、ベッドのシーツを変える。
この前家から持ち帰った兄のTシャツとカーゴパンツは脱衣所に並べておいた。
それからノートパソコンの電源を入れる。
兄の服はジェインにぴったりだった。
「先日、たまたま家の押入れにあった古着を持ってきたんです」
リョウに兄がいたことを、おそらくジェインは調べていたのだろう、
そうか、と短く言っただけだった。
ジェインをベッドに寝かせ、リョウはソファーに身を横たえる。
床でいいと言い張るジェインを、それだと気になって眠れないと説得する。
ソファーはジェインには小さすぎた。
けれどもやはり、リョウは寝付けなかった。
体を少し動かすたびにソファーのマットがきしるのが、
ジェインの眠りを妨げるのではないか。
しばらくはじっとがまんもした。
だがそうすると体は一層固くなり、呼吸をするだけで、
マットが不快な音を立てるような気がする。
耐え切れずに身を起こし、ベッドを伺う。
カーテン越しにうっすらと街灯の光が入ってくるせいか、
部屋は真っ暗ではない。
ベッドに横たわる男の輪郭もはっきりとわかる。
リョウはそのまま、じっと目を凝らす。
朝までそうやって見つめていようと。夢ならけっして醒めないようにと。
一度でいい、もう一度だけ目の前に現れて欲しい……、
それは何度も夢に見、焦がれた兄の肉体なのだ。
どれだけそうしていただろうか。
長い時間がたったようにも、ほんの数分だったようにも思える。
背中を見せていたジェインが、寝返りを打った。
薄い闇の中で、瞳が光る。
「眠れないのか」
うん、と首を縦に振る。
「おいで」
「でも……」
「初日から目の下にクマじゃ、クライアントもがっかりするだろう」
おずおずと狭いベッドに身を横たえると、
ジェインの腕が首の下から肩に回された。
リョウは懐かしい胸にしがみつく。
ユウにい……、口にのぼりそうな言葉をあわててかみ殺す。
またたくまにリョウにまどろみが訪れた。
伸ばした手に触れる熱を帯びた肉体、
そっと息を吸い込むと胸を満たす男の匂い……、
リョウは眠りの底から、それらを確かめるために目覚めた。
確かめると再び、心地よい眠りの中に身を沈める。
そしてユウにいと、遠い記憶に呼びかける。
それを繰り返し、
何度目かの眠りの淵にすべっていくおぼろな意識のただ中に、
本当に自分がユウにいと、
あの夜ベッドでジェインを呼んだ記憶が浮かび上った。
ユウにい、こうすると気持ちいいの……、そう言いながらリョウは、
脚の間のものをジェインの体にこすりつけた。
ユウにい、その手をもっと下まで……、そうも言った。
するといつもの夢とは違って、指はするするとリョウの背中を滑り、
柔らかな肉を割り、リョウを満たした。
それからリョウは、その指によって深いオーガズムに導かれた。
ずっと欲しかったのだ、兄の指が、兄が……。
だからあの夜のリョウは、ダナエのような満ち足りた眠りを、
長い時間待ちわびた甘い眠りを、味わうことができたのだ。
それからあの、シャワーの下の兄の姿……。
いや、あれはジェインだ。
水の流れる音が聞こえて恐る恐る目を開けると、部屋は薄明るくなっていて、
ジェインがガラスの壁の向こうで、シャワーを浴びていた。
バスルームのライトの光に、ジェインの肉体が照らされている。
私が目を覚ましたのに、気づきませんように……。
リョウは身じろぎもせずにジェインの裸身に見とれた。
鍛え抜かれた筋肉が、形の良い骨格を覆っている。
服の上から想像するよりさらに引き締まった肉体だった。
シャワーで泡を洗い流すと、ジェインはつと股間に手を伸ばした。
それを握る。バスタブに身体を沈め、ゆっくりと右手を動かし始めた。
あのときの兄のように、ジェインはゼウスだった。
金の雨となって女と交わるオリンポスの神。
だがその女は、ジェインのダナエは、どこにいるのだろう。
兄のダナエはリョウではなかった。
ジェインのダナエも……。
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