「これ……」
男が隣のスツールに置いた紙袋に手をかけた。
ちらりと、リョウは袋の中を覗いてみる。
ネクタイや時計だろうか、平らな細長い箱がいくつか入っている。
「ママに、返してもらえますか」
そう言うと男は、またビールに口をつけた。
「そんなもん、ママだっていらないわよ」
「でも、なんだか彼女、誤解してたみたいで。
僕は金やプレゼントが欲しかったわけじゃない」
「ママは君の喜ぶ顔をみたくて贈ったんだ。
彼女の気持ちを大事に思うなら、持ち帰ってくれ」
斉藤の声が、めずらしく怒気を含んでいる。
『彼、若い恋人ができたみたい。
きらいになったわけじゃないけど、もう会えないって言われた』
夕べ母は、グラスを重ねながらそう言った。
リョウは腕を伸ばして紙袋をつかむと、冷蔵庫の横のゴミ箱に投げ入れた。
それでも気持ちがおさまらない。
「どうせ誰かに返して来いとでも言われたんでしょ。
それとも、貰った金品に見合ったサービスができなかったってことかな」
反論するかと思ったが、男は何も言わなかった。
傷ついた表情を浮かべている。
傷つく心があったことが、せめてもの救いだった。
男は立ち上がり、財布を取り出した。
「結構です。そのかわり、二度と来ないでください」
斉藤の露骨な拒絶に、
取り出した札を男が投げつけるのではないかと、一瞬リョウは身構えた。
だが札はまた財布のなかに収まり、
男は強張った視線を伏せたまま出て行った。
苦い夜だった。
母は今夜はバーに顔を出さないだろう。出さないで欲しい。
リョウも顔を合わせたくはなかった。
今夜はもういいよ、そう斉藤が言ったのは9時をまわったころだった。
客が途切れ、会話も途絶えていた。
夜の街は賑やかだった。
いつもより1時間早いだけで、人の群れもずいぶん多く感じた。
駅を通り過ぎ、歩き続ける。
斉藤がほろりと口にした言葉が何度も耳に甦る。
「ママの相手はプロじゃなきゃだめだな。
プロだったら、あんな真似しないよ」
ふと見ると、角に見覚えのあるアイスクリームスタンドがあった。
ピスタチオとバニラ、それにレモンを追加する。
豪勢に盛られたコーンを持って、道路わきの駐禁の標識にもたれかかる。
舌を突き出して舐めていると、ときどき男が立ち止まった。
視線はリョウの舌から胸、足先まですべり、最後に顔に戻る。
リョウがアイスクリームに集中しているフリをすると、
そのままふっと通り過ぎていく。
ようやくたどりついたコーンをかじっていると、また男の視線を感じた。
試しにじろりとにらみつけてみる。
男は安心したように笑みを浮かべた。
「美味しい?」
リョウは返事もしないでいる。だが男は一歩近づき、
「じゃオレも試してみるか。何がおすすめ?」と、訊ねた。
「ピスタチオとチョコレート。りんごとレモンはやめといたほうがいい」
「いくら?」
そこに書いてあるでしょ、
と言いかけて男が聞いたのがアイスクリームの値段ではないのだと気づく。
左手を開き、男に突き出す。
「五!? 悪いけど予算オーバー。三に負けてよ」
冗談ではなさそうだった。
もし肯けば、簡単に交渉は成立してしまいそうだ。
リョウは男の顔をまじまじと見つめた。
電車で隣り合ってつり革を握っていても、気にも留めないような男だ。
40は過ぎているだろうか。
仕事の疲れが、少しくたびれたスーツの襟先にこびりついているように見える。
この男なら、たとえ寝たとしてもすぐに顔さえ忘れてしまうだろう。
リョウは男とみずきのセックスを想像してみた。
みずきはやさしく男を愛撫するだろう。
男はみずきの豊かな胸の間に、自分のものをこすり付けるかもしれない。
それから女の平らな腹の上に、快楽の濁った残滓を吐き出す。
みずきはきっとにこやかに笑い、男は三枚の札を渡す。
「おい、どうなんだよ」
男の声に我にかえる。ぼんやりと男を見る。
男はリョウが無言でいるのを返事ととったのか、ふんとその場を離れた。
後姿はすぐに横断歩道を遠ざかっていく。
その男の背中めがけて、リョウは溶けかかったアイスクリームを投げつけた。
アイスクリームは子宮に届かなかった精液のようにアスファルトに飛び散り、
コーンはしなびたペニスのように力なく転がった。
すぐに信号が変わり、精液もこなごなになったペニスも、
次々に通り過ぎるタイヤにこびりついて、闇にまぎれてしまった。
それらがアスファルトに何の痕跡も残していないのを確認すると、
リョウは坂を登った。
木立の中にオステリアの灯が見える。
駐車場には高級車や外国の車に混じって、黒のジャガーがあった。
テーブルはほとんどが埋まっていた。
ギャルソンがリョウをカウンターに案内してくれた。
すばやく店内を見回す。
壁際の席にジェインがいた。その隣に女が寄り添うように座っている。
女の横顔は、髪が頬にかかっているためによく見えない。
ノーフレームのメガネとグレーのスーツ姿が、
大学の比較文化論の教授を思わせた。けれども、
ウェーブした茶褐色の髪や、スカートから伸びて組まれたすらりと長い足は、
比べ物にならないほどエレガントだ。
二人を視界のはしに捕らえながら、メニューに見入るふりをする。
と、女が顔をあげた。若くはなかった。たぶん母と同じくらいだろう。
自信なげにジェインの言葉に耳を傾け、時折肯いている。
ジェインが、女の手をとった。
静かに握っているだけで、リョウにしたように愛撫しているわけではない。
女は目を見開き、ジェインの表情を、
何事かをささやき続けるその口元を見つめている。
ぱっと一瞬、女の顔が輝いた。小さく笑いさえした。
それまで表情を覆っていたかげりが、薄い膜を切って落としたように消えていた。
ジェインが、握っていた女の手を口元に持っていき、そっと唇を寄せた。
すると女の表情に、喜びが加わった。
「ブルゴーニュがよろしいですか?」
計ったかのようなタイミングで、ソムリエが声をかけてきた。
ジェインと女を観察するリョウを、彼もまた観察していたに違いない。
ソムリエはあの夜、リョウがジェインに語った話をどの程度聞いていただろうか。
分厚いワインリストとは別のカクテルメニューは、食前酒と食後種に別れていて、
かなりの数があった。
長い時間見入るふりをしていたが、実際には何も目に入っていない。
「ドライなアペリティフを」
「食事もなさいますか?」
「いえ、お腹はすいてないんです」
ソムリエはリョウが開いていたメニューをめくり、一行を指しながら言った。
「薬草系ではシャルトリューズ・トニックか、
あるいはもっとすっきりと白ワインベースのスプリッツァーなど」
「シェリーは……」
「アウローラになりますが、ロックか、
それともバンブーでもおつくりしましょうか」
バンブーは、確かシェリーとベルモットで作るカクテルだ。
アイスクリームの余韻を消すためにそれもよさそうだったが、
結局シェリーをロックで頼む。
「コバさんは」 とリョウは胸につけられたソムリエの名札を読んだ。
「ソムリエの資格はどちらで?」
「イタリアで取りました。と言っても、
この世界に本当は資格など必要ないんです。
日々研鑽する者が最後に生き残るだけで」
そのとき、店の奥のジェインが立ち上がるのが見えた。
今しがた入ってきた客と握手を交わしている。
その客もまた同じテーブルについた。
「少しお話を伺ってもいいですか?」
思い切って切り出してみる。
彼はオステリアで、オーナーのジェインに次ぐ立場のように見えた。
おそらく、クラブのサロンとしての実質を切り盛りしているのは彼だ。
コバは頷くとカウンターの中に入り、リョウの前に立った。
「あそこにいる女の人は、クライアントでしょうか、
それともアクターでしょうか?」
ストレートな問いに、ひるむそぶりも見えない。
「どちらだと思いますか?」
「クライアント」
ソムリエは首を振った。
「いいえ、アクターです。今入ってきた男性が彼女のクライアント」
「なぜその場にジェインさんが?」
「彼女はベテランですが、それでも自信をなくすことがある。
クライアントの求めるイメージを、自分が紡ぐことができるのかどうか。
そんなときはジェインの出番です。
彼と話しているうちに、たいていのアクターは自信を取り戻す」
そっと奥のテーブルをうかがってみる。
ジェインの視線のなか、一組の男と女がドラマを演じ始めようとしているのだ。
だが不自然な様子は少しもない。
ジェインが女を男に紹介し、男はすぐに女に興味を惹かれたようだった。
男は女と同年代か、少し若いくらいだ。
あごひげを生やし、メガネをかけている。
「どんな方なんですか?」
「それを僕が言うわけにはいきません。でも想像するのは自由だ。
彼はどんな職業で、アクターにどんな関係を望んでいるのか、
あなたの想像を聞かせてください」
「そうですね……、クライアントはたぶん建築家で、
大学でヨーロッパの中世の都市について研究をしている。
同僚の女性と知的会話を楽しみながらセクシュアルな関係も築きたいのに、
なかなかふさわしい人にめぐり合えない。
同じ大学だと何かと問題もあるし、
なにより、彼の知性に応対できる女性がいないんです」
「ありそうですね」
ソムリエはにこやかに応じてくれたが、
言葉にしてみるとなんだからありきたりな気がした。
「はずれですか」
「さあ、どうでしょう」
奥のテーブルの三人が立ち上がった。
ジェインもクライアントとアクターと一緒に外に出ていく。
だがすぐに一人で戻ってきた。
リョウに笑いかけながら、まっすぐカウンターに歩いてくる。
「いらっしゃい。よく来てくれた」
なんにしますか? とソムリエが目で尋ねるのに、
リョウの隣に腰を降ろしながら答える。
「もうすぐ新しいクライアントと会う。だがまあ、一杯ぐらいはいいだろう」
その言葉はソムリエに向けられたものだが、
あまり時間をとれないとリョウに伝えるためでもある。
それがわかり、リョウは深く息を吸い込み、まっすぐ、ジェインを見た。
「あの……」
ジェインが視線をリョウに戻した。
「アクターに、私も、なれるでしょうか」
カウンターの上にはシャンパンのグラスがふたつ、置かれた。
「今夜は一杯だけ。また今度クリスタルを開けよう。
君がアクターとして、初めての仕事を終えたあとで」
グラスをあわせ、シャンパンを飲む。
ぱちぱちとはじける泡が身体の中に入る。なぜかその泡が消えていかない。
ぱちぱちと、ずっと音をたてている。
仕事という言葉が、水の中に放り込まれたドライアイスのように、
いつまでもリョウの中で泡を出しつづける。
ゆっくりと、だがあっという間に、ジェインはシャンパンを飲み干してしまった。
「今夜は時間ある?」
ええ、と頷く。
「僕の部屋にモモがいる。よかったら彼と待っていてくれ」
リョウが返事をする前に、ソムリエがジェインの耳に何か囁いた。
「そろそろ失礼するよ。モモには、コバ、君から知らせて」
ジェインは立ち上がりながら、一瞬だけリョウの腕に触れた。
目の端で追うと、奥まったテーブルに近づいていく。
この前リョウが座った席に、初老の男がいた。
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