<6>
※R描写有り
アパートに荷物を置くのももどかしく、まっすぐ大学に向かう。
そこでカナの目に飛び込んできたのは、研究室のドアに張られた7枚のメモだった。
-カナへ。デザインを見せて欲しくて来たよ。
-君はバカンスに?アンは違うと言うけど…
-約束は忘れた?
-そろそろ中華料理はどうだい、カナ?
-カナ、君もイタリア人と同じで、今頃はきっと海なんだろうな…
-笑えるね、このメモ。明日で一週間だ。
-カナ、戻ったら知らせてくれ。
どのメモの最後にも同じ名前が記されたいた。
ジャヌ、と。
カナはメモをはがし、抱えてきたスケッチブックのあいだにはさんだ。
ドアの鍵は開いていて、予想した通りそこにはアンがいた。
「今日は一人なの?」 相変わらず挨拶抜きだ。
「あんたも?」 カナもいつものように答える。
アンは立ち上がってカナに近づくと、いきなり抱きついてきた。
「カナ、だまってどこか行っちゃうなんて、ひどいじゃない。
ファビオとはエルバに行かないって言ってたくせに。」
「ごめんね。エルバじゃなくてプーリアに行ってきたの。急に決まったのよ、あのあと…」
ロベルトと一緒だったと知ると、アンの機嫌はさらに良くなった。
私もきれいな海に行きたいとうらやましがるアンに、レッチェの街の様子や、
アドリア海とイオニア海を分ける半島の、白いごつごつした石の間に、
ウチワサボテンやたけの低い野の花が群生する、
カナがしごく気に入った海辺の景色のことなどを話したあと、ふと思いついて訊ねた。
「ところでパオロとはバカンスに出かけないの?
あれからあんたたち、うまくいってる?」
アンは視線をそらし、うつむきかげんになって、ゆっくりと言った。
「彼はもう私の Ragazzo ラガッツォじゃない。」
「えっ?」 もう恋人じゃないって?
(注: ragazzo、少年、英語のboy。girlはragazza。
私の、という所有形容詞をつけると、私/僕の恋人とい
う意味になる)
あのとき、別の男と付き合うならパオロと別れろと、私は言った。
ではアンは、ついに他の男のためにパオロとの関係を清算したのだろうか。
ジャヌのために…
「本当なの?」
問い返すカナにアンの目が悲しそうに翳る。
「あぁ、そうだ、それよりメモよ、ドアのメモ、見た?」
アンの不自然にはしゃいだ声に、カナはそれ以上何も聞けなかった。
「ええ、見たわ。」
「ジャヌのとこ、電話してあげようか?」
「いいわ、行ってみる。彼にデザインを見せる約束だったの。」
自分に言い聞かせるようにカナはつぶやく。「その約束だけ、果たさなきゃ。」
「またここに戻る?」
「ううん、疲れてるからそのまま帰るわ。」
今度お昼を一緒に食べようと言うアンにあいまいにうなずくと、
カナはジャヌの研究室に向かった。
ノックすると、ドアはすぐに開いた。
「やあ、カナ…」 嬉しそうに、ジャヌが笑う。
少し髪が伸びていた。幾分陽にも焼けている。研究室にばかりこもっていたわけではなさそうだ。
その眼差しに、最初エレベーターで出あったときの鋭さはない。
けれどもやわらかく誘い込むような力を感じて、カナはすこしほっとする。
今日のジャヌは真っ白な麻のシャツにジーンズ姿だ。
パンチングメッシュが涼しそうな、白の革のスポーツシューズをはいている。
その中は素足だろうか。
ソファーで足を組んでくれたらくるぶしが見えるかもしれないとカナは思い、そんな自分に苦笑した。
「何度も研究室に来てくれたのね、悪かったわ。」
「どうせ暇だったんだ。まだアパートが決まらなくてここに寝泊りしてるから。」
部屋に入るとソファーに座るよう言われたが、カナは立ったままでいた。
なにか飲むかと訊かれたのにも答えず、抱えてきたスケッチブックを差し出す。
そのとき、スケッチブックにはさんでおいたメモが床に落ち、散らばった。
ジャヌはあわててそれを拾い上げ、自分の残したメモだとわかると、
もう必要ないなと、手の中にまるめた。
「やめて…」 とっさにカナは小さく叫んでいた。
何を?という顔をしてジャヌがカナを見る。
カナは黙ってジャヌの手からメモを奪い返し、バッグにしまった。
物問いたげなジャヌを無視し、カナはずっと頭の中で練習していた言葉を口にする。
「バスルーム、借りたいんだけど。」
「どうぞ、寝室の奥だよ。」
デッサンを見ていてくれと告げ、寝室に入る。
ベッドに浮かびあがる寝乱れたアンの姿を振り払い、バスルームに入り、シャワーを浴びる。
壁のフックにジャヌの大きなバスローブがかかっていたが、それを借りるわけにはいかない。
鏡の横の棚にたたまれていた大判のタオルを体に巻きつけ、バスルームを出ると、
カナはきれいにベッドメークされたシーツの間にすべりこみ、ヘッドボードに背中を預けた。
自分のしようとしている事を考えると胸がつまり、一度大きく息を吸い、ゆっくりと吐きだした。
アン、ごめんね、一回だけ許してと、ぎゅっとまぶたを閉じてつぶやく。
トントンと、ドアがノックされた。
「カナ… どうかした? 大丈夫?」 ジャヌが心配そうな声で訊ねる。
「ジャヌ、ちょっと来てくれる?」
ジャヌは入ってくるなり、ベッドのカナを見て立ち止まった。
「何… してるの?」
「見ての通りよ。お願い、私あまり時間をかけたくないの。
あなたシャワーはいいからここに来て。」
ジャヌの目が興味深げに光った。その底にあるのは欲望だと、思っていいのだろうか…
窓が鎧戸で閉ざされているせいで、部屋は薄暗かった。
片隅に丈の高いフロアスタンドがひとつ、天井を向いている。
ベッドの両サイドの壁にもランプシェードがひとつづつ。
ジャヌはフロアスタンドに歩み寄ると、スイッチを入れた。
柔らかな光が、しっくいの壁と、壁にかけられた白っぽい抽象画を浮かび上がらせる。
よく見ると、抽象画と思われたものはグレーの地のキャンバスの真ん中が、
鋭利な刃物で右斜め上から左下に向かって切り裂かれただけのもので、
それはイタリアの現代絵画の巨匠、ルーチョ・フォンタナの作品だった。
カナは昔ローマで、たまたま入った回顧展でこの作品を見た覚えがある。
キャンバスの切れ込みの隙間から黒々とした闇が覗く、“Concetto spazial(空間概念)”というシリーズのひとつだ。
「コンチェット スッパツィアーレ…」
「君もファンタナが好きなの?」
「ええ、特にこのシリーズは好きよ… シルクスクリーンもあるとは知らなかったわ。」
「ポスターだよ。本物だとたとえ手に入ったとしてもちょっと強すぎて寝室には置けない。
なまめかしいだろう?欲情してくる…」
「わたしを見ると、じゃなくて?」
「これを見て欲情するのは、君がそこにそんな恰好でいるから、だけどね…」
ジャヌはベッドに、カナと向き合うように腰をおろした。
人差し指が伸び、カナの唇に触れる。
指はそのままあごをたどり、首筋から胸元に降りる。
シーツがめくられ、脇で挟み込んだタオルがはずされると、
カナはジャヌの前に何も纏わぬ無防備な姿となった。
ジャヌの瞳が燃え、カナの肌を舐める。
「やっぱり海に行ってたんだね。」 ジャヌがカナのビキニの水着の跡を見て言う。
「ええ…」 カナは必死に言葉をたぐり出した。
「お願い、聞いて頂戴。」
ジャヌの視線が、カナの下腹部から上へと戻って来る。
胸、顎、そして唇… 視線を浴びたところが順に熱を帯びる。
唇はそのままその視線に吸い寄せられそうだ。
カナは耐え切れずに目を閉じた。なんとしても言わなければならない。
「約束して。誰にもこのことは言わないって。一度きりのことだから。」
「一度きり?」
カナが目をあけると、じっとカナを見据える強い視線とぶつかった。
その視線をはねのけるように言う。
「ええ、今日だけのこと。そしてあとは忘れるの。」
「忘れる?なぜ忘れたいと?」
「自分のおろかさは少しでも早く忘れたいものよ。」
「これはおろかなこと?」
「ええ、おろかなことだわ。でもこうでもしなければ、私… とにかく私、けりをつけたいの。」
「何に?」
その問いにカナは答えず、サイドテーブルの上に手を伸ばし、
そこに置いておいたコンドームを取り、ジャヌに差し出した。
「これも、お願い。」
ジャヌの瞳の中の炎が、青みを帯びたものに変わった。
彼はだまってそれを受け取り、カナの目のまえで封を破り、中のものをとりだす。
透明な筒状の膜が、現代アートのオブジェのようにだらりと垂れ下がった。
「これは必要ないよ。」
ジャヌはそういうと、サイドテーブルの横のくずかごの上に手を持って行き、指を離す。
オブジェは頼りなげな音をたてて、くずかごに舞い落ちた。
カナは黙ってもう一度バッグに手を伸ばす。
たしかもうひとつ、ほうりこんできたはず…
ジャヌはその手をつかみベッドに押さえつけると、カナの上にかがみこみ、
カナの目の底を何かを探すように見つめたあと、ゆっくりと唇を重ねてきた。
以前路上で交わしたキスとはまるで違う、それは確かに欲情した男の唇だった。
しかしジャヌは、カナの手が自分のシャツのボタンをはずそうとするのを許さない。
カナは今度は腰のベルトに手をかける。
するとその手にジャヌの手が重なる。
カナは手のひらを股間に沿わせてみた。
ジャヌも感じていた・・・
「これが、欲しいの?」 カナの手に自分の手を強く押し付け、ジャヌが訊ねる。
ええ、と返事をしたつもりだったが、かすれた声が漏れただけだった。
しかしジャヌはシャツもズボンも脱ごうとしない。
ジャヌの手はカナの肌を滑り、肌が愛撫に敏感に応えるのを楽しむ。
やがて指が、するりとカナの中に入ってきた。
「ジャヌ、お願い。」
「なにを?」
「指じゃなくて…」
ジャヌはじっとカナを見つめる。
その視線で、カナを抱く。
見つめられるだけで、ジャヌの指だけで、カナの官能は高まっていく。
いきなりジャヌが体を離し、反対側のサイドテーブルの上におかれていたカメラを手に取った。
「なにするの。」
「君があまりに素敵だから、写真にとりたくなった。」
「やめて。」
「大丈夫、デジカメだから、すぐに消せばいい。」
「いつも撮るの?」
「初めてだよ。」
「カナ… さあ…」 そう言われ、カメラを見るとすかさずシャッターの音が響いた。
「きれいだ、カナ。僕が欲しい?」
「ええ」 カシャ、また音が響く。何度かシャッターの音が響いた後、ジャヌの低い声が告げた。
「足を開いて」 カナの中にためらいが頭をもたげる。
ジャヌは黙ってカメラを構えたまま、待っている。
その数秒のあいだ、レンズを通してジャヌが見ていると思うだけで、カナの体の奥にうごめくものがある。
カナはカメラの前に足を開いた。
「Concetto spaziale…、僕を誘う甘い闇…」
ジャヌはカメラを構える腕を下ろすと、そこに唇を寄せてきた。
またしても指が差し入れられる。
舌の愛撫が加わり、カナはまたたくまに絶頂にまで連れて行かれる。
「ジャヌ… お願い。やめて。」
いくら懇願してもジャヌはやめなかった。
彼の強い意思を感じてカナはあきらめ、そのまま身をゆだねた。
やがて痙攣がカナを襲うと、ジャヌのもう片方の指がカナの指をさぐりあて、しっかりと絡まり、カナをつかまえた。
「ジャヌ、わたしだけなんて…」
「いいんだ。」
「あなたも…」
「カナ、これは一回のうちに入らないだろう?」
えっとカナがジャヌを見ると、彼の目が笑った。
シーツをまきつけたカナのかたわらで、ジャヌがカメラのモニターを覗き込んでいる。
「カナ、見てご覧。」 のぞいてみると、そこには欲望に溶け出しそうになっている一人の女がいた。
「これが、私…」 カナは初めて見る女の姿に見入った。
男の視線に現れた女。だがその女はカメラのこちら側をひたと見据えている。
レンズの背後に隠れた男を暴き出したいと。
自分と同じように、欲望に溶けていく男の姿を見たいと…
同時にシャッターの音がよみがえり、その記憶に体が反応しそうになる。
「きれいだ。しっかり見て。」カナは首を横に振った。これ以上見たら、また私は欲しくなってしまう。
「かして、削除するわ。」
ジャヌは悲しそうな顔でカメラを差し出し、操作を説明すると、だまって寝室から出て行った。
カナはカメラを手に取り、画像を選択し、削除のボタンを押そうとした。
画面の中の女がカナを見つめる。
削除ボタンを押すことが、どうしてもできない。
カナはスイッチを切り、メモリーカードを抜き出し、バッグに入れた。
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