<4>
コーヒーの香りでカナは目覚めた。
一瞬ファビオが帰ってきたのかと思う。
やがてぼんやりとした頭に、昨夜のことがよみがえった。
ベッドを共にしたのはファビオではなく、ロベルトだったと。
心の奥に追いやっていた自己嫌悪が頭をもたげるのを感じて、シーツの下に潜り込む。
体が、いや心が、バラバラになってしまったような気がする。
「カナ…」 キッチンからロベルトの声が聞こえたが、カナは返事をする気になれない。
「コーヒーが入ったよ。起きろよ。すばらしい朝だ。」
ロベルトがカップを手にベッドにやってきた。
しかたなくカナはシーツから顔を出す。
「まだベッドの中がいいのか… ということは僕を誘ってる?」
「コーヒーちょうだいよ。」
ロベルトの軽口をとりあわず、カナはベッドに起き上がり、
たっぷりと砂糖が入った濃いエスプレッソを一気に飲み干した。
「次はそこにある服をとって。」
渡されたTシャツを頭からかぶり、ジーンズに足を入れると、カナはロベルトを正面から見て言った。
「ロブ、謝るわ。」
「またかい?」
「夕べのこと、やっぱりあなたに悪いことしたわ。」
「なんで?」
「私どうしても一人でいたくなくて。だからついあなたを誘ってしまった…」
「カナ、そんなこと言わないでほしいな。」
「でも…」
「僕たちの間にあるのは友情だ。それは良くわかっている。
君が僕を求めた理由も、わかっているつもりだ。」
「ロブ…ごめんなさい。ファビオのこと、案外こたえてるのかもしれない。」
「ファビオのことだって? まあなんだっていいけど、そんなに深刻になるなよ。
夕べ僕たちは楽しんだ。少なくとも僕たちは楽しむことはできた。これは大事なことだ。
僕はね、セックスはむしろ愛と切り離して考えたほうがいいんじゃないかと、思っているんだ。」
「過激なのね。」
「そうでもないさ。愛していると言いさえすれば、ただで女とやれると思ってる男は多い。
女だって、欲望なのか愛なのか、それほど明確に言い切れるのか…
それに愛のないセックスも、セックスのない愛もさんざん悪く言われるけど、
現実にはどちらも溢れかえってるだろう?」
「そうね。あなたの言う通りかも。唯一の正しい答えなんかどこにもない…」
「あるのは幻想、いや見果てぬ夢かな…」
一瞬の間をおいてロベルトが言った。
「カナ、謝らなくちゃいけないのは僕もだ。」
「どうして?」
「僕も君の心の隙間につけこんだと、言えなくもない。」
「そうだったの?」
「ああ。いつか君と寝たいと思ってた…」
「何故今まで言わなかったの?」
「言えばOKしてくれた?」
「わからないわ。もしそのとき私に恋人がいなかったら、応じたかもしれない…
あなたそう言うけど、本当はそれほどじゃなかったんでしょう?」
「そう。僕が愛とセックスを切り離せるのは、セックスをそれほど重要なことだと考えていないからだ。
君との友情のほうがずっと大事だった。
だけどね、カナ、今僕はすごく嬉しいよ。」
「念願かなって?」
「違う。君とこういう話ができることがさ。」
カナはまじまじと、長年見知っていた友人を見つめた。
そしてその男の中に、新たな友を見出した。
「ロベルト、私今、思わずあなたにプロポーズしそうになったわ。」
ロベルトは笑いだし、光栄だよと、カナの手をとり口づけた。
「ねえ、真の友に訊きたいことがひとつあるの。」
「なんでも。」
「あなた、バイでしょう?」 彼が夫を見る視線に、ずっと感じていた疑問だった。
「気づいてた?」
「なんとなくね。」
「けれど、気づいてほしい人は気づいてはくれない…」
「で、やっぱり友情を選んだ…」
「そういうこと。
でもこれでプロポーズは撤回だろうな、残念だよ。」
「そんなことないわ。」
「君は夫が若い男と浮気するかもしれないのに平気なの?」
「平気じゃないけど、でもそれが若い女を追い回すのと、どこが違うって言うのよ。」
「ははは… だから君が好きなんだ」 ロベルトがまた大きく笑った。
「じゃぼくもひとつ訊くよ。
僕にプロポーズする前に、しなくちゃいけないことがあるだろう?」
カナは黙った。
昨日までのロベルトだったらこの先の言葉は言わなかっただろう。
「君はもう結婚なんてしたくない。夫なんていらないんだ。
そのためにヒロとの結婚生活は理想の形だ。違うかい?」
カナは答えなかった。
代わりに、小さく笑って見せた。
「さあ、話は終わりだ。カナ、あまり考えるなよ。」
「わかってる。」 そうだ。これは考えることではない。
ただ見つめていればいいのだ。自分自身を。
雨で濁った水たまりもいつか静まり、澄んでくるだろう。
そのときになにが見えるのか、じっと待っていればいいのだ。
簡単な朝食のあと、さてこれからどうしようという話になった。
「ロブ、私研究室に行くけど。」
「時間がかかるのかい?」
「いいえ、ちょっと取って来たいものがあるだけ。
きのうせっかく行ったのにあんなことがあって忘れちゃったのよ。」
「あんなことって?」
アンが… と言いかけてカナは言いよどんだ。
同時にジャヌの低い声を思い出したのだ。 a domani 明日ね…と、彼は言った。
「アンって、またいつものこと?」
「そうみたい。
ところでロブ、あなた暇だったら一緒に行かない? そのあとはドライブにつれてって。」
アンのこともジャヌのことも、これ以上考えるのはやめようと、カナは思った。
*** *** ***
研究室のドアに鍵はかかっていない。
守衛にアンが来ていると教えられていたので、カナは少しいたずらをしてやろうと、ノックもせずにドアをあけた。
目に飛び込んできたのは、学生や研究生たちの作品の写真を手に、ソファーに座るジャヌと、
彼に寄り添い、彼の腕に手をかけ、彼の顔をうっとりと眺めているアンだった。
ジャヌのうつむいた横顔は長い前髪に半ば隠され、
うっすらとあいた唇と、掘り出した大理石のような頬と顎だけを見せている。
アンの賛美の眼差しに包まれたその姿に、
カナは見てはいけないものを見てしまった気がして、立ち尽くした。
「チャオ!アン、ジャヌ…」 ロベルトがカナの後ろから口を開いた。
「ああ、カナ、えーっとロベルトも…チャオ!」 ジャヌが顔をあげて答える。
「なによ、二人とも、ノックぐらいしてよね。」 アンは挨拶もなしにいきなり不機嫌な声をあげた。
アンの言葉にカナはわれに返った。
「悪かったわね。お楽しみのところ。」 アンがそうくるならとカナも挨拶はぬかす。
「まったくだわ。昨日だってなんで私をここに運んだのよ。」
「二人とも、やめろよ。」 ロベルトが間に入る。
彼がいっしょで良かった、
もし一人だったら、私はだまってドアを閉めて帰っていただろうと、カナは思う。
「パオロに電話なんかして、カナ、余計なことしないでよ。」
「わかったわ。二度としない。
そのかわり、アンも私の手を煩わせるようなことは二度としないでね。
もし別の男と付き合うのなら、ちゃんとパオロとけりをつけてからにしなさいよ。」
「私が誰と付き合おうと、何人と付き合おうと、カナには関係のないことよ。あんただって…」
「アン、それぐらいにしとけ。」
ロベルトの言葉にというより、黙ってやりとりを聞いているジャヌの様子が気になったのか、
アンはそこで口をつぐんだ。
「ジャヌ、ごめんなさいね、あなたの前で。
でも私とアンっていつもこんな調子で、思ったことをそのまま口にしてしまうの。」
「そうよ。私たちこんなふうに言い合えるくらい仲良しなのよ。」アンもその場を取り繕うように続ける。
ジャヌは、仲が良くてうらやましいよと笑った。
カナはテーブルに積み上げられた本の中から探していた一冊を見つけると、
ロベルトを促し、残る二人にチャオと別れを告げた。
カナ、と呼びながら立ち上がったジャヌを無視して、ドアに向かう。
「君に会いに来たのに。」 ジャヌの低い声が部屋に響き渡った。
ロベルトがカナの腕をとり、制した。
その目が逃げるなよと語っている。
カナは何とか気持ちを静め、ソファーのジャヌの向かいに腰を下ろした。
「デザインは部屋に置いたままなので見せられないの。今度持って来るわ。」
「いいんだ。君の研究テーマについて話を聞きたかった。」
「あら、奇特な人がいるものね。」アンの声はまだとがっている。
その声に、カナの気持ちはかえって高揚した。
「どこまで話したかしら?」
「化粧やブラジャーやジム通いは、モードにおける肉体にとってどんな意味を持つのか、
それがなぜ肉体の消滅につながるのか…」
ジャヌが正確に話の文脈を覚えていることに、カナは少し驚いた。
「ああ、そうだったわ。
私たちはTPOや気分に合わせて衣服を変える。それと同じように肉体も変えたいと思っている。
望みどおりに行くかどうかは別にしてね。
つまり衣服はこうありたい“私”を作り上げる装置だけれど、肉体も同じなのよ。
肉体は限りなく衣服化する…」
「そこにあるのは自然としての肉体ではないと?」
「その通りよ。」
「じゃ肉体表現まで含めたモードを、記号論的に読み解くのが君の研究の目的?」
軽い気持ちで話を始めたカナだったが、ジャヌのひと言に身が引き締まるのを覚えた。
思わず組んでいた足を組みなおす。
まさにそこが、これからカナが越えて行きたいと思っていた地点だった。
昨日カナに見せたのとはまったく違う、知的な好奇心に輝くジャヌの瞳を、カナは捉えた。
「いえ、私の本当の研究のテーマはその先よ。
今はまだ明確な言葉で語れるほど深まっていないけれど。
ただ、身体論にたどりつくことだけはわかっている。」
「モードの中に消滅した肉体は、復権するのか、と?」
「そう、肉体はモードから解放されうるものなのか。」
ジャヌが一瞬の間を置いて、つぶやくように言った。
「肉体の解放なのか、肉体への解放なのか、あるいは肉体からの解放なのか…」
その言葉をカナはかみ締め、頭の奥に叩き込むようにしまった。
「少し話を戻していいかな。」 ロベルトが口を挟んだ。
そう言えばロベルトの前でカナが自分の研究テーマを話すのは初めてだった。
「もちろんよ。」
「ではそのような装置の目的は?」
「他者の視線の獲得。」
「他者の視線…」
「ええ。モードの底にあるのはセクシュアリティーとナルシシズムだけど、
その両方にとって必要なのが他者の視線でしょう?」」
「自己愛にも他者が必要?」
「自己を愛するのは自己の中の他者よ。」
「なるほど… あるいは自己が自己の中の他者を愛するのか…
ところでカナ、前から聞きたかったんだ。なんでイタリアなんだい?」
「ああ、僕もそれを知りたかった。」ジャヌも重ねて言う。
「イタリア人は目に見えるもの、しかも美しいものに対する感覚がとても優れているわ。
見ることと見られることに対しても自覚的だし、何より肉体に対する強い肯定がある。
日常の中に明確な形で現れているモードをつかみ、その先を探る…。
イタリアでなら、それができそうな気がして。」
「それはよくわかるけど、最初に君が肉体の消滅と言ったとき、
それなら日本のほうがより肉体が消滅している、
というか希薄化していると、思ったんだ。」
「ジャヌは日本のこと詳しいのね。」
「いや、何回か街を歩いたことがあるだけさ。
ただ、イタリアとは、韓国ともだけど、肉体に関する感覚が違うような気がして。
体を触れ合わすことも、視線を交わすことも、日本人は極端に恐れているような…」
「そうそう、ヒロがそうだ。」 ロベルトがカナの夫の名前を出した。
だれ?とジャヌが問い、僕の友人さとロベルトがあわてて説明する。
「私の夫よ。」カナは言い、次いで目の端でジャヌを見る。
ジャヌの表情に変化はなかった。
「彼、典型的な日本の男なの。」
誰もそれ以上カナの夫については触れてこない。カナは続けた。
「そこには習慣もあるし、メンタリティーの違いもある。
ただね、私、最近の日本人の、以前にも増して著しく感じられる肉体の希薄化には、
今の日本に特徴的な別の要因があると思うの。
そしてそれは次第にグローバル化していくかもしれないと。」
「カナ、それって社会学のテーマじゃない?」
退屈そうにしていたアンがやっと話しに加わってきた。
「そう、日本って面白いテーマになると思うな。」
「やれやれ…」 アンがため息をつく。
「どうしてあんたはそうクロスオーバーしちゃうのかな。ついて行けなくなってきたわ…」
「じゃ君はなぜイタリアに、それもフィレンツェに来たんだい?」 ロベルトがアンに訊いた。
「私はイタリアンモード一筋だもの。ここはたまたま受け入れ枠が空いてたから。
本当はミラノに行きたかったのに。」
君は?とジャヌがカナに訊ねる。
「深い意味はないのよ。
どこにしようか迷っていたとき、突然夜のポンテヴェッキオから見上げる、
サン・ミニアート・アル・モンテ教会が浮かんだの。それで…
でも選んで正解だった。街のサイズもちょうど良いし。」
「ではモードにとって都市とは?」
ジャヌが、これを訊きたかったのだというふうにカナを見つめる。
「舞台よ。」 一言で言い切ったカナの答えに、ジャヌが考え込むように黙った。
「または、あるときは他者の視線を増幅させ、別のときは一緒に受け止めてくれる共犯者。」
カナは付け加えた。
「あなたの研究テーマは何?」 アンがジャヌの膝に手を置く。
「演劇空間としての都市。」
「へー、そうなの?今思いついたんじゃなくて?」 アンがちらりとカナを見る。
「ああ、違うよ。」
「なぜフィレンツェで?」
「カナと同じだ。サイズがちょうどいい、日常の中に演劇性がさりげなく遍在している。」
「演劇的と言ったらローマのほうがずっと演劇的じゃないのかい?」 ロベルトが訊ねた。
「ローマはスケールが大きすぎる。それに全てが過剰だ。
実は僕がイタリアで一番好きな都市はローマだが、それは旅人としてだ。」
私もローマが好きよ。空の広さが、いつでも私を非日常に連れて行ってくれる街並が…
だがカナはその言葉を口にしない。
目の前に並んで座っているアンとジャヌの親密そうな様子を眺めながら、
自分のなかのジャヌと呼応するものを、どうしたものかと考えあぐねて。
いやどうしていいのかわからないのは、目の前の男に巡り合った感動に満たされ、同時に、
彼との出会いのタイミングのずれに打ちのめされている、自分自身だった。
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