<9>
カナは携帯電話を手にベランダに座り、混濁した夜が明けていくのを眺めていた。
朝焼けの街は、一切の苦しみや痛みと関係なく、美しかった。
薄いばら色の赤みが消え、透明な光がやわらかく街を包む。
サン・マルコ修道院の近くの木立も、その横の大学もこの位置からは見えないのに、
カナはじっと目を凝らした。
ジャヌはまだ眠っているだろうか。
私の思念が、彼の健やかな眠りを妨げたるようなことはなかっただろうか。
それともジャヌはもう目覚めただろうか?
あのベッドの上で…
大学の名簿から彼の研究室の電話番号を調べたのに、
カナはどうしてもその番号を最後まで打ち込むことができない。
傍らにアンがいるような気がして。
電話に出たジャヌの声の横から、
誰なの?と問うアンの声が聞こえるような気がして…
ついにカナはあきらめ、電話をベッドの上にほおリ投げた。
キッチンで朝食の用意をしているとドアがノックされ、出てみるとファビオが立っていた。
突然現れた、長いこと会っていなかった古い友人のように。
忘れていた過去を運んできた、招かれざる使者のように。
私の思念が呼び寄せたのはファビオだったのか…
「カナ…」
挨拶もせず、部屋に入れとも言わずに身を固くしているカナに、ファビオが懇願するようにカナの名を呼んだ。
「ファビオ、どうしたの?」
「ひどいじゃないか。電話一本くれないなんて。」
「なぜ私がしなきゃいけないの? あなた、最後に自分がなんて言ったか、覚えてないのね。」
「カナ、あのときは悪かった。何度も電話しようとしたさ。
でもあんなふうに出てきてしまったから、なんて言ったらいいのかわからなくて…」
帰ってくれと、追い返すべきだった。
だがカナは一歩体を引いた。ドア口でこんなことを言い合っていても仕方がないと。
ファビオはあたりまえのように部屋に入ってきて、ごく自然にキッチンのテーブルにつく。
カナは彼の前にコーヒーのカップを置き、
自分にはたっぷりのミルクに、濃いエスプレッソをたらしたカフェラッテをつくった。
それを飲みながら、イタリア人の朝食にならってアーモンドのクッキーをかじる。
「めずらしいな、そのクッキー。どこの?」
「プーリアよ。」
「プーリアに行ってたのか。どうりで何度来てもいないはずだ。」
「何度も?」
「ああ、直接あやまりたくて、3回来たよ。
プーリアには一人で?」
いつそう聞かれるだろうかと、カナは待ち構えていた。
「いいえ。でも誰と一緒だったか、あなたに言うつもりはないわ。
私たち、もう互いに縛りあう仲じゃないでしょう?」
「カナ、聞いてくれ。君が怒っているのは良くわかる。
君を信じられなくて悪かった。確かに子供っぽい嫉妬ばかりして。
でもわかって欲しい。」
「私を愛しているから…」 予想されたセリフを、カナは口にした。
ファビオは悲しそうな顔をしたが、怒らなかった。
「その通りだよ。」
「ファビオ、ごめんなさい。私、もうあなたの気持ちに応えられないわ。」
「僕をもう愛していないって言うのか?」
カナはだまってうなずいた。
「うそだ。君はあんまり僕が束縛するから、それが少しうっとうしいだけなんだ。」
「ファビオ、私たちの気持ちはいつからか微妙にずれてきていた。
欲望はあったけれど。でもそれはもはや愛ではないのよ。」
「カナ、それは愛だよ。まだ僕を求めているだろう?
なら君は僕を愛しているんだ。」
「あなたのこときらいになったわけじゃない。
でもあの後私が懐かしんだのは、あなたと出会ったときの、期待に満ちたときめきだけだった。
だから私たち、これからは友達として…」
「友達として抱き合えばいいと?」
「それは…」
「君は愛がなくても欲望だけで抱き合えばいいって、そう言うのか?」
ファビオの問いに、カナはすぐに答えられなかった。
一瞬、ロベルトの言葉を思い出したからだ。
セックスは愛と切り離したほうがいいと、彼は言った。
それが愛なのか欲望なのか、はたして明確に言い切れるのか、とも…
あのとき私がロベルトと寝たのは、欲望を満たすためではなかった。
心の空洞を埋めたかったのだ。
だが空洞は埋まらなかった、いや一層大きくなってしまった。
その空洞を満たすことができる男は一人だけなのではないか… 私は昨日、それを確かめたかった。
だが確かめて、もし彼が唯一の男だとわかったら、私はどうするつもりだったのだろう。
一体私は何を求めているのだろう。
自分を駆り立てるものが肥大しただけの単なる欲望なのか、それともなにか別のものなのか。
カナの思考はファビオとの過去から離れ、目の前の混迷に囚われていく。
「カナ、どうかした?僕の言ってること、聞いてないのか…」
ファビオのいぶかしげな声にわれに返る。
「ごめんなさい、夕べあまり眠ってないの。だからぼんやりしてしまって。
でも私、そういう意味で言ったんじゃないのよ。
私たちの間に、愛は確かにあった。でももう失われてしまった。
あなたとの間にあるのは、今は親しい友情だけ。」
そう言いながらも、ファビオとの間に友情を育てることは難しいだろうと、カナは思う。
そのことも、急速に彼に対する気持ちが薄れていった理由のひとつかもしれない。
「カナ、僕が君との間に確かめたいのは愛だけだ。大丈夫だよ。取り戻せる。
君はショックだったんだ。あんなふうに僕が出て行って。
もう君を傷つけるようなことは言わない。
僕が君に愛を取り戻させてみせる。」
冷静に話ができているのはよかった。
しかしどうしたらファビオにわかってもらえるのだろう。
彼は自分が謝れば、束縛したり、愛していると言ってくれと強要したりしなければ、
自分たちに以前のような情熱が戻ってくると、それほど単純に考えているのか。
カナは彼にこれ以上どう言えばいいのか言葉を見失い、
もう一杯コーヒーを入れようと立ちあがった。
ファビオもテーブルを離れ、テラスから街を眺めているよと、奥の部屋に入っていく。
コーヒーを入れ、カップを手にドアの向こうの部屋を覗くと、ファビオがパソコンの画面に見入っていた。
そこにはジャヌの撮った風景が映し出されている。
朝立ち上げたパソコンは電源節約モードで、モニターがオフになっていた。
ただしマウスかキーボードに少しでも触れれば、すぐにオンに切り替わってしまう。
画面には、差し込まれたメモリーカードの読み込みを訊ねるウィンドウが開いていたはずだ。
彼は深く考えもせずにカードを読み込み、映し出されたのがフィレンツェの風景だったので興味をもったのだ。
「とめて!」 カナは叫んだ。
だが、遅かった。
シニョーリア広場の写真が消え、カナの裸身が映し出された。
ファビオの顔が遠目にもわかるほど青ざめていく。
「やめて、ファビオ。」
カップをもったままカナは駆け寄り、ファビオと机の間に体を割り込ませた。
ファビオは乱暴にカナを押しのける。
コーヒーが彼のシャツに飛び散った。
カナはあわててカップを置き、マウスに手をかけようとしたが、
ファビオに手を取られ背中にねじ上げられてしまった。
そのままからだを引き寄せられ、キーボードに届かない位置までひきずられる。
逃れようとするカナを捕らえたまま、ファビオは画面を見つめていた。
耳元に、早くなったファビオの呼吸だけが聞こえる。
カナの写真が終わり、また最初のサン・マルコ広場が映し出されると、
ファビオはスライドショーを止め、
カナの写真を再度映し出した。
「これは誰なんだ?
えっ? 君は何をしているんだ!」
「ファビオ… 」 カナは自分の写真から目をそらした。
朝の光で見るにはあまりに生々しかった。
「カナ、見るんだ。見て、これが誰だか教えてくれ。」
「あなたには関係ないわ。
これはあなたの知らない女よ。」
カナの、ファビオに強く掴まれたままの手首がしびれてきている。
「関係ない?
自分の恋人がポルノ写真を撮られたのに?」
「違うわ。ただ…」
「ただ? じゃ抱き合うときに刺激を求めてっていうのか?
どっちにしても同じことだ。」
「ファビオ。私、あなたに何も言うことはないの。」
ファビオは突き飛ばすようにカナを放したが、
おかげでカナは、怒りにこわばった彼の顔を、正面から見なければならなかった。
「愛してる? こんな写真を撮らせるくらいだから、この男のこと、愛してるんだろう?
いつから? いつからなんだ!」
見るとファビオの手がぶるぶると震えている。
カナはそっとその手に触れた。
「落ち着いてちょうだい。今、説明するわ。」
カナの手が触れると、ファビオの体がぴくりと痙攣した。
それを自分に対する嫌悪だと思い、カナはすぐに手を離したが、今度はファビオがカナの手を掴んだ。
強く引かれ、ベッドに投げ出されるように倒される。
ファビオはカナのシャツワンピースに手をかけ、引き裂いた。
「なにするの!やめて!」
だが彼は手を止めず、ワンピースと下着を剥ぎ取っていく。
抵抗は無駄だと、すぐにわかった。
カナ、君は僕のものだ。誰にも渡さない…
そう言いながら力だけで支配しようとするファビオに、
しかし抵抗せずに従うことが、カナにはできない。
あきらめてやり過ごせば傷つくことにはならなかっただろうか。
うわついた弁明でも、許しを請う言葉一つでも、ファビオの怒りは少しづつ静まっていったのだろうか。
しだいに抗う力は失せていった。何より気持ちが萎えていた。
カナはただ耐えた。
加えられる愛撫も、体中に記されるキスマークも、責め苦以外の何ものでもない。
やがて鋭い痛みに貫かれ、カナは悟った。
これは支配ではない、報復だ。
彼の感じた痛みを、私も負わされているのだ。
顔を背けると、パソコンの画面の中に、欲望にとろけそうになっている女がいた。
喜びと苦痛が、冷たい液晶パネルの向こうとこちらで、完全な対称をなしている。
同じ姿のポジとネガのように。
そのとき裸の胸の上に、暖かいものが落ちてきた。ファビオが泣いているのだ。
醜く顔をゆがませた見知らぬ男が、涙をぽたぽたとカナの上に落としている。
やがて体を離したファビオは、カナの傍らにうずくまるように身を横たえ、両手で顔を覆った。
「許してくれ、カナ。
僕はなんてことを…」
カナはファビオを見ることも、返事をすることもできない。
ただ暴力の嵐が去った安堵だけを感じている。
「カナ、何とか言ってくれ。」
カナは黙って目を閉じる。
「カナ、答えてくれ。目を開けてくれ。」
カナはファビオを見た。その瞳の空虚さに、ファビオはたじろぐ。
自分のしたことの、これが結果なのだった。
もはや取り返しのつかない遠いところに、
二度とその微笑みを見ることも、笑い声も聞くこともかなわぬところにカナ追いやってしまったことを、ファビオは知った。
「出て行って…」 弱々しいカナの声が、ファビオを打ちのめす。
ファビオは黙って立ち去ることしかできなかった。
カナは思う。
これでファビオも、私の中に愛がないことがわかっただろう。
そして自分の中にあるものが、愛などというものではないことも。
口の中にこみあげる苦いものを吐き出すこともできず、刻みこまれた痛みを涙で荒い流すこともできずに、
カナは乱れたシーツを引き上げ、その下にもぐりこむと、胎児のように体をまるめて眠った。
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