土曜日、「カポディモンテ美術館展」に行った。
全体的には地味な構成だったけれど(ティツィアーノの「ダナエ」や、カラバッジョはやはり無理か)、
アルテミジア・ジェンティレスキの「ユーディットとホロフェルネス」を、
また観られただけでもうれしかった。
一番惹かれたのは、今まさにホロフェルネスの首を切り落としている最中の、
ユーディットの表情だ。
これまで私は、画面の緊迫感と題材に、アルテミジアの、
自分を踏みにじった男や社会に対する怒りを読み取ってきた。
そして今回、その表情に、ためらいも嫌悪も恐怖もないことに気付いた。
ただ画然とした決意と、決意を冷静沈着に行為に移す、崇高とも言える意思があるのみ。
この崇高さは、題材からは、己の住む町を救おうとする英雄的なものと読める。
だが私には、怒りを抱えながらも、被害者としてではなく、
それを乗り越え、雄雄しく生き抜く決意の崇高さに見える。
それまで誰も描かなかった、そして彼女の後も、
少なくとも私が知っている絵画表現の中には見ることのない女の顔だ
(同じテーマでウフィッツィにあるのはどうだっただろうか)。
今、こう書いたあとで、この姿が、唯一桐野夏生のヒロインに通じることに思い至る。
ああ・・・そういうことだったのか。
手持ちの本からウフィッツの写真を探す。
印刷があまりよくないけれど、ユーディットは少し眉間にしわを寄せている。
成さなければならない「仕事」が、心楽しいことでないのが見て取れ、
このほうが、凄惨な場面に対しては自然に見えるかもしれない。
そして、少し前のページのカポディモンテのユーディットの表情を見直す。
こちらは、一層端正でふくよかで若々しく、美しい。
もしこの表情だけを見せられて、彼女の成そうとしている行為を当てよと言われて、
誰も、左手で男の髪をひっつかみ、
右手に持った剣をその男の首にめり込ませているところだとは思うまい。
やはり行為と表情のこの落差の大きさが、私にはより胸に迫る。
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