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posted in: 月誌 | 2 | 2010/5/13

5月もあっというまに終わりそうである。
一番好きな季節は、もっとゆっくり過ぎて欲しいのに。

昨日の夕方、家を出てほんの1分ほどのところで、突然、
よく知っている花の香りに包まれた。
包まれた、というよりも、香りの圏内に私が一歩足を踏み入れた、という感じ。
ジャスミンほど甘ったれではなく、くちなしほど押し付けがましくもない。
白い華やかさと青い野生が立ち上がり、傾いた初夏の陽射しに踊っている。

あたりを見回すまでもない、通りの反対側の塀の上に枝を伸ばしている、
蜜柑の花の香りだとすぐに気付く。
それでも私は足を止めて、6m先の、艶やかな緑の葉と白い花を眺める。
そうだった、5月はこの香りの季節でもあった。

ある時期、何年か続けて、おだやかな海を望む荒れた蜜柑畑に、
木苺を摘みに出かけたことがあった。
忘れられ、省みられることなく、静かに嬉々として人の気配を消し去りつつあった丘、
風が流れる開けた斜面ではさらさらと香りも流れ、
陽だまりのようなくぼ地では、香りも澱んで溜まっていた。
誘ってくれた友と疎遠になってしまい、もう二度と行くことのない丘である。

 

2 Responses

  1. 蜜柑の花の香り

    帰り道には蜜柑の木の下を通り、小さな花先だけを二つ摘んで、
    家に持ち帰った。
    ひと晩たっても、萎れて変色しかかった花弁からは、
    風のない室内に、時おり、ためいきのように香りが吐き出されている。

  2. 高源さんのこと、『アメリカ発ネット帝国主義』のこと

    高源さんと、勝手に呼んでいる。
    以前新書を読んで好きになったのが、
    ツイートをフォローしていて、ますます好きになってしまった。
    誰のことかは、内緒である(ただもったいぶっているだけ)。
    これは作品を読むしかない。
    のだけれど、なかなかその前に積んであるものが多くて、
    すぐにはたどりつけないかもしれない。
    いや、それだけじゃなくて、なんとなく、
    作品との出会いのタイミングがまだのような気もしている。
    とにかくナツキリねえさん(これも勝手に名づけてしまった)の『ナニカアル』である。
    なのに、『須賀敦子を読む』を読み出してしまい、
    その一章ごとに取り上げられたエッセーを、
    再読(中には三読め、四読めもあるが)したくてたまらなくなっている。
    あとユルスナールも、あ、ガートルード・スタインもだ。
    ど、どうしよう…。
    アナイス・ニンからナツキリねえさんに『官能表現の系譜』をつなげたい、
    という野望はどうなるのだろう。
    あと、抱えているふたつの種は、いつ芽吹くのか。
    今朝方見た夢が面白くて、それをどう書くか、
    というよりどこにどういうカテゴリで書くか、を迷っている。
    全く同じ文章が、置かれたところが違うと、全く違うものになるような気がして。
    ということとは全く関係なく、『アメリカ発ネット帝国主義』について。
    朝日朝刊の岸博幸さんという方へのインタビュー記事に出てきた言葉。
    タイトルにはこの言葉のあとに、…を許すな、とある。
    これはもうタイトルそのままの内容で、Google中国撤退時に私が思ったことにもつながる。
    つまり、ネット上に集積された膨大な情報を誰が握っているのか、
    将来的にそれがいかようにも利用され得ることについて、
    私たち、あるいは日本という国は、あまりに無自覚ではないのか、
    というような話である。
    ふと思った。
    もしかして中国は、Googleの撤退を内心喜んでいるのではないのか。
    渡りに船、だったのではないか。
    撤退してくれと言っても、すんなり通るとも思えない相手が、
    自ら退いてくれたのだとしたら…。
    しかしGoogleの撤退話には、ずっとすっきりしないものが残っている。
    中国側のというよりも、Google側にとっての理由が、すっきりしないのだ。

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