Twittery1004

posted in: 月誌 | 3 | 2010/4/15

わ、気がついたら今年になってから何もつぶやいていない。
例年冬はヒマで、今年も時間はそこそこあったはずなのに、
いったい何をしていたんだろう…(ほとんど思い出せないのがオソロシイ)。
心を入れ替えて少しはここも手当てしなきゃなぁ・・・。

ブログや本で(勝手に)お世話になっている人が何人か、
立て続けにTwitterを始めたと知って、私も覗いてみた。
内田樹氏は、最初は、「新幹線の中なう、などとつぶやくと何かいいことがあるそうだが、
僕には何がいいのかさっぱりわからない」というようなことを言っていたのに、
今では日に何度も、「○○で朝ごはんなう」「ドライブなう」などとつぶやいている。
何かいいことがあったのだろうか?
良さをイマイチ体感できないまま、覗くのが習慣になってしまった私も私だが
(フォローしている人は三人である)。

しかし、登録してわけがわからずにいたら、いきなり何人かにフォローされてしまい、びっくりした。
見知らぬ人間から絶えずチェックされることに戸惑い、
あわてて非公開にして、フォローをはずさせていただいた。
だって私、自分が今どこにいて何をしているかなんて、ヒトサマに知 られたくないんだもん。
でもってつぶやきたいことが出てきたときは、140字じゃ足りないし。
(あれは140字だからいいんだろうけれど)
というわけで登録後しばらく経つのに、あそこでは見事にひとこともつぶやいていない。えっへん。
などという人間は、きっとあれは楽しめない。

と書いたあとで、いや、もしかしたら、
私はまだホントの楽しさや有益性を知らないだけなのかもしれない、と思いなおす。
道具は使いようである。考えてみたら、
なにもどこで何をしているか、などという、書きたくもないことを書かなくてもいいのである。
ぼそりと、好きなことをつぶやけばいい。
それが本当のことであろうとなかろうと、誰も文句は言わない(実害がなければ)。

たとえば実際には、散らかった机の上のキーボードをたたきながら、
最近手に入れた中古のスピーカーで音楽聴いているだけなのに、
「西アフリカはセネガルのクラブで、ユッスーの歌を聴いてるなう。さいこーである。ああシアワセ」
などという願望を書いても、咎められることはないだろう。
「んなもん、今やっとらんぞ」とおしかりを受けたら、末尾に(願望なう・以下同)と付け加えよう。
こうして書き継いでいったら、臨場感のある「わたし・なう」小説が出来そうである。
実際もう書いている方がいるかもしれない。いやきっといるであろう。
ただし私にとっての問題は、こまこまマメに書き込めるか、である。
絶対出来ない自信がある。となるとせいぜい、
ここで書いたあとに、「長いつぶやき書きました~」と3ヶ月に一 度くらいつぶやくだけになる。

少し話は変るけれど、日本にいて、ときどきモノを言うのが億劫になることがある。
日本にい て、とは大きく出たものだが、私には、
何かとイタリアと比較する悪いクセがあるのだ。
イタリアは、ちょっとだけ暮らしたことがあって、今 も付き合いが続いていて、
なんだかえらく性にあっているところがあって、
その後たまに出かけるだけになったので、程よい距離があり、適度に美化されている国なのだ。

ちなみに、住んでいるときは、現地在住日本人とイタリアの悪口ばかり言っていた。
ついでに日本のよい所 を並べる
(定刻通りに発車する列車とか、昼も開いている銀行とか、壊れていない公衆電話とか)。
近くにいると何かとあらが目立つのは、 きっと国も同じなのだ。

とにかく、モノを言う、ということについて。

イタリアで暮らしていると、たとえ言葉が出来なくても、 モノを言わずにいることは難しい。
まず皆おしゃべりなので、見ず知らずの人間からも話しかけられる。
加えて、個々人がしっかりと希望や意思を訴えないと何もコトが進まない。
更に、如何に他人とは違う考えを言うかが重要なので、
皆延々と自説を展開し、それを聴くのに飽 きて話をさえぎるためには、
相手の説とは違う見解を口にしなければならない。

そんなの大変だ、疲れる、とお思いだろうか。
確かに、何も主張しなくてもシステムはオートマティックに作動し、
曖昧に笑えばなんとなく要求を理解してもらえ、
同調さえしていればストレ スなく関係が続き、
列車で隣に座った他人同士は決して会話などしない社会は、楽である。

けれども、イタリアで多少モノを言い合えるようになってみると、
(つたないイタリア語ではたいしたことは言えないのだが)
これもまたとっても楽なことに気付く。
つまり、何をどう言ってもいいのだ。
自分の望みや胸のうち、頭に浮かぶことを、他人の思惑など気にせずに口に出来ることの楽さ
(もちろん、人を傷つ けたり、ひどい言葉を言ってよいということではない)。
それから、互いにモノを言い合ったあと、同意できるところは同意し、
出来ないとこ ろは出来ないままでよしとして、さっぱりと話を終えることが出来ることの楽さ。
批判は非難ではないし、論争は勝ち負けを競う戦いではない。
異なった意見を言い合うことは、相手を否定することではない。

このような体験を潜り抜けてみると、
日本の同調同質的楽さは、ちょっと 息苦しくて、寂しい。
かと言って、これは相手のあることだし、
生まれ育った楽さになんの疑問も抱いたことのない人に、無理は言えない。
つい口をついて出た言葉で、怒りだされても困る(経験あり)。
かくして私の口は、寂しさと気鬱で重くなる
(と言いながら、気がつく と、我慢できずにモノ申していたりする。
ただ、これでも随分押さえてはいるのである)

個人的には、身近にモノを言い合える人はいる。
けれどもときどき、開かれたもう少し人数の多い場で、
なかなか対話が成り立たない場面に出くわしたりすると、
ああ、これなら最初からモノローグでいいわい、などと思ったりもするのだ。

しかし日本でこれだけブログや Twitterが流行るのも、
みんな「モノローグがいいわい」 と思っているからかもしれない。
ブログも、2チャンネルのような掲示板 も、Twitterも、
私にはいずれも対話=ダイアローグではなくて、モノローグに見えるのである。

いやそんなことはない、コメントが賑わっているブログもあるし、
Twitterもゆるやかな対話だと、おっしゃる方もいるかもしれない。
確かに、モノを言い合える人たちが集まっているオープンな場もあるだろう。
けれども今までの経験でいくと、そのモノの言い合い方が、違うのだ。
同意同調であれば問題はない。
そうではなく、異なった意見を言い合ったあとに、
言い合えたというあっけらかんとした軽みがない。
異なった意見に対する興味や尊重より、同意を得られなかった失意が強かったりする。
そんなこんなで、言わなければよかったかな、という重苦しさが残ることが けっこうある。

実はまったくこことは別の場で、コミュティブログの準備をしている。
モノを言い合わない楽さを疑ったことのない人たちに向けて、
モノを言い合う場を作ろうとしている。
ささやかなそのブログは、ちょっとした情報や意見が行き交う、アクティヴな場になるだろうか。

実を言うと、懐疑的である。
それならやる
な、と内なる声が言う。
なのに、やるのである。

 


4月16日

まるで本当に心を入れ替えたかのようにまた浮上。

実はこの間、読んだ本や観たDVDの話で、書きたいことはあった。
ただそういうのには時間と集中を要するので、サワリだけ書いてほっぽらかしていたのである。
でもつぶやきならいくらでも出てきそう。
ずっとインプット状態が続いていたので、
溜まった言葉をアウトプットするのも精神衛生上よいかもしれない。

が、そんなもののために一つの項目を立てる(新規に記事を書く)のは、場所塞ぎで迷惑だ。
誰にって? もちろん自分にである。
トップページのリストや「n’s archive」のリストが、
つまらないタイトルで埋まるのはぞっとする風景ではないか。

と言って、この記事に延々書き足していくのも芸がない。
そこで、コメントでつぶやくことにする。うん、グッド・アイデア。
どうせこんな人里離れた庵まで訪ねてくれる人はそういない。

もちろん、たまに来てくれたキトクな方に、
つぶやきの合間に足跡を残していただけるのは、大歓迎なんだけどね。

3 Responses

  1. Kちゃん、お誘いをことわってゴメン/vai

    どうでもいいけれど、このコメント入力欄が異様に広いことにあらためて気付いた。
    なんのことはない、カスタマイズのとき思いっきり自分で広げたんだけれど、
    自分の記事にコメントすることがなかったため、忘れていたのだ。
    でもこうして書き込んでいると、ちょっと感動モンの広さだと思う。
    どのブログでもこんなに広いところはないんじゃないか。
    何故こんなに広くしたかと言うと、
    常々せまっちいコメント欄にいらついていたのだ。
    一行いれるだけならいいけれど、少し長くなるとまことに書きにくい。
    つまり私は、根っからの反Twitter志向なのであった。
    とは言うものの、昨日Twitterのことを書いていて少し反省もした。
    モノは試しである。非公開を公開にし、プロフィール画像も入れ、
    初つぶやきもしてみた。

    http://twitter.com/vaivie
    いきなり話がそれてしまった。
    Kちゃんに謝ろうと思ってたんだっけ。
    高校の同級生のKちゃんから何年かぶりの携帯メール。
    土曜日にクラス仲間が集まるから来ないかって。
    お誘いありがと。
    Kちゃんは、高校の同窓生名簿でずっと「行方知れず」だった私を、
    ○十年のブランクのあと見つけ出してくれた友だ。
    6年前、ちょうど同窓会の幹事だった彼女は、
    名簿の住所の空白欄を埋めることに尋常ならざる情熱を注ぐYちゃんと、
    最強のタッグを組んでいた。
    私の場合、実家も引っ越していたので、
    Yちゃんの精力的なリサーチにも引っかからなかったらしい。
    それがあのとき、愛ゆえにだろうか、
    Kちゃんはふと思いついて私の名前をネット検索したのだ。
    あるサイトに、私が書いた記事がヒットした。
    仕事がらみの記事だったので、当然仕事サイトへのリンクがある。
    あっという間に住所から電話番号までゲットされてしまった。
    それまで平気で音信不通だった不埒者は、深く感じ入って、
    高校卒業以来初めての同窓会に出席させていただいた。
    が、4年後の同窓会はお休み。
    今度のお誘いも辞退。本当に申し訳ない。
    故郷の町は少し遠いし、翌日はびっしり用事が入っているし、
    でもそれだけじゃない、気持ちが乗らないのだ。
    いや、KちゃんとAちゃんには会いたいんだよ。
    だけど大勢の中でのKちゃんとAちゃんではなくて、会いたいのだ。
    あとね、あれが苦手なんす、私。
    「ねえねえ、覚えてる? あのときのこと…」というやつ。
    そりゃ懐かしく思い出すこともあるよ、
    でもほとんどのことは、覚えてなかったりするんだもん。
    過去は振り返らない主義だし(忘れっぽいだけか)。
    それから、ダンナの話も、子供の話も。
    そうじゃなくて、今のことを、自分のことを話そうよ。
    でも、オールディーズで踊れるクラブに行くときは例外。
    あと、少人数でのお酒とお茶も、喜んで。
    ううう、書いていてなんてわがままなやつかと思うわ。
    本当にゴメン。

  2. コミュニティブログ・ツィッター・イスラエル

    日曜日にスタッフミーティング。
    ブログは、すでに試運転を初めて2ヶ月近くになる。
    記事は19本。なんとかスタートだけは出来そうだ。
    PCがなく携帯だけの彼女はおそらく脱落するだろうけれど、それは仕方がない。
    だが脱落は、PCがないからするのではない。
    彼女の会への関わり方が、そういうものだった、というだけのことである。
    今回のことでは、スタッフのそれぞれの会の運営に対する関わり方や、
    それこそ「モノを言うこと」に見える在りようが、
    くっきりとあぶりだされる結果になった。
    その意味で、かえって良かったかもしれない。
    なぜ自分がスタッフなどという、一般会員より金と時間を余分に使うことをしているのか、
    彼女にはわかっていなかった。
    前々回のミーティングのなかで、それがはっきりと露呈してしまったことを、
    本人は気付いているだろうか?
    何かを始めるのは得意だけれど、継続やメンテが苦手の私、
    スタッフにどれだけのサポートを期待できるのか、
    前途はあまり明るくない。
    でもやるんだよな、これが。
    何なんだろう、これって。
    ————————————————-
    今日の新聞で目に付いた記事があった。
    ●「書き込みサイト 勢力変化」
    2チャンネルが頭打ち、ツイッターは3倍の加入者増だそうである。
    ミクシィも、紹介制から登録制になったためか、この半年で三倍の増。
    29歳IT勤務男性の弁
    ・ブログ…最近読んだビジネス本、小説、エッセーを紹介
    ・ツィッター…リアルタイムでやりとりでき、知らない人とも緩く付き合えるのが魅力
    ・ミクシィ…友人登録した仲間だけにイベントなどを告知
    ・2チャンネル…匿名によるネガティブな反論が多く、書き込む気になれない
    世代間の利用状況も興味深かった。
    ミクシィが20・30代、ツィッターが30・40・50代。
    外ともつながりやすいツィッターに若者が少ない、ということ。
    果たして、比較的年齢の高い層は、「ビジネス展開も視野に入れている」から(だけ)なのか。
    ●「イスラエル 建国祝えぬユダヤ人も」モントリオール大教授(歴史学)ヤコブ・ラブキン
    常々、イスラエルは神によってユダヤ人に与えられた「約束の地」だ、だからパレスチナ人を追い出して土地を奪い、国を作っても良い、というのはリクツに合わないだろう、と思っていた。ずっと迫害されてきたからと言って、迫害する側に立ってしまったら、迫害の論理を肯定することになる。
    シオニズム批判というより、素朴な感想である。
    超正統派のユダヤ教ラビも、
    「イスラエル建国はパレスチナ人に対する征服、抑圧によって実現した」
    と言っていることを、この記事で初めて知った。
    イスラエル建国の世俗的政治イデオロギーであるシオニズムを、
    「ユダヤ教徒がほかの民族を抑圧することは(神から)禁じられている」と、
    根源的に拒絶していると。
    だから建国を祝わないどころか、祝うものなど全くないと考えるユダヤ人もいる、と。
    そしてこう締めくくっている。
    「ユダヤ人迫害の歴史的重荷を持たない日本は、罪滅ぼし的な西側諸国とは異なる視点でイスラエルを見ることができるはずだ。」
    そうか、西欧諸国はイスラエルに、後ろめたいのか。
    自明のことなのに、誰もはっきり言わないこと、だから言われるとあらためて、そうなんだよな、と思う。
    寄稿者は、ロシア系ユダヤ人。

  3. 「イエスという男」メモ1

    「イエスという男」を少しづつ読んでいる。
    忘れる前にメモっておこう。
    この本は、中身も見ずに、雑誌「考える人」のインタビューを読んで即買いした。
    記事のタイトルは「神を信じないクリスチャン」である。
    クリスチャンとあるけれど、著者の田川建三氏はご自身のHPでこんなふうに言っている。
    ある人からの、あなたは(荒井献氏が言うように)マルクシストですか、
    という問いに答えたものである。
    「私はもちろんマルクシストです。私はもちろんマルクシストではありません。
    それは、私がもちろんクリスチャンである、というのと同じことです。
    それは、私がもちろんクリスチャンなんぞではありません、というのと同じことです。」
    http://www6.ocn.ne.jp/~tagawakn/sub19.htm
    とても田川さんらしい言葉だと思う。
    マルクスもイエス・キリストも、ひとつのレッテルになっている、
    と田川さんは言うのである。
    そしてそのレッテルを貼る人間は、マルクスのことも、イエスのことも、
    まるで知らない、知ろうとしない、と。
    そのような愚かさに対する火を吐くような激しい怒りは、きっとイエスにも通じるものだ。
    「イエスという男」が、如何にユダヤ教を逆説的な反逆の武器として闘ったのかが、
    これから語られるところまで読み進めてきた。
    いくつかのエピソードに既にそれは散見している。
    彼の完膚なきまでの死は、果たして敗北だったのか、勝利だったのか。
    田川さんは、先の言葉に続けてこう書いている。
    「もちろん、カール・マルクス自身、その意味では、まるでマルクシストではなかったけれども。
    イエスがクリスチャンではなかったのと、同じことである」と。
    イエスとキリスト教がどうつながるのか、
    そしてイエスとキリスト教はどう無関係なのか。
    いずれにしろ、「イエスという男」の激しさ深さと先駆性は、間違いなさそうである。
    彼は恐ろしく突出していた。
    (友人のI氏と話していて、そのアナーキーさに重なる人物として、
    吉田松陰とビン・ラディンの名前が挙がった。)
    以前、キリスト教について、宗教としてではなく文化としての観点から、
    講演を頼んだことがあった。
    講師は美術史を専門とする教育者で、バチカン大学で学んだクリスチャンなのに、
    見事に宗教的色あいをそぎ落とした話をしてくれた。
    参加者の評判はとても良く、こういうアプローチを私たちは渇望しているのではないかと思った。
    キリスト教(聖書)の成り立ちのガイドをさらり、それから、
    ローマのあちこちの教会と美術館を飾る宗教画を通して、
    物語のとしての聖書の逸話が語られた。選ばれた画家はカラヴァッジョ。
    カラバッジョについては、もうすぐ映画を見る予定なので、ここでは触れずにおく。
    今は、こういうふうにレッテル貼りではない目線でイエスやキリスト教を考えることを、
    私たちは必要としている、そしてそれができる人がいる、ということを指摘しておく。

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