ある晴れた日に、永遠が見える… 5

posted in: ある晴れた日に永遠が見える | 0 | 2013/7/25

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ロベルトのプジョーは、通称キャンティロードと言われる、フィレンツェからシエナに向かう道路を南下している。
なだらかな丘陵にオリーブとブドウの畑が交互に現れ、
糸杉が並木を作る先には必ず、石で作られた古びた農園の建物があった。
街からほんの20分も走れば広がる田園の風景は、いつでもカナに開放感と喜びをもたらしてくれたのに、
この日ばかりは気持ちは浮き立たない。
風景が目に入らない、と言うより、心に入ってこないのだ。

あれからアンが東洋と西洋の美意識の違いに話を振り、議論は高まっていたが、
カナは話しに加わるのが苦痛だった。
急に口数がすくななってしまったカナに、ジャヌは何か言いたそうだったが、結局何も言わなかった。
その後昼食を一緒にと誘われたが、
カナは約束があるからと、半ば逃げるように研究室をあとにしたのだった。

車は古くからワイン取引の中心地として栄えた街のひとつ、グレーヴェ・イン・キャンティを通り抜ける。
この街にも、小さな広場に面して美味しいトラットリアが2軒あったが、
今日は街を抜けて登りついた先の、丘の上のレストランが目的地だ。
幹線道路から石ころだらけの脇道に入ると、山の斜面のブドウ畑が迫ってきた。
車の窓からも見えるブドウの実はまだ小さくて色づいてもおらず、ぎざぎざしたふちの緑の葉の影にまぎれている。

「カナ、大丈夫かい?」 
「ありがとう。あなたがいてくれて本当によかった。」
「どうかな。いないほうがよかったんじゃないかって、実は夕べから思ってた。
君、自分に正直になったほうがいいよ。」
「ロブ、今すぐ部屋に戻って素晴らしい朝の続きをしようか?」
「心にもないことを。」

「そんなことないわ。私たち…」 楽しむことができるもの… とカナは続けようとした。
たとえその楽しみで味わうものが、まだ固い小さなぶどうの実のように渋くてすっぱい味だったとしても、
いやその味が強烈であればあるほど、私にはふさわしいかもしれない。
それで痛みを感じずにすむ。

しかし何の痛みを? ファビオを失った痛みを?
それともそれは、決して手に入らないものを欲して、失う前から大きな喪失感とともにある、この痛みのことか。
カナは再び自分の心の底に沈んでいく。

「カナ、どうした?」 
「ロブ、わたし… 私、なんだか変なの。」
「やっと認めたか。
君はすごく変だよ。今まで何度男と別れても、こんなじゃなかった。
ファビオとのこばかりじゃないだろう…」

だがロベルトはその先を言わず、話題を変えた。
「君にもバカンスは必要だ。
なんだったら、プーリアに一緒に行くか?
たまにはいつも暮らしてる街を離れるのもいい。」

「プーリア?」
「ああ、僕の故郷がプーリア州のレッチェなんだ。きれいな街だよ。
古代ローマ時代の遺跡もあるし、すばらしい海もある。
長いこと帰ってなかったけど、今年は帰ろうと思ってる。なつかしいよ、あの殺人的な陽射し…」

ロベルトがまぶしそうに目を細めたので、一瞬トスカーナの丘をプーリアの光が射抜いたような気がした。
「あまりに強い陽射しに照らされて、石ころまで真っ白だ。
中間色もグラデーションもなし。でもぶどうはもう甘く熟れている…」

トスカーナでさえ強烈なのに、それと比べ物にならないほど強い光が、そこにある…
そこでなら、あいまいなものは一切許されないかもしれない。
すべてがくっきりと明確な輪郭を描いてくれるかもしれない。
カナはロベルトの誘いに乗ってみたくなった。

そこで夫に手紙を書こう。今度こそちゃんと別れようと。
判を押した離婚届と一緒にその手紙を送ろう。
今まで何度離婚届を送っても夫は捨ててしまっていた。
でも今度こそ、私は彼を納得させる手紙を書けるかもしれない。
私たちはこれほど明白に白と黒の世界に分かれてしまっていると。

それでも夫は言うだろうか。
君が僕より良い男を捕まえて、その男と本当の夫婦になれると確信を持って言えるようになるまで、
僕は君と別れないよと。

もはやそれは愛ではなく、執着でもない。長い間に習慣のように染み付いてしまった、つまらない意地だ。
その不毛を知りながら、意気地がないばかりにカナはそれを放置してきた。
いやロベルトの言うように自分の都合の良いように利用してきたのだ。
いつでも逃げ込んでいける隠れ蓑として。

ファビオがカナを執拗に独占しようとしたのは、絶えず愛を確認しなければいられなかったのは、
どこかでカナの、こんな部分を嗅ぎ取っていたからかもしれない。
いつかこの女は逃げていくと。

「ロブ、私行くわ。」
キャンティの丘の上のレストランで昼食をとり終わる頃、カナの気持ちは固まっていた。
「レッチェに連れて行って。あなたの言うように、少しフィレンツェを離れるのもいいかもしれない。」

部屋に戻り、急いで旅仕度を整える。
最終便に乗りたかったが、飛行機は満席だった。
明日の便で行こうとロベルトが言うのを聞かず、それなら列車で行くとカナは言い張った。
「この街を離れると決めたらもう一晩だってここにいたくないの。
お願いよ、ロブ。」

ロベルトもカナの切羽詰った顔を見てしぶしぶ同意した。
なんとかローマで夜行に乗り継ぐ乗車券を取ることができ、二人は10時間あまりの長旅の果てに、
疲れきってレッチェにたどり着いた。

しかし疲れはすぐに癒えた。
ロベルトは久しぶりの家族に、特に母親のマリアに満面の笑みで迎えられたとたんに。
カナもあたたかな人々に歓迎されて、そして街の美しさに魅了されて。

そこには、明るいピンクがかったベージュの石に華やかな彫刻を施したバロックの屋敷が、
狭い通りをはさんで向かい合っていた。
教会も、市庁舎も淡いピンクのバロック。
だがそのやさしい色は強烈な日差しに晒され、語る言葉を失ったように色を失っている。
空は黒味を帯びた濃い青で、少し車を走らせると突然目の前に広がる海には、
空と同じ色にエメラルドの緑が混じっていた。

ロベルトが言うように、甘いブドウがもう出回っていた。スイカもイチジクも甘く熟れていた。ワインさえも。
この地方の赤ワインの、しっかりとしたタンニンの底にある芳醇なコクは、まさに高い糖度が生み出すものだ。

えびやイカのから揚げをつまむときにはビールのグラスを重ね、
永遠に続くかと思われるほど次々に運ばれる前菜の皿をたいらげ、
濃厚なトマトソースのパスタと格闘する日々。

海辺では金色の産毛の女たちと黒髪の男たちの乾いた視線が、あまりにあっけなく絡まりあうのを眺め、
何も考えず、ロベルトとも求め合わず、ただくつろいだ親しさだけを感じあって…

そんな日々を一週間ほど過ごしたある日、カナはロベルトに連れられてアルベロベッロを訪ねた。
トゥルッリと呼ばれる、円錐形の屋根を乗せた真っ白な小さな家が丘全体に広がっている。
独特の景観ゆえにユネスコの世界遺産に指定されており、
今や南イタリアの観光の目玉になっている街だ。

確かに不思議な、印象的な街ではあったが、観光客であふれかえったメルヘンチックな景色のなか、
全てが土産物屋になっている通りに面した家々の数軒を覗くと、カナはもう充分だという気がしてきた。

店の前に立ち、目が合うとこんにちはと日本語で声をかけてくる売り子たち。
トゥルッリの家の中を、屋根裏まで見せてあげるからと、しつこく誘う中年の女。
無邪気な表情で通りを行く観光客の群れ。
あるのはただそれだけ。

その思いはレッチェに戻っても変わらなかった。
ここのことはわかった。
古代ローマの劇場跡も、石に刻まれたきらびやかな彫刻も、
ぎらつく太陽に影を失い、すべてをさらしている。
ここでは見えるものだけがすべて…

するとフィレンツェが、たまらなく恋しくなった。
この街には夕暮れに長い影を落とす糸杉がない。
土色の石の壁にうるさくからみつく藤のつるがない。
夜の丘の上の頬を冷やす風がない。
デザートワインのビンサントがない。
そのワインに浸す固いカントゥッチ(ビスケットの一種)がない。
いのししの生ハムがない。トスカーナのペコリーノチーズ(羊乳のチーズ)がない。

カナはないものを延々と数え上げた。
ルネッサンスの落ち着いた色の石組みの館、色大理石の組み合わせが華麗な教会、
緑の植え込みをアーチの柱廊が囲む修道院の庭、
世界中からやってきて、生きた風景画に組み込まれる人々、
アルノ川に架けられた橋を照らす夕日、
これほどあっけらかんとしていない、もっと抑えた、だから一層セクシーな女たち、
そして心を貫く、男の視線…

「明日、フィレンツェに帰るわ。」 カナはロベルトに宣告した。
「まだマテーラにも、カステル・デル・モンテにも行ってないのに?」               (注:全て世界遺産)
「そういうところはシーズンオフに行きたいの。」
「もう大丈夫?」
「ええ。」
「本当に?」
「すっかり。」

ロベルトは少し心配そうだったが、カナが言い出したらきかないことはよく知っている。
今度はすんなり飛行機の席が取れ、来たときの三分の一の時間で、翌朝カナはフィレンツェに戻った。
空港の駐車場のはずれのポストに、夫宛の手紙を投函する。

これでいい。
殻を割り、生まれでようとしているものを、この世に産み出すのだ。
たとえ短い命しか与えられないとしても。
一瞬の後にはまた闇に葬り去らなければならないとしても。

覚悟を込めて、カナは書いた。
これが最後の離婚届けだと。
もう二度と送る必要がないように、持ってきたものはこの一枚を残して全て捨ててしまうからと。

 

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