7
心の奥に不安を抱えたまま、夜を迎えた。
夕食後、ルーチェもルッカも、僕たちをひきとめなかった。
『ルナ… 話があるんだ。』
たとえ期待した返事をもらえなくとも、それでも僕は言おうと決めていた。
返事を求めると言うよりも、ルナの気もちを知るために。
今回の滞在もあとわずかで終わってしまう。
その限られた時間の中で、すこしでもルナを自分に引き寄せたかった。
『ルナ、よく聞いて。僕と、結婚して欲しいんだ』
『ジャン…』 ルナの戸惑ったように眼差しを無視して僕は続ける。
『ルッカから聞いたよ。あなたたちはもう夫婦ではないと。僕たちには何の障害もないと』
『でも… 』
『ルナ、僕は君を本当に僕のものにしたい。
会いたいときに会えないのはいやだし、毎晩君を抱いて眠りたいんだ』
『結婚したって会えないときはあるし、毎晩一緒になんて眠れないわ』
『でも、今のようなのはいやなんだ。半年も会えなくて、死にそうだった』
『おおげさね。』
『本当だよ。ねえ、ルナ。あなたは何を恐れているの?
結婚したら僕もルッカのようになるかもしれないと?』
『そんなことじゃないわ。あなたはルッカじゃないもの』
『ではなぜ?』
『ジャン… あなたは家族が欲しいの?
それとも私が?』
『君と家族になりたい。』
『家族… 私との日常の暮らしが欲しいの?
それとも私の中に絶えず傍において確認したい何かがあるの?』
『君の全てを僕の傍らに欲しい。しかし一番欲しいのは君の孤独だ。
僕たちの孤独を絶えず寄り添わせてあげたい…』
『ジャン、それなら結婚したらダメなのよ。結婚と言う閉じた檻の中では…』
『檻?』
『ええ、そうよ。結婚は檻だわ』
『別れた男との夫婦と言う檻にしがみついているのに、どうして愛する男との結婚を厭うのか、
僕にはわからない。
あなたは、何故ルッカの妻という破れた檻から出ようとしないのか』
『それは… 』
『破れているから、いつでもあなたは出て行ける。だから安心してとどまっている…
あのサルと同じように…』
『そう…、そうかもしれない。
最初はレストランの経営や一人であの街で暮らすのに、
別居中の夫がいると言っておくほうががなにかと都合が良かったからなの。
ただそれだけのことだった。
でもルッカはずっと私の保護者みたいな存在だったし、
いきなり私を守ってくれていた屋根や壁を取り払われるようで、不安だったことは確かだわ。
だからたとえ本当の夫婦でなくなっても、夫婦のふりをしていれば、
ずっとルッカが見守っていてくれるようで、離れていても、どれほど孤独でいても…』
『モラトリアム…』
『えっ?』
『そういうの、モラトリアムって言うんじゃないのかな。
本当は一人で出て行けるのに出て行かない。
あなたは自由になるのがただ怖かっただけなんだ…』
『それは、わかってるわ。あまりにルッカは特別だったから。
だから時間が必要だったのよ。
私が彼から本当に出て行くために、
完璧な孤独を100%の喜びとともに享受できるようになるために』
『彼から出ていくために、僕と言う存在は役に立ったでしょう?
今度あなたを守る屋根や壁となるのは僕だ…』
『ジャン…』
ルナは僕をみつめながらも、何度も首を横に振るばかりで言葉を見つけられずにいる。
『なぜ本当のことを言ってくれなかったんです』
僕はたたみかけるのように言葉をかさねた。
やがてルナは思い余ったように口を開いた。
『私はね、ジャン、もう屋根や壁はいらないのよ。
あなたには屋根にも壁にもなって欲しくない。
ジャンのことをあなたに言わなかったのは、
あなたには、私がどんな立場だろうと、どんな障害を持とうと私を愛して欲しかったから。
あなたとはどんなことにも関係なく、ただ純粋に愛し合いたかったから。
海や月と交わるように、愛し合いたかったから…』
『僕はあなたを愛した。どんなことにも関係なく。
だからもういいでしょう?僕と一緒に生きてください』
『ええ、あなたと一緒に生きたいわ。
でも結婚という形にはこだわらないで。
一人でいてあなたのことを思うほうが、私は幸せなの』
『孤独でいるほうが僕を深く愛せるとでも?』
『ええ。あなたと二人でいると孤独じゃないわ。それは幸せなことよ…
でもその幸せは満ちた潮がかならず引いていくように、引いていくの。
一人でいればそれにお互いが気づき、また満たし合おうとする。
でも結婚してずっと一緒にいると、一緒にいることに安心してしまうでしょう?
体は一緒にいるのに、心が離れても少しも気づかないのが私はいやなの。
人はどうあがいても孤独なのよ。
だからそれを絶えず自覚できる場所にいるほうが、
私にはそれが満たされる喜びをより深く感じられるの。
それにね、こんなこと言うのはあなたを信じているからなのよ。
あなたはいつでも私を満たしくれる。
ただあなたのことを思うだけで、私は満ちていく… 結婚という檻がなくてもね…』
彼女の答えはルッカの話から僕が予想していたものとそう違わなかった。
それに加えて、僕を信じているからこそだと言われると、
結婚という形に、それほどこだわらなくてもいいような気もする。
彼女に対する信頼が増すに連れて、ぼくのこだわりも薄れていくのか…
『新たな結婚に踏み込めないのは、まだルッカのことを思っているから?』
『ジャン、それは違うの。
ルッカはすごく愛したひとだし、あんなふうに私を愛してくれたのも彼が初めてだった…。
私たちの距離がずっと遠のいてしまっても、それは私にとってとても大事なことなの。
だって今の私があるのはルッカのおかげなんだもの。
だから彼には幸せになって欲しいのよ』
『それはどういうこと?』
彼女を、それまでの男たちは受け止め切れなかったとルッカは言った。
自分なりにそのことは理解したつもりでいたが、やはりルナの口からも聞きたかった。
『ルッカに出会う前に私が愛した男たちは、最初こそ私を愛してると言ってくれるけれど、
すぐになんだか怖れるような目で私を見るようになったわ。
それで分かるのよ。あ、まただ… これでこの人とも終わるんだって。
やがて判で押したように同じ言葉をぶつけられる。
少し息苦しいよ… あるいは、しばらく距離を置こうか…
あのころまではそんなことの繰り返しで…
私、だんだん自分が悪いんだって思うようになって…
でもルッカは私を恐れなかった。
ルッカが、私は間違っていない、私は自分を肯定していいんだ、
自分自身を愛していいんだって教えてくれた』
『彼は本当に特別な存在なんだね…』
『ええ。私を本当に愛してくれた人がいた、そしていつも、遠くからでも、ずっと私を見ていてくれる…
だから私は生きてこれたの』
『でも、ルッカがその…あんなふうになってしまって…
あなたもつらかったでしょう?』
いよいよ僕は深い森の奥の暗い洞穴にたどりついた。
前に進むためにはこの穴をふさぐ岩を取り除かなくてはならないのだ。
『ええ、ルッカの苦しみが、つらかったわ。
私を抱けなくなってしまったことがつらかったんじゃないの。
彼が自分を責めるのが痛ましくて見ていられなかった。
彼は私に喜びを与えようとしてくれたわ。君だけでもって…
君が感じるのを見るのは嬉しいって。
でも…
でも、 私…』 ルナが苦しそうに息を継いだ。
彼女のまだ癒えていない傷を抉り出そうとしているようで、心が痛んだ。
『話したくなかったら話さないで』
『ジャン…
私ルッカに言えなかったわ。どうしても』
彼女がさらに一歩、僕に向かって踏み出したのがわかった。
彼女も洞穴をふさぐ岩を、僕と一緒になって取り除こうとしている。
僕は声に力を込めた。
『何を?』
『彼は私を感じさせることができたわ。最初の頃と同じように。
でも感じている私を見ても、彼の官能は膨らんでいかない。
私を欲しいと思ってくれない。
そんな彼によって、私はオーガズムを得られなくなってしまって… ずっと振りをしていたの。
感じて、そして絶頂を迎える振りをしていたの…
彼のために私が出来る、それが唯一のことだったの…』
見ると静かに、ルナは泣いていた。
『私ルッカに、自分を捧げ切れなかったの…』
僕は彼女を、黙って抱きしめることしかできなかった。
彼女の罪悪感が、彼女の中のルッカに一層濃い影を与えていたのだ。
それが彼女をルッカという檻に止まらせ、なお彼女の孤独をこれほどに深くしていたのだ…
僕たちはしばらくそのまま抱き合っていた。
しかしどれほどのことであっても、言葉にして心から出してやるだけで、
抱えていたものはずっと軽くなるものだ。
『僕とはどうなの?』 訊くまでもない質問を僕は口にした。
『ジャン、そんなこと決まっているでしょう。
あなたには、私は全てを捧げている。
そしてあなたを、私は平気で奪うことができるわ。私の男だもの。
ジャン… あなたはルッカより、もっと特別よ。あなたも私を少しも恐れない。
それどころか、どんどん私の中に入り込んでくる。
ルッカでさえ入って来れなかったところまで、あなたは既に入ってきている。
本当にあなたは私の完璧な男だわ』
ルナは完璧な女だと言ったルッカの言葉を思い出した。
初めてコテージのテラスでルナの後ろ姿を見たときのことも。
月の光に照らされた、完璧に孤独なそのシルエットも、思い出した。
僕は思った。
彼女のこだわりを全面的に理解したのではなかったが、
それはより互いに深く、真摯に向き合うためだということだけは、納得できた。
もはやルナの孤独は彼女の持つ豊かな自然性と、コインの裏表のようになって、
ぴったりと張り付いてルナ自身を造りあげている。
それがルッカとの関係によって、更に強化されてしまったものだとしても、
僕は今のルナを、彼女の胸のうちに残るルッカの影と共に受け止め、愛していくしかないだと。
いずれにしても、僕自身が、ルナという破れた檻を出入りするだけのトラベラーでなくなる日が、
そろそろ近づいている気がした。
『ジャン… 今日も私を抱いてね。昨日のように。
ううん、あなたのしたいように』
『きのう、あなたは悲しくなかった?』
『悲しかったわ。ジャンが悲しんでいたから』
『僕がその悲しみを埋めようとあなたを抱いたことは?』
『嬉しかった。
きのうは悲しくて、そしていつもよりもっと嬉しかった』
『喜びの底に悲しみがあっても?』
『悲しみなんて、いつでもあるのよ。
だってきのう、やっとあなたは私と同じ悲しみを分かち持ってくれた…』
『それはどんな悲しみ?』
『けっしてひとつになれない悲しみよ。
だから私たちはかぎりなく求め合うことしかできない…』
あなたは、あの夜のように、まず僕の指で快楽を与えてくれとねだった。
『ジャン…あなたにいかせて欲しいの。あなたに見られてるだけで、私もういきそうになるの。
私はあなたの意のままになる、もう自分でどんなに抗おうと、あなたの意のままだと思うと、
それがたまらないほどの幸福なの』
『ルナ… 何度でもいかせてあげるよ。 僕こそ、君の意のままさ』
僕はあなたをテラスの寝椅子に横たえ、床に膝まずいた。
今夜も、月が妖しい光を放っている。
ルッカの話を聞いて僕の中に巣食った、
彼のようにルナを愛しすぎたら僕も同じようになるのではないかという不安は、
たやすく打ち消されていた。
いかせて欲しいの、というあなたの言葉だけで、すでに僕自身が反応している。
あなたが足を開くだけで、僕の欲望は漲り、
あなたの中心に唇を寄せると、その緊張は痛いほどに僕を苛んだ。
あなたが僕の指と唇で昇りつめていくのを見るのが、
僕にとってどれほど強烈な喜びか、あなたは良く知っている。
そして僕の喜びが、あなたの快楽を一層かりたてていくことを、僕も知っている。
それはまるで日々新たに形や色を変える海のように輝き、
喜びの往還にうねりを深める潮のように、引いては満ちる…
今、あなたはゆたっりとその波に乗り、深い底まで沈んだかと思うと、
一気に水面まで浮上し、そのまま体の全ての緊張を捨て去り、弛緩した体を僕にあずけた。
ジャン… と僕を呼ぶあなたの声の限りない甘さに、僕は酔いしれる…
そのあとあなたは、手でいっさい僕に触れず、唇だけで僕を愛した。
まるで自分が僕を愛するために生まれてきた、一個の唇であるかのように。
唇と舌で、まず僕の全身を愛撫したあと、あなたは怒張した僕を舌で弄ぶ。
絶え間なく動く熱い舌の刺激に、僕は耐えられるだけ、耐えようとする。
それは無駄な、しかし甘美な抵抗だ。
あなたは、そんな僕の感応を推し量りながら、僕自身を口に含む。
やがて僕は、襲いかかる激しい波に己のものであった肉体を手放す。
あなたの喜びに捧げるために…
僕が、あなたの中に深く呑み込まれ、溶けていく…
あの夜、バスタブの中で同じように交わした儀式めいた行為の意味を、ようやく僕は理解した。
『大好きよ、ジャン』 と僕の首にかじりついてきたルナの喜びの真の意味を、
ようやくその夜、僕は理解したのだ。
『ベッドに行こう、ルナ…』
『ええ…』
あなたを抱き上げる。
『本当にわかったよ』
『なにが?』
『本当に君が僕の女で、僕が君の男だと言うことが…』
『今まで知らなかったの?』
『知っていた。最初から知っていた。でももう一度、本当にわかったんだ』
ベッドの上で、ゆっくりと時間をかけて、僕はルナを愛した。
ルッカの、時を止めたかったという言葉が思い出された。
果てることの悲しみの前に、一歩も進めなくなってしまったルッカを思った。
しかし今僕は、果てても果てても、ルナを求めるだろうと思いながら、彼女を抱く。
なぜなら、あなたが僕を求めてくれるから。
あなたが求める限り、僕はあなたを抱くだろう。
あなたの前に、あなたがするように、ぼくも喜んでわが身を差し出すだろう。
窓から差し込む月の光が、あなたの肩甲骨とウエストのくぼみに影を落とす。
うつ伏せになった背中を楽器のように、僕は指で奏でていく。
ゆるやかに美しいカーブを描く腰の丸みを、指先がなぞる。
あなたに与える刺激を、一本の指の先だけに絞っていくと、
あなたの皮膚の感覚は一層研ぎ澄まされ、
その刺激は正確なセンサーのようにあなたの快楽を呼び覚ます。
ゆっくりとあなたの体がしなり、ゆれ、踊り始める。
『ジャン、
あなたに触れられると、すぐにがまんできなくなってしまう。
もっともっとあなたをゆっくりと感じていたいのに、すぐに欲しくなってしまう…』
『ルナ、我慢なんかしないで。どうしてほしい?もう僕が欲しいの?』
『まだよ。我慢できないけど、我慢したいの。
お願いよ、ジャン。私が欲しいといっても、ぎりぎりまで与えないでね』
僕はあなたの中に指を差し入れ、動かし、あなたの襞を愛撫した。
よく知ったあなたの快感のポイントにも、焦らしながら刺激を加えていく。
あなたからのサインをなにひとつ見逃すまいと、じっとあなたを見つめながら。
そして僕は指を動かすのを止めた。
ぼくがやめると、あなたの腰が動く。
静かにやがて大きく…
『ジャン、ちょうだい…
あなたが欲しいの…』
『だめだよ、ルナ。まだあげられない…』
『おねがいよ、ジャン、欲しいの…』
『だめだ…』
『どうすれば私にあなたをくれるの… 私、何でもする・・・何でも… お願いよ… 』
『あぁ、ジャン…』
あなたの声が蜜のようにぼくを覆う…
僕は静かにあなたを刺し貫いた…
『ジャン、愛してるわ…』
『ぼくもだよ、ルナ…』
窓の月が静かに動いていき、やがて部屋は暗闇に満たされた。
僕とルナは、宇宙の闇のような深い静寂に飲み込まれ、
そこでも愛し合い、やがて満ち足りて、果てた。
コメントを残す