『キッコ、キッコ… 』
水の底を流れる音のように、ドンファが私を呼ぶ。
そっと肩を揺すぶられる。
『ドンファ… ドンファ?!』
私はソファーから跳ね起きた。
『ごめん、 会議が長引いて…』
急いでブラウスの前を合わせ、胸を隠そうとする…
だがボタンはすべて留められており、下着もしっかりと身につけていた。
私はあわて、ドンファが見たであろう自分の姿態を思い、
恥ずかしくて両手で顔を覆った。
『ごめん、ドアがロックされてなかったから…』
『あ、あたし… 酔っ払って、それで…』
『悪かった。ずいぶん待たせてしまって…』
ドンファは何も知らないという顔をしている。
私はドンファに寄り添い、肩に頭をもたせてみた。
かすかに女の香水の匂いが漂い、私はドンファから体を離す。
ドンファはここに来る前に、他の女を抱いてきたのだろうか…
『ワイン、まだある?』
『もうあんまり残ってない』
『ごめん…』 またドンファが謝ったので、私は少し笑い、
残ったワインを彼のグラスに注いだ。
『怒ってる?』
私は答えず、乾杯と、からっぽの自分のグラスを合わせる。
ドンファが自分のワインを半分私のグラスに注ぎ、
『乾杯』 と言った。
優しい声…
私のウエストに添えられた優しい手…
少しも熱くならず、少しも私を欲しがらない。
さっきは喜多の声と共に、あんなに強く私を抱いてくれたのに、
あなたは本当にあのドンファと同じドンファなのか…
『どうかした?』
『何人もドンファがいて、どのドンファが本当なのか、わからない』
私はおさない子供のように言ってみた。
ワインの酔いにまかせて。
『どのドンファが好き?』
『わからない』
『どのドンファが欲しい?』
私は答えることができない。このドンファ、などと選ぶことはできない。
『僕が欲しい?』 黙って肯く。
『そんなに?』 こくんと、もう一度肯く。
『すました顔で、男なんて興味ないってバリバリ仕事してたキッコが?』
ああ、また別のドンファだ。
『だから私を誘ったの?』 子供の私が、消えていく。
『ごめん』 またドンファが謝った。
『ドンファ、もう私に謝らないでくれる?』
『やっといつものキッコだ。 君にも色んなキッコがいるね』
私はドンファから視線をはずした。
そうだ、ドンファを欲しいとだだをこねる、
欲望にまみれた子供じみた女ばかりではない。
プライドが傷つくのを恐れ、自分をさらけ出すのをためらう、わけ知り顔の女もいる。
『ひとつだけ教えて。
私も、たくさんの女の中の一人なの?』
『そうだよ』 ぬけぬけとドンファが言った。
『僕だって、君のたくさんの男の中の一人だろう?』
『そんな…』
『君は今僕が欲しい。だけど明日は別の男が欲しくなる』
『ドンファ…』
半年前は違う男が欲しかった。半年後のことはわからない。だからって…
『そんな言い方することないでしょ。
私、あなたのこと…』
ドンファが私の言葉をさえぎった。
『愛してる、なんて言わないでくれよ』
優しい声で酷い言葉をぶつけられ、
大事に思ってる、と言うつもりだったのに、私は違うことを言ってしまう。
『いつも、女は同じことを訊くってわけ?そして最後は愛していると言うのね…』
『そう、だいたい同じだから、僕も同じように答えるんだ。
今ではオートマティックに答えが出て来る』
その声が、しんみりと優しい。
偽悪的なセリフで私を突き放しながら、心の底でドンファは哀しんでいる。
その哀しみの意味を、私は知りたかった。
『今夜は私と寝る気にならない?』
最初の夜のようにドンファの胸に顔を埋めて、私は訊いた。
『キッコだって…』
『私、さっきあなたと、すごく激しくやっちゃったの』
『妬けるな』 その言葉はまるで本心からのもののように、私には聞こえた。
『何故、今夜来てくれたの?』
『そっけなくして悪かったと思って電話した。
そしたら君がすごく僕に会いたそうだったから。
シンプルだろう?』
私たちは肩を寄せ合い、黙ってワインを飲み、
窓の外が次第に明るくなっていくのを眺めた。
それから彼は私をマンションまで送ってくれた。
断られると知りながら、泊まっていってと誘ってみる。
『ああ… そうだね…』 ドンファの声がいつもより深い。
彼はふっと静かに息を吐き出し、
『いつかね』と答えた。
眠れずにいると、ドンファからメールが届いた。
どうってことない女となら、気楽に抱き合えるんだけどな…
愛してるなんて言わないでねと、私は返した。
一日中部屋で過ごし、ドンファのことを考え続けた。
あの夜彼は、私を抱く気なんてなかったのだ。
なのに私の欲望に感応して、声は私を欲しがっていた…
その声を押さえつけて… 自分の意思を貫こうと、
私だけを喜ばせようと、あんなに…
まるで修行僧のように…
翌朝喜多に電話した。
『すみませんお休みのところ』
『緊急なこと?』 喜多の声は、いつものようにおだやかで、私を安心させる。
『ちょっとプライベートでご相談が…』
喜多は、午後遅い時間なら都合がつくから会社で会おうと、言ってくれた。
私はすぐに部屋を出た。
ワインのビンやゴミは持ち帰ってきたし、金曜の夜の痕跡は残っていないはずだけれど、
少しでも早く事務所に着いて、もう一度部屋の様子を確かめたかった。
事務所には夜の親密さも、昼の緊張もなかった。
休みの日の学校の教室のように、
まるで私を部外者のように拒絶する空気だけが、
しんと動かずにそこにはあった。
喜多が入ってきた。
『早かったわね』
『喜多さんこそ』
『実は隣にいたの。あなたが来たのがわかったから』
ソファーに座ると、
『個人的なことって?』 と喜多がいきなり訊いた。
いつも以上におだやかな声だった。
この声で聞かれれば、私はどんな質問にも答えてしまう。
それなら自分から話そう。
『ときどき、夜事務所で過ごしていました。申し訳ありません』 と
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