色・褪せない ・・・前書きにかえて

posted in: 色・褪せない | 0 | 2010/9/18
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— 私家版私の好きな女たち

しばらく前、ふと気付くと、官能的な描写を含む小説や、
いわゆる「恋愛小説」に、あまり触手が動かなくなっていた。
読むのも、書くのも、である。

あるコミュニティサイトに、「伸びやかなR(=性描写)が好き」と投稿したのは、四年ほど前のこと。
今だって、官能表現が嫌いになったとか、性的なものに嫌悪を覚えるようになったとか、
そういうことではない。
あのとき、「のびやかなR」を、書くのも読むのも好きな女たちがたくさんいるあの場で、
そのことが嬉しくて、「伸びやかなRが好き」っていいよね、と、
つい長いつぶやきをアップしてしまった思いは、今も少しも変わっていない。
性描写に対する許容度は、
場の広がりやダイナミズムを計る、ひとつのバロメーターではないのか、という、
他のコミュニティサイトと比べて感じたことは、
しっかり私の中に根付いたまま、少しも揺らいでいない。

なのに、なぜ……。

枯れたのかもしれないし、飽きたのかもしれない。
官能表現というのはエスカレートするものだから、
単に私のストライクゾーンが狭くなっただけなのかもしれないし、
全然別の方向から、球を投げて欲しく(投げたく)なったのかもしれない。

とにかく、自分でもよくわからないながら、こういうことになっている。
別段誰に迷惑をかけるわけでもないからいいんだけれど。
そうして、新たに読む気にならないなら、これまで読んだものはどうだっただろう? と、考えた。
振り返ってみれば私の中に、くっきりと残っている性愛描写や、女たちがいた。
ならば、記憶の中で色あせずに輝いている、それらの場面やヒロインたちを、
この際すこし整理し、せっかくだからここでも紹介してしまおう、などと思うのである。

まずは私の敬愛する桐野夏生の言葉。

人は一生かかっておのれのエロスの何たるかを知る。あるいは知らずに死ぬ。
自分のエロスこそが最大の謎なのだとしたら、作家たる者は皆、
摩訶不思議にして、生きるに肝要なエロスというものを、
文章によって表現すべきではないだろうか……

官能小説に挑戦してみて、わかったことがある。
エロスとは、偶然に生まれるものでもなければ、
その人が生まれつき持っている才質でもない、ということだ。
実は、エロスは確かなスキルに裏打ちされ、鍛え抜かれるべきものなのである。
……官能小説を書くために、普段以上のスキルが必須となるのも、そのせいである。

『エロチカ』という官能小説アンソロジーの前書き、『官能とスキル』のなかの一文である。
桐野さんによると、「飽きた」などとほざくのはもってのほか、
「努力が足りない」と一喝されそうであるが……。

「官能小説」と名乗っているもので、記憶に残っているものは少ないけれど、
このアンソロジーだけは、リストアップしようと思っている。
それから、一番最初に取り上げる作品も、決まっている。
森瑤子の『情事』である。

実は昨年、ある女性作家の小説で、大胆な性描写で評判になったものを読んで、
『情事』の鮮烈さを思い出したのだ。

その小説については、仲間内でも「良くここまで書いた」という賞賛の声、
「主人公の、夫に対する鬱屈や依存関係の苦しさと、
そこから自立していく姿がリアルだった」という共感の声など、
概ね肯定的な評を聞いた。

だが私には、あまり面白くなかった。
まず、夫の抑圧から逃れるために、脚本家として、一人の女として自立するために、
他の男と次々に性関係を持つという図式そのものがバツ。
相手の男性は3人? いや4-5人はいたかな、出張ホストも入れれば。
彼らとの性愛描写もあまりそそられなかった。

精力絶倫でセックスのうまい(からだの相性がいい)男と、
へたくそな男と、色々出てくるけれど、いつも男性主導で、
相手次第という主人公の依存体質は最後まで変わらず(のような印象を持った)。
だいたい男関係によって「いい女」度が増すなんて、
あまりにイマドキ的外れではないだろうか。

という私的感想とは裏腹に、賞も三つばかり取ったので、
一般的には評価されたのだろう。
わからないものである。
いやわかるような気もするけど。

ところでこの主人公は、自分は性欲が強い女だ、ということを大仰に告白し、
性的欲望に正直に従うことを、女の革新的な行動のように肯定し、
最後には、その正直さの果てに引き受けなければならない孤独に言及する。

この孤独は、しかし、作品中でしっかり描かれているとは言えない。
花火見物の河原で男とはぐれたときに浮かび上がる孤独とは、
自分の欲望に向き合う孤独ではなく、
単に欲望に応えてくれる男がいなくなったという孤独にしか見えない。

この本が提示した、いや提示しようとしたもの、
まず「性的な存在としての女性」宣言であるが、これはそれほど新しいことだろうか?
林 芙美子が『放浪記』で『食欲と性欲』と書いたのは、今から80年ほども前のことである。

森瑤子が『情事』で、

セックスを反吐が出るまでやりぬいてみたいという、
剥き出しの欲望から一瞬たりとも心を外らすことができない期間があった。

と書いてから、30年以上が経っている。

これは、性的存在としての女の市民権は、
少なくとも1978年に『情事』が書かれてからそう変わっていない、
ということを示しているのだろうか。
それとも『情事』が、それほどに革新的な小説だった、ということか……。

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