— 私家版私の好きな女たち・ヨーコ
『情事』 森 瑤子 1978年 集英社
鮮烈な小説だ。
その輝きは30年以上たった今も少しも褪せていない。
一番印象的なフレーズを、ここでも挙げておこう。
自分が、若さを奪い取られつつあると感じるようになると、反対に、
性愛に対する欲望と飢えが強まっていった。
セックスを反吐が出るまでやりぬいてみたいという、
剥き出しの欲望から一瞬たりとも心を外らすことができない期間があった。
性描写についても引用しなければいけないだろうか。
でも、あまり気が進まない。
どこかにあるのをコピペするのはいいんだけれど、
自分の指でキーを打って入力する気にならない。
これをもって紹介する、などとは言えないかもしれないけれど、
私家版だからね、好き勝手しちゃおう。
ただ、主人公のヨーコがレインと出会ってすぐ、彼の部屋で交わすのは、
肉体の快楽だけではない、ということは言っておこう。
洒脱な、今読んでもあまりリアリティーを感じない会話、
外国語を翻訳したような会話に慣れてくると、そこここに、
森瑤子の女と男の関係に対するこだわりや、矜持のようなものが透けて見える。
たとえばこんなところ。
「ところで、ヨーコ、もしボクが小さな乳房をセクシーだと思う男のひとりだと、
今白状したら、信じてもらえるかな」
「いいえ、レイン、信じないわ。
そのことでさっき、チャルコット・ハウスで充分に、傷つけられているのよ」
「でもボクは、おっぱいの大きな、脳みその足りない女*とは、
一度もセックスしたことはないよ」
「ほんとうに? 男はみんなその反対だと思っていたわ」
「男だって色々あるさ。誰でもいいってわけじゃない」
「それを聞いて安心したわ。女だって、相手に対する好みはあるのよ。
少なくとも、私には、絶対にゆずれない条件が、いくつかあるわ」(* おっぱいの大きな女たち、ひっかからないでね。
レインはあなたに向かっては、きっと違うことを言うと思うから)
選ぶのは男だけではない、女も相手を選ぶのだ。
そのことを森瑤子は、男と寝る前のヨーコに誇らかに宣言させる。
レインと知り合う前の年、夫の友人でひと夏の情事の相手となったデイヴィッドにもこう言わせている。
「君が好きだ。君に選ばれたことをとても幸運だと思っているよ」
デイヴィッドとの別れのシーンも印象的だ。
夏が終わり、ヨーコが軽井沢の別荘から東京に戻るときが来た。
だがそれは、ヨーコの夫ポールとの夫婦の日常と、
ポールとデイヴィッドの友人同士の日常に戻るということである。
「正直言って、ポールの友情を傷つけるくらいなら、君を失ったほうがましだ、と思っている。
そして、これが結論だ』
デイヴィッドの言うことは、痛いほどよくわかったが、
その率直過ぎる表現の仕方が私を怒らせた。
「ポールを傷つけたくない、なんておっしゃいますけど、デイヴィッド、本当は、
あなたの個人的な評判なんじゃない? あなたが傷つけたくないというのは?」
デイヴィッドは、黙って膝の上に置いた自分の手をみつめていた。それから、
「美しい女というものは、そんなに鋭い観測をするものじゃない。
仮にしたとしても、口に出してはいけないよ。
ヨーコ、これは僕の、最後の忠告だ。
しかし、答えはイエスだ。君の言う通りだよ」・・・・・・
「では、私はどうなるのかしら? 私の気持ちは? 考えてくれたこと、ある?」
「君は大丈夫さ、僕と別れることで、君だけは絶対に、傷つかないよ」
私はデイヴィッドの肉体に馴れ、
彼の、いくつかの官能の仕草や、愛撫の仕方などに、深く執着していた。
夫には決して言えないような淫らな言葉、好色な媚態、気紛れ、我儘……
これらは全て寛ぎであり、解放であった。・・・・・・
別れの苦渋といったものはなかったが、寂寥感が私の顔の上に出ていたのに違いない。
「そんなに悲しそうな顔をするなよ、ヨーコ。
君の事は大好きなんだ。わかっているだろう?」
「ええ、でも私を愛してはいないのよ」
すると、デイヴィッドは深い眼差しで長いこと私をみつめ、それから言った。
「君が、まずそれを望んでいないじゃないか、ヨーコ、僕なりに君を愛しているんだ、と思うよ。
君は? ヨーコは僕を愛してくれてはいないだろう?」
正直に言って答えは、否だった。私は項垂れて、首をふった。
デヴィッドは大袈裟にあきらめのゼスチャーをしてみせ、
それから、クラーク・ゲーブルのように、ニヤリと笑った。
「じゃ、これでいいわけだ」
「そう、これでいいんだわ」
私も微笑み、そして、夏の情事が終わり、友情が残った。
この小説はとても潔い小説だ。『情事』というタイトルしかり。
この、情人との会話もしかり。
最後の一行も、簡潔で、だがとても深いものを含んでいる。
橋本治が、どこかで、恋愛とは肉体関係のある友情である、というようなことを書いていた。
大きく頷いたものだが、このことを明言する人はとても少ない。
友情は対等でなければ成り立たない。
相手の感性や知性に対する共感と尊敬が不可欠である。
だが現実では、恋愛における肉体の感応力はそれらを凌駕駆逐することも多い。
終わってみたら友情などつゆかけらも残らない関係がかなり多いことを、
私たちは知っている。
橋本治も、森瑤子も知り抜いている。
だからあえて言葉にする必要がある。
だが、感性も知性も肉体も十全に感応しあっていたのに、
終わったときに友情が残らない関係もある。
ヨーコが次の夏、パブでデイヴィッドに紹介されたレインとの関係がそうだった。
レインに結婚しているのかと訊かれ、
一瞬のためらいの後に、『していないわ』とヨーコが答えたとき、
彼女が裏切ったのは夫だけではない。
裏切ったのはレインとの間に、他の誰とよりも強く築けたかもしれない友情だ。
性描写は引用するつもりがなかったけれど、
ここだけはしなくちゃいけないかな。
熱い口。柔らかな薔薇の唇。小さな生き物のように狡猾で、残忍な舌。
そして注意深く、戦く歯、そして、温かい時。
それら全てに、私はどんなに感謝したことだろう。肉体の中心に加えられている小さな無数の痛みと、熱く絡みつく甘美な感覚のために、
私はすっかり言葉を失った。それから、目の底の炎に焼かれて視力を失い、
耳の中で鳴り続ける野生の叫び声が、鼓膜を破った。
私は、肉体の中心のただ一点で、レインを凝視し、彼の沈黙に聴き耳をたて、
彼に百万の言葉を語りかけようと苦悩していた。
私の前に跪いている、この黒絹の髪をもつ見知らぬ美貌の男に対して、
そのとき私が抱いていた感情は、感謝の気持ちに似ていたが、
それでなければ、正に、愛であった。
最初から、レインとの関係には、「情事」を超えていく過剰なものがあった。
恋愛を成立させるには、友情と、肉体的な感覚として沸き起こる欲望だけではなく、
この、理性では説明の出来ない、相手に対する感情の過剰さが必要だ。
『情事』には好きな箇所がいくつかあるが、ラストの10ページほどが特に好きだ。
『夏が、終わろうとしていた』という小説冒頭の一行で、
痛みから逃れるためにではなく、痛みをなぞるように語りだされた物語が、
夏の半ばで、唐突に終わりを迎えたシーン、
『していないわ』という偽りが、最高に残酷なシチュエーションで暴かれるとき。
「情事」を超えてはみ出していき、
互いを傷つけあう事も可能な、コントロール不能な感情を、
ヨーコが自らの手で、「情事」に落とし込めたとき。
この小説の潔さが、端的に現れている場面でもある。
しばらく日本を離れていたデイヴィッドが帰国し、
パブ(チャルコット・ハウス)に友人たちが集まってくるはずだった。
遅かれ早かれ、デイヴィッドの口からレインに、
自分が実は結婚しているという真実が明かされるのを確信したヨーコは、
覚悟を決め、レインもパブにやってくるように仕向ける。
だがその場には、すでに夫のポールが来ていた。
ポールも当然来るはずであった。だがなぜか、ヨーコはそのことを失念していた。
そして、レインが入ってきた。
ちょうど一月前、颯爽と現れたのと全く同じように、ちょっと立ち止まって、
暗い店内を見渡し、今度はデイヴィッドではなく、私に目を止めると、歩み寄ってきた。
私とレインを結ぶ道が、奇蹟のようにさっと開け、
気のせいか、眼の下の肉が落ちて、そのために異様に輝いてみえるレインの瞳が、
まっすぐ私にそそがれていた。
「やあ、ヨーコ」と、レインが小声で囁いた。・・・・・・
「レイン、紹介するわ」
私は、隣で、背の高いアメリカ人の弁護士と話をしていた夫の腕をとって、言った。
『あなた、こちらは、レイン。レイン・ゴードンよ。
そしてレイン、ポール・マックブライト。私の、夫」一瞬、レインの躰が強張るのが感じられた。
夫がまず右手を差し出し、それをレインが受けた。
『ジャック・メランから、NW誌の記者だと聞いていますよ。
ジャックは、ご存知でしょう』と夫が言い、
「嘱託ですがね。ジャックは、むろん知っています」とレインが答えた。
私は吐気を耐えるかのように、二人から顔を背けた。
夫とレインの前から引き離してくれたデイヴィッドに、パブの片隅で、ヨーコは事情を明かす。
その彼女に二度と視線を向けることなく、レインはパブを出て行く。
レインの去っていく姿を見るのは、初めてだった。黒い髪が、幾すじにも乱れて、
生きた蛇のように、首に巻きついているのが、眼の底に焼きついた。
去っていく男の後ろ姿を見送ったのは、初めてのことではない。
俊輔も、デイヴィッドも、私に背を向けて歩み去って行ったことはある。
しかし、レインは?
あの青い、綺麗な瞳は、もう決して振りむいて私を見ることはないのだ。・・・・・・
「大丈夫だよ。朝になれば、また電話してくるさ」
「いいえ、デイヴ、電話は、こないわ。もう終わったのよ」
「それなら、くよくよするなよ。ヨーコらしくもないよ。
僕の時には、みごとに笑って別れたじゃないか。頼むからヨーコ、妬かせないでくれよ。
彼のこと、そんなに好きだった?」
「愛していたわ』と私は小さいけれど、はっきりと答えた。初めて声に出して。
そして自分が無意識に使ってしまった言葉の過去形に気付いて、愕然とした。
私は、この夏の情事がすっかり終わってしまったことに、すでに馴れ始めているのだ。・・・・・・
私はこのあと階段を下りて、夜の街の中へ彷徨い出ていくだろう。
夫と並んで家の方へと向かいながら、悲しみのあまり叫びださないために、
ポールの手の中に自分の手を押し込み、
あまり考えないですむよう彼の歩調に合わせようと駆けだすだろう。
すると、顔の両側を夜の風と、六本木のざわめきと、光が飛び散り、
少しずつとてもゆっくりと慰められていくだろう。私はもう一度ウィスキーを掲げた。
チアース。
余分なものなど何もない、見事なラストシーンだと思う。
最後に、もうひとつ触れておかなければならないことがある。
この小説で語られたのは、ヨーコと二人の「情人」との間に交わされた性愛だけではない。
もう一人の男、夫との間に失われていくエロスが、短いが鋭い叫びとして語られている。
エロスの賞味期限はとても短い。
家庭生活とのなじみは非常に薄い。ゆえに、
ある程度時間を経た夫婦に、峻烈なエロスを求めるのは無理である。 と、私は思う。
そのことの寂寥は、現代の我々が暮らす社会の価値観の下では、
否応なく引き受けていかなければならないものだ。
友情は、夫婦の間にも残るだろう。
いや、友情こそが、夫婦の間では大事なものになるだろう。
だがそれは、通常は、デイヴィッドとの関係のようなあけすけなものにはなり得ない。
日常のしぐさや、交わす言葉に、否応なく欺瞞が忍び込む。
そのことに対するヨーコの嘆きや悲しみ、そして怒りも、
結婚という形(あるいは日常を恒常的に共にする男女関係)を選択した女と男には、
欲望と対になった孤独と共に、 生涯飼いならしていかなければならないことなのである。
コメントを残す