夏の行方<後編>
隣の部屋の電話の音で、ジャヌは目覚めた。
カナを起こさないようにそっとベッドを抜け出す。
鳴っていたのはバッグの中のカナの携帯だった。
少しためらったが寝室のドアを閉め、電話をとる。
カナか? 相手はロベルトだった。
彼女は眠ってるよ。
ああ、ジャヌ、おまえか。
起こそうか?
いや、実はおまえに用があったんだ。
そういえば僕のために君の友達には悪いことを… カナもホテルに行くはずだったのに。
気にするな、ちょっと夜の打合せがあっただけだ。そんなの俺たちだけで充分だったし。
夜の?
ああ、そのことだが、カナは何か言ってたか?
いや、何も。その…まだほとんど何の話もしてなくて…
そうか、そうだろうなとロベルトは笑った。
とにかく、8時だ。二人で来てくれ。
トスカーナの名醸ワインの作り手が経営するワインバーの名前を、ロベルトは告げた。
ちょっと友達に替わるよ…
一瞬のブランクのあと、初めましてと流暢なイタリア語で男が話し始めた。
いやぁ、あなたに会いたかったんです。ヒロユキと言います。
シニョール、ヒロユキ…
ヒロと呼んでください。
ヒロ…
ジャヌの脳裡でいくつかのピースが動きまわり、やがてぴたりとあるべき位置に嵌った。
彼も結婚式に参列していたのか。
だから、カナは僕を連れて行きたくなかった…
僕は今夜遠慮したほうが…
とんでもない、そんなこと言わないでください。 男はあわててジャヌの言葉をさえぎった。
それよりカナから僕のことを聞いていますか?
男の口から出たその名が、寝室で眠っているカナを指すのだということを、
喉にむりやり押し込まれた、しかし決して吐き出すことのできない、固いかたまりのように飲み下す。
聞いているとジャヌは答えた。
だが本当はアンから、カナには日本に長く別居をしている夫がいると知らされていただけだ。
以前はボローニャの大学でロベルトの同僚だったと。
ヒロという名は、一度だけロベルトが口にしたのを記憶していた。
カナなら今…
眠っているとか。
ええ、と答えるとそれきりジャヌは口をつぐんだ。
ばつが悪いというよりも、この状況の奇妙さに言葉を失ったのだ。
なのに男は屈託なく話し続ける。
では出て来ませんか。食事の前に少し話せたら嬉しい。
嬉しいだって? 男の真意がますますわからなくなる。
だが、これこそが夏の終りを告げることかもしれないと、ジャヌは思った。
バカンスが終れば日常が、現実の暮らしが始まるのだ。現実の関係の中で。
男の宿泊先は、大学の少し北の旧市街のはずれにあった。
ルネッサンスにしては地味なつくりの建物で、教えられていなければホテルとは気づかないだろう。
真ん中には立派な門が開けられていて、
石の壁にはホテル・パラッツォ・Rと刻まれた、よく磨かれた真鍮のプレートが嵌っている。
門をくぐると広い中庭で、右側に中廊が続いていた。
奥のレセプションの手前にラウンジとバーがあるという。
ジャヌは足を止め、移りゆく木立の色に見入った。
夏の行方を尋ねるように。
カナの口から話を聞かなくて良かったと、ジャヌは思っていた。
こういう形でことに直面するほうが、はるかに冷静でいられる。
ラウンジに足を踏み入れると、片隅に置かれたソファーから男が立ち上がった。
日本人にしては長身で均整の取れた体つきだったが、他にどこといって特徴のない風貌だ。
ありふれたポロシャツにコットンパンツを合わせている。
これなら空港ですれ違っても気づかないだろう。
とたんに、ジャヌは思い出した。
空港の先頭のタクシーに乗り込み、去って行った男だった。
覚えていてくれましたか? そう言って男は笑った。
カナを呼ぶあなたの大きな声、あの悔しそうな顔… 実に愉快だった。
笑いの中に邪気のない親しみやすさが浮かぶ。
恥ずかしいですと、なんとかジャヌは言葉を返した。
僕は嬉しかったな。
あとでカナに話してやりましょう。どんなにあなたが滑稽で、そして魅力的だったかをね。
さすがカナが選んだ男だと、僕は思いました。
それに比べると僕は、いかにもカナには似つかわしくない。
今度はなんと答えてよいかわからなかった。
男の常識的な表層はいつしか剥がれ落ちている。
ジャヌは身構えた。
だが男は他意のない表情で話題を変えた。
あなたの研究のことはカナから聞きました。都市論だとか。
では僕の研究のことは聞いていますか?
話の道筋が読めずに、いいえと首を振る。
男はわずかに身を乗り出した。
中世イタリアの経済史です。
ローマのインフラが崩壊した後には、ほとんど人の動きがなくなってしまった。
停滞した物流はせいぜい傭兵や十字軍の移動に伴うのみ。
なのにイタリアは中世末期に複式簿記を発明し、
やがて為替取引で、ヨーロッパや小アジアにいくつも銀行支店をおく金融の中心にまでなる。
何とわくわくする話だと思いませんか。
僕たちがどれほどその恩恵に預かっているか、計り知れませんね。
ジャヌの同意に、男が我が意を得たりとうなづく。
張り詰めていた気持ちがわずかに緩み、ジャヌは視線を窓の外に泳がせた。
恩恵といえば、このルネッサンスの館や、彫刻もそうですね。
男も一瞬彫刻を見つめたが、視線は止まらずにぐるりと部屋をめぐった。
ええ、そういえば… だが男の口調には、それまでの熱は失われている。
僕が観光客で溢れかえっている街なかは嫌だと言ったら、
カナがここならいいだろうと予約してくれたんです。
いいところじゃないですか。隠れ家みたいに静かで、風情はあるし。僕は好きだな。
でもちょっと不便ですよ。
不便? ジャヌには予想外の言葉だった。
ありきたりの所よりはるかにましじゃないか、彼にはこのホテルの価値がわからないのか?
しかし、不思議だった。
この男は、まがりなりにも妻である女の恋人を、なじるでなく、嫌味ひとつ言うでもなく、
まるで新しい友人を得たかのようにふるまっている。
それが虚勢でもなんでもないことは明らかだ。
カナのことはこちらから言い出すべきなのか…
ジャヌが迷っている間も男の話は続いた。
中世都市の成り立ちに話が及ぶと、ジャヌが興に乗って話すのを、とても面白いと聞いてくれた。
男の関心はインフラや経済に限定されていたが、時には鋭い質問をしてジャヌを興奮させた。
気がつくとジャヌと男は、演劇的な都市の成り立ちと経済の隆盛について、
議論を戦わせているのだった。
カナのことは、ジャヌも男も、ついに口にしなかった。
やがて男の携帯が鳴り、電話に日本語で答えると、
連れが呼んでいるので失礼すると男は立ち上がった。
あなたと話が出来てよかった。 男は満足そうだ。
そうですか… あなたは本当に、僕とこんな話をしたかったのですか?
もちろんです。
その顔に、秘密を分け合ったようないたずらっぽい表情が浮かぶ。
夕食のときこんな話をしたらロベルトやカナに怒られます。
僕は初対面の人に会うと、自分の研究の話をするのを止めることができないのです。
でも彼らはさんざん僕の話を聞かされて、うんざりしてるんですよ。
男がにやりと笑った。
研究室に戻るとカナの姿は消えていて、
着替えに部屋に帰る、カンティネッタAでと、メモだけが残されていた。
トルナブオニ通りの重厚な石組みの館の中に、そのワインバーはある。
8時にはまだ少し早かった。
薄暗いエントランスの奥のバーは扉で閉ざされ、中の様子を窺うことはできない。
はやる気持ちを抑えて、ジャヌはホールの片隅に立った。
皆と顔を合わせる前に、カナを捕まえたかった。
少しでもヒロユキとのことを話しておきたかったのだ。
しばらくすると、一台のタクシーが店の前に停り、カナが降り立った。
ワインレッドの水の流れのドレスを着て、銀色の羽のようなストールで肩を覆っている。
ジャヌを見つけると、嬉しそうに微笑んだ。
その後ろにもう一人、日本人らしい女がいた。
カナより少し小柄で、ふっくらとした、あどけない顔立ちをしている。
その女の体が、歩き出したとたん崩れた。
カナと、急いで飛び出したジャヌが両脇を支えたので、かろうじて転倒は避けられたが、
女は左の足首をさすり、痛そうに顔をゆがめている。
ドライバーに金を払っていたヒロユキが、あわてた様子で駆けつけてきたが、
たいしたことはなさそうだと見ると、安堵の表情を浮かべた。
妻がお世話になって。
あ、いえ…
カナの事を言われたのだと、一瞬ジャヌは思った。 しかし…
アキコと言います。 ぼんやりしているジャヌに女が名乗った。
助かりました。 私そそっかしくて。
そう言いながら、かばうように腹部に手を添え、もう片方の腕をヒロユキにあずける。
エントランスに消えていく二人の後姿を見つめながら、ジャヌは動けなかった。
数歩先に歩き出したカナがいぶかしげに振り返る。
ジャヌ?あなた、どうかした?
頭の中はパズルのピースがひっくり返されたように混乱していた。
ああ… ヒロユキ氏の妻って…
アキコさんよ。
そんな… じゃ、君は…
あきれたようにカナがジャヌを見た。
昼間、彼と話したんじゃないの?
話したけど… それじゃ結婚式って…
ええ、あの二人のよ。
促されてバーの前まで来たものの、このまま中に入る気がしなくて、
カナをエントランスの暗がリに引きずりこむ。
いつから君は彼の妻じゃなかったの?
あなたの研究室を訪ねたあの日からよ。 静かにカナが答えた。
どうして、彼と別れたと言ってくれなかったんだ?
それで何かが変わった?
いや、何も変わらない、だが…
確かに、何一つ変わるものはなかった。
だって、離婚が成立したって知ったのはつい最近なのよ。
あの頃の私はそれどころじゃなかったし… カナの表情が翳る。
それに… 続けようとするカナを、ジャヌは抱き寄せた。
唇を重ね、その先の言葉を封じ込める。
自分だって何も訊こうとしなかった。そんなことはどうでもよかったのだ。
いや、むしろ何も聞かず、何も知らずに過ごしたかった。
やがて貪りあう唇から、いつものように透明な滴が生まれ、体を巡る。
聞くまでも無く、ジャヌは知っていた。
外の世界との交わりによって自分たちの関係が変容するのを惜しむ気持ちも、
いくら惜しもうとそれを避けられないことも、
何一つ変わることはないのだと。
カナの肩を覆っていたストールをずらし、首筋から背中にそっとくちづける。
そこに目に見えるしるしはなかったけれど、舌はたやすく記憶の中の傷跡を探し当てた。
ジャヌ…
かすれた声でちいさくカナが喘いだ。
カナ、友達なんてほおっておいて、このまま僕の部屋へ行こう。
残された夏を、少しでも長く抱きしめていたかった。
カナもうなずく。
そのとき背後で咳払いが聞こえ、振り向くと、ロベルトがいた。
さっ、入ろうか。 とこともなげに言う。
悔しそうに顔をゆがめたジャヌは、ロベルトに拉致されたような格好で、
ワインバーに足を踏み入れた。
ロベルトが奥に向かって手を振る。
待ち構えていたようにギャルソンがシャンパンの栓を抜いた。
カナがジャヌの耳元でささやく。
誕生日おめでとう!ジャヌ…
驚きのあまり、ジャヌはまじまじとカナを見た。
どうしてそれを…
奥のテーブルからヒロユキとアキコが立ち上がった。
その横にアンとパオロを見つけて、ジャヌは思い出した。
以前アンに誕生日を聞かれたことがあったのだ。
気がつくとジャヌはテーブルに引き寄せられ、
皆の祝福の抱擁とキスを浴びていた…
外の世界との交わりはあっというまに訪れ、もう逃れることはできそうになかった。
シャンパンのグラスは、あける間もなく満たされてしまう。
グラスの中で音もなく湧き上り、消えていく泡を見つめていると、
バーの壁やテーブルや、皆の姿がグラスの後ろにぼやけて見えた。
話し声も、ぼやけていく。
信じられなかった、あのヒロが避妊に失敗したなんて… カナの声が遠ざかる。
きっと確信犯なのよ… アンの声が近づく。
ぼんやりとした画像のアキコが片目をつぶり、水の中で混ざったような、皆の笑いがひびく。
ジャヌは、自分が皆と一緒に笑っているのを見る。
現実の世界と、去っていく夏の時間に片足づつをとられ、引き裂かれて、
形をなしかかっている現実の自分が、朧になっていく夏の自分を笑っているのだ。
シャンパンが終わり、料理にあわせて赤ワインがあけられた。
すばらしい出来の、97年のティニャネッロだった。
グラスを回し、香りを立たせる。
ガーネット色のグラスのまるみを灯りにかざし、
太陽と土が作り上げた宝石だと、誰かが月並みな賛辞を述べる。
ジャヌは香りの中に、舌の上で転がす液体の中に、熟したブドウの味わいを探す。
去ってしまった夏の名残を探す。
そして喉を滑っていくしずくの余韻に、それをみつける。
ジャヌはカナとベッドに戻った。
もう一度、夏を抱きしめるために。
バーでオーナーの娘だと紹介された、アンジェラの言葉が聞こえる。
いやそれは、アンジェラの言葉を繰り返す、カナの声だ。
ティニャネッロはね、ちょうどあなたが生まれたころに出来たの。
キャンティにはサンジョベーゼに白ぶどうを加えなきゃならないのに、
その代わりにボルドーと同じカベルネを加えたのよ。
伝統を捨て、制度を捨てたから、ただのテーブルワインとしてしか世に出せなかった、
名を捨てて出来た新しいワイン。
それが今では、現代イタリアにおいて最も影響力のあったワインと言われている…
夏に熟したブドウは摘み取られ、絞られ、樽で眠り、
瓶に移されて眠り、
時に委ねられて、さらに熟成していく…
育っていく…
時と共に。
私たちはね、この館に500年前から住んでいるの。ワインを造り始めたのはその100年前。
ティニャネッロは最初のヴィンテージからやっと30年ちょっと。
10年後のティニャネッロ、50年、100年後のティニャネッロ…
それはどんな味でしょう…
生まれてきてくれてありがとう。
あなたを口に含み、酔う幸せにも。
時を経る楽しみと、それを分かちあう喜びとともに…
ジャヌはカナというグラスに注がれ、揺すられ、飲み干される赤い液体となって、
流れていく時間に、自分を溶け込ませていった…
fine
コメントを残す