ある晴れた日に、永遠が見える… 1

posted in: ある晴れた日に永遠が見える | 0 | 2013/7/25

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 一年後、フィレンツェ

7月になった途端、街の雰囲気が変わった。 
気温が上がったせいばかりではない。バカンスのシーズンに入ったのだ。
スーツ姿はめっきり少なくなり、替わりに増えたのはラフな格好の男と女。

バスは雑多な人々がたむろする広場を過ぎる。
大柄で、白い肌をむき出しにした金髪の女たちがいる。
男たちは飾りけのないTシャツにジーンズやショートパンツを合わせ、
足元はスニーカーかウォーキングサンダルだ。
ドイツやオーストリアなど、アルプスの向こうからからやってきたのだろう。あるいはアメリカから。
皆大きな水のボトルを抱えている。

そんな人々に混じって、一人で歩いているこぎれいな身なりの女は間違いなく日本人だ。
何度もこの街を訪れているイタリア好きのOLか、
ビザが不要の三ヶ月の滞在期間を限度に、語学留学にやってきた女たち。
もっと目立っているのはグループでかたまっている、小柄で控えめな表情の東洋人の観光客。

広場のはずれには、スカーフを売る中国系の移民。
道端にサングラスやブランドのコピーバッグを並べているのは、アフリカの黒い肌の男たち。
アルバニアあたりからやってきた者も、ジプシーも、人の群れにまぎれているに違いない。
開け放したバスの窓からは、中南米のストリートミュージシャンが奏でる、どこか懐かしいメロディーが流れ込んで来る。

観光客も不法滞在者もくるくると入れ替わるのに街の色合いはいつも同じで、
多彩な色を束ねるようにひとつにまとめあげ、一枚のモザイク画に仕上げているのは、
この土地に生まれ暮らすイタリア人。
たとえばメディチ家の石積みの宮殿の前を行く女も、そんなフィオレンティーニ(フィレンツェ子)の一人だ。

カナは停留所に近づき徐行し始めたバスの中から、
犬を連れた、胸元が大きく開いた真っ赤なワンピースを着こなしたその女を見る。
一足早くバカンスを楽しんだのだろう、肌はブロンズ色だ。
膝丈のスカートからのぞく素足も見事に同じ色で、
ぺディキュアを塗った足先が自慢げにのぞく、やはり赤のサンダルを履いている。

女の髪の色をなんと呼べばいいのだろう。
あの色は… そう、サハラの砂漠の砂の色だ。
顎のラインより少し上に明るい金色と暗い金色が、砂漠の風が砂に描く光と影のように躍っている。

男が、すれ違いざまに女に視線を送る。
バールのカウンターでコーヒーを飲んでいる男も、行き過ぎる女を目で追っている。
きっと通りの反対側にも、女を見つめる男がいるはずだ。バスの中にも。

男たちは微妙な色合いの半袖のシャツや、ぴったりとした黒のTシャツにコットンパンツやジーンズ、
そして申し合わせたように、素足に革のデッキシューズかドライビングシューズをはいている。
ふとした拍子に見えるくるぶしがエロティックだということを、彼らはよく知っているのだ。
女はそんな男たちの視線を楽しみながら、ゆっくりと通りを行く。

その女がもう若くはないことは、バスの中からもすぐにわかった。
少し崩れた顎の輪郭、首から胸元に現れている陰り、うっすらと全身を覆う時間の堆積…

だが、女は美しかった。
その髪型も、大ぶりのサングラスも、ワンピースも、肌の色も、つれている犬さえも、
全てはただ彼女だけを現すものであり、他の誰のものでもない。
誰でもない自分を、女は誇らかに主張していた。

これこそがイタリアンモードだと、カナは思った。
他者の視線と共謀して作り上げた、完璧な自己イメージ。

だがそこにほころびはないのだろうか…
いやほころびはどこにもあるのだ。
ほころびは隠せば隠すほど顕わになる。
隠蔽はその背後にあるものをより一層鮮やかに浮かび上がらせるだろう。
背後にあるものの、あるいはないものの微細な予兆、ふとした拍子に垣間見えるむき出しの突起、
さりげなく空けられた裂け目から覗く、闇のようなもの。
その見えないものが、人を誘う。

バスから降り、人の波の中をカナは歩き出した。
歩きながら、しばらく前に別れたファビオのことを思う。
彼もかつて、あの女を見ていた男たちのように私を見た…

大学の研究室仲間のパーティーで、この街では珍ししくもない日本の女に、誰よりも熱い視線を送ってきた男。
男たちの視線にはすっかり慣れていたカナだったのに、
彼に見つめられると体温が何度か上昇したような気がした。
そのまなざしを柔らかく受け止めると、官能の予感が、
オーブンから漂う焼けるパンの匂いのようにまたたくまにカナを満たした、あの夜…

しかしその後の数ヶ月の間に、ファビオはのっぺりとしたごく普通の恋人になってしまった。
「カナ、愛してるよ…」 彼はいつも、カナにささやき続ける。
口癖のように愛していると言う。ベッドで抱き合う前も最中もその後も。
「私もよ、ファビオ」 カナがそう答えるのは、ファビオのささやきの数に比べるとはるかに少ない。

それは7月に入り、大学から学生たちも去り、期末の後始末や新学期の準備もようやく終わって、
いざバカンスに突入という開放感にあふれた夜だった。

「カナ、バカンスはいっしょにエルバ島で過ごしてくれるね。」 
早くから誘われていたのに返事を先延ばしにしていたカナは、
そろそろ答えをださなければいけないと覚悟を決めた。

イタリア人たちは、一年を夏のバカンスのために生きる。
長く暑い夏をどこで誰と過ごすのかは、彼らにとって人生の最重要課題なのだ。
一番人気なのは海辺のリゾート。
別荘がある場合はたいてい家族で、
あるいは友人を伴ってそこに滞在することになる。
ファビオの両親は今年はバリに出かけるので、エルバ島の別荘はファビオと彼の姉、
そして友人たちが自由に使ってよいことになっていた。

「いつまで?」
「もちろん八月の終わりまでさ。日本に帰らないならいいだろう?」
「ちょっと長すぎるわ。」
「そんなことないよ。ヨットでポルトフィーノにでかけたり、サルデーニャやシチリアまで足を延ばしてもいい。
あっという間だ。それとも君はエルバじゃ物足りないのかい?」

別にエルバ島にもファビオの父の別荘にも不満はなかった。
ただ、そこに夏の間中ずっとファビオと滞在することにためらいがあったのだ。

「他にもいろいろ行きたいところがあるの。」
「じゃ僕もいっしょに行くよ。」
「でも…」 
逡巡するカナに、ファビオが不満そうな声をあげ、いつの間にか諍いになった。

「君は冷たいね。」
「私、ちょっと一人にもなりたいの。」
「一人になって他のボーイフレンドとも会いたいって?」
これはイタリア人を恋人にもった女が、宿命のようにぶつけられる言葉だ。
あからさまな独占欲と嫉妬。

「ファビオ、そんな言い方しないで。」
「気に障ったならあやまるよ。でもまたロベルトにでも会いたいのかと思ってさ。」
「あなたと付き合い始めてから一度も二人きりで会ってないわ。もっとも彼はただの友達だけど。」
「友達?それにしてはずいぶん親しそうだったじゃないか。」
しばらく疎遠になっていた友人のことまで持ち出されて、カナはしらけた気持ちになった。

「ファビオ、子供じみた根拠のない嫉妬はやめてくれる?
あまりに信用されてなくて悲しくなるわ。」
「君が否定するならそれでいいよ。
でもそれならなおのこと、一人でここに残ったりしないで僕と夏を過ごしてくれ。
だって僕のこと愛してるだろう?」

「それはそうだけれど…」
愛しているという言葉が、空から降ってくる網のようにカナを捕らえる。

「ファビオ、私あとから行くわ。それでしばらく一緒に過ごしましょう。そうね、二週間くらい。」
「たった二週間だって?
じゃあとの一ヶ月、いや五週間だ、その間君は本当に一人でここにいるっていうのかい?」
「そうよ、それがなぜいけないのかわからないわ。」

僕こそ君の気持ちがわからないと、いらだつファビオの目は語っている。
そう、彼にはカナの気持ちはわからない。
隙間なくお互いを重ね合わせ、全てをむき出しにしようとするファビオの“愛”に、
カナがこれ以上縛り付けられたくないと思っていることがわからない。
ポケットまで裏返されるような彼の“愛”に、カナの体が、
空っぽな肉体をまとう一枚の衣服のようになってしまうことがわからない。

「君は僕が心配じゃないんだね。君がいない間に誰かに心を奪われるかもしれない。」
「ファビオ、私はあなたのこと信じてるわ。信じられないのはあなたのほうでしょう。」

「それは僕が本当に君を愛しているからだよ。
カナ、君は僕を愛している?」
「ええ」
「ええ、じゃない。ちゃんと僕を愛していると言ってくれ。」
あなたを愛していると、カナは言えなかった。

「Si(ええ)と言ったわ。もういいかげんにしてちょうだい。」
「君は僕を愛していない。いつも、私もよ、としか言わない。
この前愛していると言ってくれたのはいつの事だったっけ?」
「お願いよ、今日はもうやめましょう。またあとで、ね。
落ち着いてから、ゆっくり話しましょう。」

このまま語り続けても、愛という言葉は私たちの間でますます空疎なものになるだけだ、
もう少し時間が欲しいと、カナは思った。
ファビオとの間の、ほどよい距離を測るためにも。

だがファビオは同じようには思わなかった。
「ああ、バカンスが終わって、お互いにまだ一人だったらね。」
それは突然の二人の関係の終わりを告げる言葉だったが、カナは驚かなかった。
彼にその言葉を言わせたのは自分なのだ。

そのままファビオは出て行ってしまい、電話もよこさない。
カナも連絡を取るつもりはなかった。

急に風通しがよくなった心と体を、乾いた風が通り抜けていくのは爽快ですらある。
なつかしいのは、彼がかつて私を見たあの視線、
ファビオの熱い眼差しだけ…。

     ***   ***   ***

すでに6時を回ったというのに、陽はまだ高い。暗くなるまであと2時間はある。
研究室で少し時間を過ごしても明るいうちに帰れるだろう。

古びた、ひと気のない大学の建物に足を踏み入れると、なじみのない静寂がカナを取り囲んだ。
いつもは学生たちの話し声や、階段を駆け下りる足音などがこだましているホールは、
忘れ去れら、見捨てられた映画のセットのようだ。

高いアーチを描く天井はがらんとした空間を一層広く見せていて、
床の大理石のタイルは埃っぽく、長いあいだ誰もその上を歩いたことがないようだった。
空気もかび臭く感じられる。
休みに入ってたった数日のことなのに…

ホールの正面には、一度逃すとやって来るまで長く待たなければならない、骨董のようなエレベーターがある。
扉が開いていたので、カナは守衛に挨拶するのもそこそこに、エレベーターに駆け込んだ。

細い鋳鉄が唐草の模様を描く扉が、きしみながらゆっくりと閉まる。
乗り合わせたのは、見なれぬ男だった。
建築学部に9月から韓国人の教授が加わると聞いていたが、バカンスがてら早目にやって来たのだろうか。

しかしその男は予想していたよりはずっと若い。
ホワイトジーンズに黒のカットソー、
仕立ての良いチャコールグレーの麻のジャケットを羽織っている。
長身でバランスの取れた体つきと、Vネックからのぞく喉ぼとけをカナはすばやく見て取った。
甘さの影にクールさが漂う顔立ちに、髪と同じ色の茶のフレームのメガネが、知的な温かさを添えている…

そこまで観察したところで、カナは急に居心地の悪さを覚えた。
男の視線が同じように、いやもっとあからさまに自分に注がれていることに気づいたからだ。
あわてて目をそらす。
だが男は相変わらずカナを見つめ続け、ふっと唇の端に笑みを浮かべた。

その笑みに誘われて視線を戻すと、男の目に輝きが増した。
女を引き寄せ、さぐり、眼差しですら抱こうとするイタリアの男たちのように。

しかし男は唐突に視線をはずした。
さりげなく、ではない。わざとらしく、である。
一瞬カナを襲った強い波動は消え、揺さぶられた気持ちが行き場を失って中空にぶらさがる。

カナは挑発されたと感じた。少し傷ついてもいた。
そのためもあって、いつもより大胆に男の横顔を見つめる。
うっすらと浮かぶ髭のそりあと、唇に張り付いた微笑、すっと通った鼻梁から続く眉。
その下の瞳を覗こうとするが、男はそ知らぬふりをしている。

エレベーターが3階に停まり、ドアが開いた。
男の指が伸びて、ドアを開けるボタンを押してくれている。
カナは短く切りそろえた爪の先と長い指を見つめ、静脈の浮かぶ手の甲、メタルの腕時計がのぞく袖口、
腕、肩と視線を這わせ、シャープでなめらかなあごの線にしばし見とれた。
そのまま視線を上に移動させると、興味深げにカナを見ている男の目とぶつかった。
男がボタンから指を離しドアが閉まったとき、ようやくカナは自分が3階で降りそびれたことに気づいた。

しまったと思ったがおそかった。何か言いたかったが、言葉がみつからない。
エレベーターが4階に停まり、ドアが開き、また男の指がボタンに伸びるまで、
カナも男も押し黙ったままでいた。

「僕は建築学部のジャヌです。」 いきなり男が名乗った。
その声音が思ったより柔らかいのでカナは驚き、視線の強さにそぐわない気がして少し戸惑う。
「わたしは・・・」 
返事をさえぎりいきなり男が言った。「カナ…いい響きだ。」 

戸惑いが警戒心に変る。
「どうして…」
「3階に日本人の研究生がいると聞いていました。」
「なぜ名前まで?」
「たまたま教えてくれる人がいて。」 男はたいしたことではないだろうという顔つきで続ける。

「降りませんか?」
「私は3階ですから。」
「実は頼みがあるんです。5分ですみますからこちらへ。」

男に軽く腕を取られ、カナは廊下に一歩足を踏み出した。

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