ヘイトスピーチ判決をめぐって 『ネットと愛国』他 1/2

posted in: 読書NOTE | 0 | 2013/10/24

ネットと愛国 — 在特会の「闇」を追いかけて
安田浩一 講談社 2012.4(2013.6 第8刷)

ヘイトスピーチと「傷つきやすさ」の社会学
SYNODOS 塩原良和 / 社会学

京都の朝鮮学校に対する在特会の街宣に対して、
民族差別(によるヘイトスピーチ)であり不法行為だ、という判決が出た。
当たり前の内容の判決ながら、安堵もした。

ヘイトスピーチが私たちから奪うもの

ヘイトスピーチが規制されずに許容されることは、標的になったマイノリティだけではなく社会全体へと害悪を及ぼす。加害者側はそもそも、被害者側と討論したり対話したりするためにヘイトスピーチを発するわけではない。ヘイトスピーチに目的があるとすれば、それは他者の社会的承認の否定、すなわち相手を物理的・社会的に沈黙させ、排除することである。それゆえヘイトスピーチの標的にされた人々が、自分を傷つけるためだけに発せられる言葉に言論をもって対抗することは難しい(Delgado 1993: 90-96)。その結果、ヘイトスピーチが社会に蔓延すればするほどマイノリティの人々は沈黙させられる。それは、その社会で自由に主張される言論の総量が減少していくことを意味する。
(ヘイトスピーチと「傷つきやすさ」の社会学)

判決に安堵したのは、万が一にもヘイトスピーチが許容されるようであれば、
今後、「自由に主張される言論の総量が減少していく」というからだけではない。
すでに、ここまで「ネトウヨ」とヘイトスピーチが「市民権」を得てしまった、
今の日本の現実があるからだ。

実は昨年、身近な友人が「ネトウヨ」のターゲットになった。
彼女は在日でも外国人でもない。
どこにでもいる社会科の教師で、日教組でもない。
ある日授業で、民族差別の例として在日韓国人の問題に触れた。
これまで何年も同じ内容で行ってきたものだし、
他の教師も同様の教材を使って同様の授業を行ってきた。
どこの学校でも似たようなものだろう。

ところがこの後、偏った内容の授業が行われていると、
2ちゃんねるに批判のスレッドがたった。
学校名と連絡先をあげて拡散と抗議を促し、
利用した教材をスキャンした画像まで添付されていた。

抗議がどれくらいあったのか詳しくは聞かなかったが、
メールとファックスに加え、電話での抗議もかなりあったようだ。
彼女は、匿名のままネットを利用して攻撃してきた発信者に対して、
強い怒りを覚えていた。
異論があるなら直接言え、ということだ。
もしこれが父兄の仕業であるなら、なおさらである。
同時に、事を荒立てたくない校長や教育委員会の軟弱な応対にも、
情けなさと悔しさを超えて、怒りを感じていた。

けれどもその彼女も、このことをオープンな場で語ってはくれるな、
ネット上で反論など決してしてくれるな、と言うのだ。
もしもことが大きくなり、街宣車にでも押しかけられたら困るから、
というのがその理由だ。
学校や教育委員会の軟弱姿勢もこれだろう。
(ここに書くのは、もう時効だろうと思うし、
後述するように、今は彼女に被害が及ばない状況なので。)

幸い抗議は収束し、事件にはならなかった。
学校も教育委員会も、「ネトウヨ」からの抗議に、
彼女の責を問うことは一切なかったという。
ただの言いがかりに過ぎないのだから、当然のことだ。
だが、彼女の一年契約の更新は、今年の春、打ち切られた。
年齢によるものか、単に人員調整のためだろうが、
このタイミングでの更新の打ち切りは、残念だった。
彼女が受けた傷に対する配慮だけではなく、
教育が受けた傷に対して、つまり、
「その社会(=学校)で自由に主張される言論の総量の減少」においても、
配慮が欠けていたように思えるからだ。
2ちゃんねるに発信した生徒あるいはその家族は、
彼女の退職を自分たちの勝利と捉えるだろう。
「行動する」在特会のヘイトスピーチや「京都事件」は、
すでにこのような形で、「自由に主張される言論の総量」を
低下させていたのだ。

ヘイトスピーチの「闇」を支える根深いフォビア(嫌悪・忌避)

この時「ネトウヨ」のコメントを読んで、
何ともいえないうそ寒さを感じた。
彼ら彼女らは、日教組や在日をわかりやすい「敵」として、
アイコン化している。
問題は、そのことを当の本人が全く自覚しておらず、
理解もしていない、ということだ。
日教組が子供を洗脳し、在日が日本を乗っ取ろうとしていると、
おそらく本当に信じているだろうことに、言葉を失った。
新興宗教の狂信的な信者を前にしたような無力感を覚えた。
彼らにはどんな反論も無駄だと、言う前からわかったのだ。

いや、宗教の信者よりたちが悪い。
なぜなら、彼らが選んだアイコンに異を唱えない、広範で根深い、
社会的な(在日/韓国/朝鮮/中国に対する)フォビアがあるからだ。
彼らは、いじめっ子が的確にいじめの対象を選ぶように、
意識的、あるいは無意識のうちに、的確なアイコンを選んでいる。

というようなことがあり、
従軍慰安婦問題であれこれ考えさせられることがあり、
やっと『ネットと愛国』を読んだ。

読み終わって、すとんと腑に落ちるものがあった。
在特会に引き寄せられる人たちの「闇」は、
個別特別のものではない、ということを再確認したこと。
「闇」は、単発的に目に入る目の前の路上やネット上だけでなく、
社会の中に、日常の自分の隣に、さらに言えば、
自分の中にもある、ということだ。
これは差別を考えるとき、絶えず立ち返るべき場所だ。

がしかし、広く深いフォビアからくる目の前にある言動を、
何とかすることは可能だろうか。

新大久保などのヘイトスピーチデモに、仲良くしよう、
というプラカードを持って歩道に立つ人たちや、
「レイシストをしばき隊」という、実力行使をする人たちが現れた。
何とかしなければいけないと思う気持ちが(実力行使の是非はあれ)、
行動に出るほどの厚みを持って存在していることにも、心底安堵を覚える。

『ネットと愛国』も発行から一年で8刷。
これも同様嬉しい数字である。
「京都事件」で判決が出たこのタイミングで、
もっともっと読まれるといいと思う。
単なるドキュメンタリーではない、
厚みのあるノンフィクションになっている。
反感や嫌悪を脇に置き、対象に踏み込んでいくアプローチの底に、共感がある。
そこから目をそらさない姿勢が、この本の一番素晴らしい点だろう。
安田さんが取材した在特会のメンバーの中にも、 

彼の書いたものを肯定する人たちがいるという。

だが、冒頭で引用した塩原氏も言うように、
そして私がネットの言説を読んで感じたように、
彼らの広範な部分との討論や対話、
つまり理屈による説得は難しいだろうとも思う。

『ネットと愛国』で、安田さんは、
ヘイトスピーチをすることにより承認欲求が満たされるのだ、
という動機?(のひとつ)を導き出した。
もう一つ、ヘイトスピーチはまず身体的な快感なのだということ。
承認欲求にも通じるけれど、
おそらく彼らが一番捨てがたいのは、この「快感」ではないか。

マジョリティーなのにマイノリティーと感じる「反動としての反感」

『ネットと愛国』を読んで強く印象に残ったのは、
在特会が、自分たちは差別をしているのではなく、
「在日」によって差別されているのだ、と主張していることだ。
少し前、従軍慰安婦問題で過去と現在と切り分けられない人たちについて、
被害妄想に近い、と書いた。
「慰安婦はウソ」と言い放つ彼女と、在特会の彼らが重なった。
彼らが、誰にかはさておき、それが被害妄想であろうと、
差別されていると感じているのは確かなのだ。
実際には差別する側に立つマジョリティーであるのに、
自らをマイノリティーと感じる錯誤がどこから来るのか。
以下も、『ヘイトスピーチと「傷つきやすさ」の社会学』から。

マイノリティと「勘違いの共感」をしているマジョリティは「自分たちもマイノリティと同じように『傷つきやすさ』を抱えているのに、どうしてマイノリティの『傷つきやすさ』だけが特別扱いされ、優先的に保護されなければならないのか」と反感を抱きがちである。マジョリティ自身が抱える「傷つきやすさ」が深刻であればあるほど、「特別扱い」に対する反感も大きい。こうして「マイノリティは『弱者』であることを武器にしている」 「教師や役人は、マイノリティを 『えこひいき』している」といった主張が受け入れられていく。そこでは「同じように痛みを抱えているからこそ、わかりあえる」のではなく「同じように痛みを抱えている(と勘違いする)からこそ、反感を抱く」関係が生じてしまうのだ。

『ネットと愛国』で紹介されている在特会のメンバーは、
誰もが下品で子供じみた、攻撃的なヘイトスピーチをしながらも、
壇上から降り、マイクをオフにしてみると、
ごくごく普通の、礼儀正しい、温和な若者だった。
きっと生真面目な人たちなんだろうなあ、と思ったが、
もう一つの気付いたのは、彼らの多くが、
在日韓国人と身近に接しているということだった。
「傷つきやすさ」をかかえ、なんとか己の傷をやり過ごそうとするとき、
対比しやすい対象としてのマイノリティーの「傷つきやすさ」が、
目の前に横たわっている、そういう位置にいるのだ。
引用を続ける。

グローバル化、個人化社会(バウマン2008)、リスク社会(ベック1998)などと呼ばれる後期近代の社会変動は、特定の人々だけではなく社会全体における「傷つきやすさ」の総量を高める。なぜなら、人々の自分自身の人生に対する自己決定可能性が急激な社会変動のなかで縮小していくにつれて、より多くの人々が自分自身のなかに、自分ではどうすることもできない「傷つきやすさ」を見出すようになるからである。「傷つきやすさ」が飽和している社会においては、マイノリティに対する優遇措置はマジョリティ側の相対的剥奪感を強化しがちである(ヤング2008: 247-279)。こうして自覚的なレイシストではない大多数のマジョリティのあいだでさえ、「マイノリティは特権/利権を享受している」「差別されているのはわれわれマジョリティのほうである」という主張が、実際にはほとんど根拠がないにも関わらず、心情的に許容される可能性が高まっていく。

この国だけのことではない、というのは頷ける。
欧米の移民排斥やイスラムフォビアも同根ということだ。
では私たちは、世界共通のわが身の「傷つきやすさ」とどう付き合い、
それを生み出す後期近代社会の問題や、根深いフォビアと、
どう向き合っていけばいいのだろう。

以下つづく。
後半は、ヘイトスピーチ裁判が触れなかったもの、
そして、日本ではまだ共通認識に至っていないレイシズムの側面、
韓流ブームについて、などなど。

(→ ヘイトスピーチ判決をめぐって 『ネットと愛国』他 2/2

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