声 vol.3

posted in: | 0 | 2009/3/27

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ドンファが電話をしてくることはなかった。
私もしなかった。

仕事にはすぐに慣れ、派遣会社に登録している他の女たちとも顔を合わせた。
一度、懇親会と称して十名ほどで飲み会があった。
皆似たような経歴で、あちこちで同じような仕事をしていたから、
自然と話もはずんだ。

そうして数ヶ月が過ぎ、
ときどき私は、会社で厳禁されていた残業をするようになっていた。
特に金曜の夜は、
マンションの隣の部屋から聞こえる女子大生の声を聞くのがいやで、
クリニックの仕事が終った後に会社に戻り、
残りのデータ入力を片付けたり、何もせずにぼんやりと過ごしたりした。

事務所ではいつも一人だったので、
そこは居心地のよい、私の場所になっていた。
FMラジオも消し、暗いフロアスタンドだけをつけて、
壁際の来客用のソファーに、
まるで傷ついた小さな動物がうずくまるようにじっとしている。

ある木曜日の夜、ソファーに座っていると、
壁越しにかすかにその声が聞こえた。
隣室からはときどき人の動き回る物音や、くぐもった話し声が漏れてきていたが
私の耳には、それらは窓の外で響く車の音と同じ雑音に過ぎなかった。
けれどもその声は、低く小さな声なのに、まっすぐ私の体の奥まで届いた。

隣は喜多がプライベートで借りていると、以前聞いたことがあった。
声は確かに彼女のものだ。
喜多に愛人がいて、そこを密会の場所に使ったからといって、
私がとやかく言うべきことではない。

そんなふうに思いながら、
何故私は、すぐにそこから立ち去らなかったのだろう。
マンションの女子大生の喘ぎ声にはうんざりしていたのに、
何故私は一層耳を壁に押し付けて、
喜多の声に聞き入ってしまったのだろう。

声は続いていた。
弱々しく、許しを請うようにすすり泣いたかと思うと、
扇情的に、そそのかすように歌った。

知らぬまに、私のからだはその声に同調していた。
私はソファーに横たわり、下着をおろし、
指でクリトリスをなで、別の指を挿しいれた。

ドンファの舌、これは彼の舌…
声は私、ドンファの愛撫にこらえきれずに溢れ出る私の声…

声が、耐え切れない緊張を孕んでたわみ、
私たちは一緒に上り詰めた…

声はけだるい余韻を帯び、壁を這い、
殺風景な事務所の部屋を覆い、長く漂った。

隣室のドアが開く気配がしたので、
私は事務所のドアをそっとあけ、ビルの廊下をうかがった。

喜多の部屋から出てきた男と女は、
エレベーターの前で立ち止まり、横顔を見せている。
男はサラリーマンのようなスーツ姿だ。
だが女は喜多ではなかった。
私が勤めるクリニックの、長島院長だった。

その男が、火曜日に患者として病院にやってきた。
さりげなくカルテを覗くと、既に何行も書き込みがあった。

 
翌週の木曜日も、ほぼ同じ時間にまた喜多の声を聞いた。
この前と同じように私の体は反応したが、
ドンファを欲しいという思いはさらに強く、
もう指だけでは我慢できないほどだった。

終ったあと廊下を覗くと、やはり院長とあの患者がエレベータの前にいた。
心なしか院長の頬は上気し、患者の顔も満足そうに輝いていた。

院長と患者に関係があっても不思議ではない。
そこに喜多がからんで、三人で楽しんでいるということも考えられなくはない。
けれどもカルテには、たしかインポテンツと読める文字があった。

翌日、戸締りを確認する振りをして資料室に入り、
あの患者のカルテを取り出した。
折り曲げないように大事にフォルダにはさみ、バッグに潜ませる。
月曜日に早めに来て元に戻せば、誰にも知られることはないだろう。

“私の”事務所に戻り、カルテを取り出す。
カルテには彼らが何をしていたのかが書かれていた。
長島クリニックの臨床・治験の実態を、私は知った。

患者のエレクションは完全な状態に近づきつつある、
おそらく次回、治療は完遂されるだろうと、そこには記されてあった。
次の予約は翌週の金曜日だった。

あと一度で終るのかと、私は寂しかった。
けれども、同時にほっとしてもいた。
喜多の声を聞きづつけることに、これ以上耐えられる自信がなかった。
自分がどうにかなってしまいそうで、恐ろしかった。

二度目に喜多の声を聞いたあと、募った欲望をどう処理してよいかわからず、
私は繁華街をさまよい歩いた。
男なら誰でもいい、声を掛けられたら付いていこうと思いつめて。
だが実際には、どの男にもまったくそそられなかった。

 
治療があるはずの次の金曜日の夕方、
勇気を振り絞ってドンファに電話をかけた。

『ああ、君か…』 
沈んだ声に、私はすぐに電話したことを後悔した。
『ごめんなさい、忙しいときに』 
『どうかした?』 何か用かと、問われないだけましなのだろうか。

『何でもないんです。ただちょっと…』 
『そう、じゃあまた… またゆっくり電話する…』 
ドンファはどこまでもそっけなかった。

一度も電話なんてくれなかったくせに。
どの女にだって、自分から電話なんてしないくせに…
惨めで、寂しくて、やりきれなかった。

コンビニで弁当とワインとを買って“私の”事務所に帰る。
三度目の喜多の声を、一人でしらふで聞く気にはなれなかったが、
かといって、聞かずにいられるはずもないのだ。

弁当を食べ、ワインを飲む。
酒で恐れと期待の両方を、麻痺させてしまいたかった。

突然、ポケットの中の携帯電話が振動した。
ドンファだった。
『さっきはごめん。会議中だったんだ』
まっすぐな声だった。

電話をくれた、電話をくれた、
初めてだ、ドンファが女に電話をかけた、
それが私…
酔った私はそんなことで有頂天になり、大声で笑いたくなった。

『何してる?』
『一人でワイン飲んでる』
『僕を誘いたかった?僕に会いたい?』
うんうんと、私は子供のようにうなずく。

『会議、終った?』 私の声は、甘えた鼻声になっている。
『まだなんだ。今ちょっと抜け出してきた。もうすぐ終りそうだけど。
家に帰ってるの?』
私が事務所にいると説明すると、

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