ラ・マスケラ -仮面- <第五章> iii

posted in: ラ・マスケラ -仮面- | 0 | 2009/3/25

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<第五章>  ”ラストシーン 

 

      iii

ヴェネツィアのレストランで、雑誌の撮影が行われている。
皿にのっているのはモエケの素揚げだ。
バルサミコ酢のチョコレート色とオリーブオイルの薄いグリーンが、
添えられた野菜とモエケの周りを囲んでいる。
何回かフラッシュが光るのを、鋭い眼差しでシェフがみつめている。

すこし離れて、そのすべてを見渡している女がいる。ミーナだ。
彼女のポケットで電話が鳴る。
その場を離れ、話し始めるミーナ。

「ええ、こっちは順調に終りそうよ」
ミーナの視線が部屋の奥に動く。
そこからどよめきがあがる。撮影が終了したようだ。

太鼓腹のシェフが満足そうに笑っている。
新しいモエケの皿とプロセッコが運び込まれている。
皆がテーブルにつき、そのうちの一人が「ミーナ、乾杯するよ」 と呼ぶ。

ミーナは奥に向かって手を振り、受話器に向かって言う。
「だめよ、明日だけはだめ。悪いけど他の人をあたってちょうだい。
だってカーニバルの初日なのよ。

日本人には関係ないだろうって? 冗談じゃないわ。
この日に仕事を入れるイタリア人がいることこそ、信じられない」

しばらくまた受話器を持って話を聞くミーナ。
やがてうんざりしたように口を開く。

「フランコ、あなた何年私とつきあってるの。
ええ、そう、9年よ。
でもね、9年だろうが90年だろうが、私にとっては同じ。
わかってるでしょう? カーニバルの初日は特別の日なの。

そうよ、ディーのため。
一年に一日だけ彼を思い出す日、
それは私が死ぬまで、変わらないわ……。

ミーナは細い小路の玄関を入り、
運河に面した中庭から階段を登って館に入る。
寝室のクローゼットから、ワインレッドのドレスを取り出し、着替える。
そして仮面をつける。

舞踏会で、貴族の衣装の若者とミーナが踊っている。
誘うような若者の眼差しに、ミーナは曖昧な微笑で答える。
戸口から、仮装したフランコが入ってくる。
ミーナの様子を遠くから眺めている。

ミーナはバルコニーに出て、一人運河を眺める。
じっと、運河の水に見入る。
フランコはバルコニーに出る戸口の影で、ミーナを見つめたまま、
グラスのワインを飲み干す。

カプリのルイジの館でも、仮面舞踏会が催されている。
テーブルの真ん中にルイジ。
彼の隣には、仮装したアンジェラがいる。

彼が促すと、アンジェラが貴族の姿の若者と踊り始める。
仮面のために、アンジェラの大きな丸い瞳や、
人懐こい厚いくちびるは隠されている。
長い黒髪を高く、美しく結い上げている。

夜明け前、ひと気の無い水辺にリムジンが停まる。
後部座席のドアが開き、白い息を吐きながらディーが出てくる。
河からは薄もやが立ち上り、水面を覆っている。

ディーはワインのボトルとグラスをふたつぶら下げている。
河に向かっておかれたベンチに座り、ワインの栓を抜く。
傍らの二つのグラスにワインをそそぎ、
ひとつをとりあげ、カチリと、ベンチに置いたままのグラスに合わせる。
河を眺めながら、すこしづつ、ワインを飲む。

グラスが空になると、ベンチのグラスのワインを、河に注ぐ。
また二つのグラスにワインを満たす。
そのグラスも飲み干すと、もうひとつのグラスのワインを、やはり河に注ぐ。
ボトルが空になるまでそれを繰り返す。

河の上のうっすらとした靄が朝日に揺れるのを、ディーはじっと見ている。

場面は9年前の、ダンドロの館の運河に面した中庭だ。

玄関のポールにボートがつながれている。
中庭の壁に取り付けられた暗い照明が、二階に登る階段を照らしている。
運河の水が揺れて光るのは、対岸の広場の街灯を映しているからだ。
だがそれも水面を覆い始める霧に、ぼやけていく。

ボートの中に入って行く姿がある。
その姿は、対岸の灯火にも、壁の照明にも照らし出されることはない。

しばらくボートの中で、懐中電灯のような、丸い光が動いている。
やがてその光が消え、ボートの中から人影が現れる。

そのとき運河に、水上タクシーが入ってくる。
すばやくボートの陰に隠れる人影。
だが一瞬だけ、水上タクシーのライトがその姿を浮かび上がらせる。

人影は黒ずくめの、頭からつま先まで全身を覆う衣装をつけ、
男なのか、女なのかも定かではない。
顔には、死神の仮面をつけている……。

END

拍手が湧き起こった。
仮面舞踏会で演奏されていた音楽をバックに、
エンディングロールが映し出されている。
音楽が終わり、会場の照明がともされるまで、拍手は鳴り止まなかった。

試写会が上映された同じビルの一室で、
パーティーが開かれることになっている。
キム・ドクドの初めての出資で、
しかもプロデューサーを勤めた記念すべき第一作ということもあり、
パーティーはかなり規模の大きいものになるはずだ。

だがそのパーティーの前に記者会見を終らせなければならない。
内外のマスコミが詰めかけている。
いかにディーがプロモーションに力を注いだかがうかがえる数の多さだ。

ジンの初めてのラブ・ロマンスであるという点や、
ヒロイン役が日本の女優で、
しかもスキャンダルやブランクのために注目を浴びている点でも、
マスコミの興味を引いていることは確かだった。

正面の席中央にはユキとジンが座り、
ユキの隣にはディーが、ジンの隣にはナミがついた。

「パク・ナムジンさん」 とまずジンが指名される。

「初めてのラブ・ロマンスは難しかったですか?
演ずるのと、撮るのと、どちらが難しかったですか?
大胆なラブ・シーンが得意だとお見受けしましたが、
その点についても少しお聞かせください」

「特別にラブ・ロマンスを意識したわけではありません。
たまたますばらしい原作に出会った。
演じるのも撮るのもたやすくはありませんでした。

ただ、今の僕にしか出来ない男を演じられたのは、
良かったと思っています。

ラブ・シーンは苦手です。
特に大胆に撮るつもりもなく、
撮影現場での自然な気持ちが現れたまでです。
もし得意そうに見えるのなら、それはユキさんのおかげでしょう。」

会場に、笑いが巻き起こった。

「ではユキさん」 と日本人記者が立ち上がる。
「長く映画から離れていたブランクを感じさせない演技でしたが、
相当準備をされたんですか」

「いえ、本当に思いがけないことでした。
自分がもう一度カメラの前に立つなど、
監督からお話があるまで考えたこともなかったんです」

続けて別の日本人記者が、
「幻に終わった前作とからめて……」 と切り出した。

「前作と同じように奔放な部分のある女性を演じたわけですが、
前作では降板となり、この作品では見事なヒロイン像を作り上げた、
その違いはなんでしょうか?」

「それは……」 とユキがジンを見た。
予想された質問だったから、ユキも答えを用意しているはずだ。
励ますようにジンは微笑む。

「あの頃の私から、少しだけ成長したのだと思います。
固まっている自分のイメージを壊し、
新たに作り上げる作業が当時は出来ませんでした。
でも今回は挑戦したいと、心の底から思いました」

「あなたは前作のとき、相手役の俳優とスキャンダルとなりましたが、
その後も交際は続いていたのでしょうか?

パク・ナムジン氏もいつも相手役の女優との交際が取りざたされるので、
きっと今回もそうなるのではないかと彼のファンは心配しています。
そのあたりはいかがでしょうか?
また彼のどんなところを魅力的だと思いますか?」

韓国の、いつも少し意地悪な質問をする女性記者だった。

「前作の相手役の方には、
変な噂がたってしまい申し訳なかったと思っています。
もちろん誤解されるような事実はその時もそれ以後もなかったのですが。

でも撮影中は、どうしても役にのめり込んでしまいます。
それで誤解されたのだと……」

「では何故、あなたは前作の降板を機に女優を休業してしまったんですか?」

ユキの前作の話が取り上げられるのは止むを得ないことだ。
ジンの相手役に韓国の女優が選ばれなかったことへの、 やっかみもあるだろう。
だがあまり行き過ぎるようだったら、どこかでブレーキをかけなければならない。

ジンはその女性記者の上気した顔を見つめながら、ユキの様子をうかがった。
隣ではナミが心を痛めているのもわかる。

「あ、すみません。監督の魅力について申し上げるのを忘れていました。
だからといって俳優パク・ナムジン氏に魅力がないなんて、
どなたも思いませんよね」

ユキの余裕のある切り返しに、会場の緊張が幾分和らいだ。

「言わずもがなのことです。
本当にナムジン氏は素敵な、やさしい、包容力のある方で、
どんな女性でも、間違いなく出会ったそのときから恋に落ちるのではないでしょうか。
もちろん私もです。

でも監督は映画の鬼です。
つまり現実には無理でしたが、
映画を撮っている間だけは本当に素敵な恋人になってくれました。
それがあまりに激しくて、私、映画の中で燃え尽きてしまいました」

会場にどよめきが生まれた。
ストレートな言い方が、共感を勝ち取ったようだ。

「皆さん、パク・ナムジン監督主演作品の記者会見だということを、
思い出していただけたでしょうか?」
ジンの言葉に笑いが生まれる。
それ以上は女性記者も追及しなかった。

続いてマスコミ嫌いで通っているディーに質問が集中した。
おおっぴらにキム・ドクドに取材できる機会は、そうあることではないからだ。

映画に出資するのは純粋にビジネスのためか、
なぜ今回はプロデュースまで行ったのか、
これからもプロデューサーとしてやっていくのか、
次のビジネスの展開はどうなのか、などなど、立て続けに質問者が立った。

それらの全てに、ディーはよどみなく答えていたが、
質問が原作に及んだとき、少し声の調子が落ちた。
この原作を第一作目に選んだ理由と、
どうしてこの原作と出会ったのかという問いだった。

もちろん映画の登場人物たちの名前は変えてあるので、
主人公がディーとナミだとは誰にもわからないはずだ。

「たまたま僕の友人がこの原作を持っていたのです。
彼の恋人が書いたとのことでした。一読して気に入りました。
僕自身ヴェネツィアが好きでしたし、実はそこで美しい女性との出会いもあった。
その恋は現実には叶いませんでしたが、映画のなかで叶えてあげたかった」

「でも映画の中の恋も叶いませんでしたね」 ある記者が言った。

「そうでしょうか?
一見叶わなかった恋ですが、登場人物全員の心に、ずっと物語が残っている。
しかも映画という果実も与えてくれた。
監督が叶えてくれたと、僕は思っています」

その言葉に、思わずジンはディーを見た。
ユキの肩越しにディーの瞳が笑っている。
ナミが、腕組みをしてうつむいた。
記者たちがいなければ、小さな笑い声を上げていたに違いない。

穏やかな声で、ディーは続けた。
「原作を監督に預けたとき、僕には物語がどう展開するのかわからなかった。
でもその結果には、とても満足しています。
それにはシナリオを書いてくれたナミ・シマムラさんの力も大きいが……」

ディーがシナリオに触れたので、
記者たちはようやくナミに気づいたような顔になった。
有名な作家というのならともかく、
無名な脚本家がなぜこの席に座っているのかと、
ほとんどの記者は思っていたようだった。

だが一人が、「ではその原作者は誰なのですか?」 と問い、
ナミが「私です」 と答えると、
一斉に記者たちの目が輝きだした。
ここに話の種がころがっていると、彼らの嗅覚が働くのだろう。

「これは実話ですか?
実際にキム・ドクド氏の友人とあなたの間に起こったことなのですか?」

「いいえ、違います」 ナミは落ち着いた声で一度否定したあと、
「でもモデルとなった人たちはいますし、
私にインスピレーションを与えてくれたたくさんの出来事がありました」と続けた。

一人の記者が、4人全員にと質問に立った。
「最後のシーンで仮面をかぶっていたのは誰だと思いますか?
これを答えるのはルール違反というのはなしにしてください。
個人的には誰だと思うかということです」

まずディーが、「誰でも有り得るとしか言いようがないな」 と答えた。
「つまり、仮面舞踏会の帰りの通りすがりの酔っ払いが、
ほんの軽い気持ちでいたずらをしたのかもしれない、ということです」
ジンがそう付け加えると、記者が苦笑した。

「私はルイジだと思います」 きっぱりとユキが言った。
「仮装のまま舞踏会から帰ってきて一旦は家に入った。
でも忘れ物に気づいてボートに戻ったんじゃないでしょうか」

笑いがさざなみのように広がり、
それを制するように記者がナミの答えをうながした。

「最初、私はミーナにしようと思っていました」
ナミの言葉に会場のどよめきが静まった。

「彼女はルイジの仮面に、強く結び付けれていました。
素晴らしい仮面が作り出される場に立ち会う使命感と、喜びと……
ディーと出発するためにはそれを捨てなければならない。
ディーを選びながらも、心の底には未練や迷いがあったと思います。
それを断ち切るために、決定的な出来事を求めたとしても不思議ではありません」

「でも考えを変えられた……」
「ええ、このラストシーンについては監督とかなり話し合いました……」

記者たちの視線がジンに集まった。
「実際の記事では、ラストについてはなるべくぼかしていただけますよね」
と断ってからジンは続けた。

「僕も基本的にはドクド氏と同じ意見です。
ただもしかしたらルイジの事故は、
絡まりあった様々な想念が引き起こしたのかもしれないとも思っています。

いずれにしろ、人生においては明らかにならない、
ずっと霧に覆われたままの事柄はたくさんあるのはないかと。
だからこのこともそのように捉えたいと思ったのです」

続いてナミの経歴や、なぜヴェネツィアに住むのか、
日本には帰国しないのか、家族は、などとプライベートなことを聞かれたが、
ナミはその手の質問にはおおまかにしか答えない。

必要以上に己を曝すのはいやなのだ。
次第に記者にもそのことわかり、質問はまたジンやユキに集まりだした。
ナミはほっとしたような表情をしている。

そのとき、部屋の片隅のスタッフが合図を送ってきた。
コピー用紙のような紙の束をひとかかえ持っている。
司会が気づいてその用紙を受け取ると、会場の記者たちに配り始めた。

前の席に座るジンたちにも用紙が回されてきた。
何事かと用紙に目を落とす。
文章はまずイタリア語で、それから英語で書かれている。

いきなり、椅子が後ろに大きな音を立てて倒れた。
用紙を握りしめたナミが、立ち上がっていた。

「ナミさん!?」
ジンは様子がおかしいとナミを見上げる。

用紙の、英語の最初の一行を読む。

『ナミへ。映画の完成おめでとう。
これはルイジ・ダンドロからの君への祝福の言葉だ……』

文章を読み終えた欧米の記者が、二人、三人と席を立っていく。
その後姿を呆然とした表情のナミが見詰めている。

 

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