ヘイトスピーチ判決についての 投稿(10/25日)で、
フランス女子中学生が不法滞在で強制送還された事件に対する、
ネット上の反応について触れた。
検索すると、2ちゃんねる系のスレッドやブログ記事がかなり多い。
マスコミではほとんど扱われていないニュースなので、
それだけ彼らの関心が高いということだろう。
私もあれこれ考えてしまったので、補足的に。
イタリアセリアAローマの主将トッティら選手は、
「すべての人に生きる権利がある#ランペドゥーザ」
と書かれたTシャツで試合に出場した
(Wall street Journal 10/08)
・15歳ロマの少女を学校行事中に拘束・送還、仏閣内に亀裂 (AFPBB News 10/17)
・ロマ少女の強制送還で論争=各地で高校生が抗議行動-仏
(時事ドットコム 10/19)
2ちゃんねるのスレッドは、22日の時点でレス(コメント)が800を超えていた。
この数が多いのか少ないのか、それとも平均的なのかは、よくわからない。
内容はほとんど同じなので、半分ほど眺めたところで中断。
目についたのは、不法滞在なんだから国外追放は当たり前、
法に則った行為に何故反対するのか理解できない、
いったいデモの高校生は何を訴えているかわからない、というもの。
この少女がロマであることからの差別発言や、
在日に結び付けてのあからさまなヘイト発言はさておき、
まるで順法精神の権化のような「理解できない」という声のうねりが、
時間がたってからもひたひたと迫ってきている。
彼らにはルール(法)がそれほどに絶対なのだろうか。
たとえルールが、人間の尊厳や生きる権利を踏みにじるものであっても。
彼らが「理解できる」ために欠けているのは人権意識だけではない。
まずは、ルールとは人間と社会を守るべく、
人間の手によって設けられたものに過ぎない、という認識である。
ルールを守ることは社会生活上必須のことだけれど、
ルールは、誤って適用される場合も、悪用されることもある。
過剰運用により、人間の尊厳や権利を侵犯する場合もあり得る。
あるいは、ルールは時代と共に社会にそぐわなくなるものでもある。
が、彼らは、これらの事をすっかり忘れているようだ。
実は、百レスくらい目に「自然権」が持ち出されていた。
人間が生まれながらに持つ権利として生存権や人権は法の上に置かれている、
強制送還への抗議はこの観点からなされており、
国際社会の紛争地に対する「人道的介入」も、
これがあるからできるのだ、と説いていた。
ただし、至極まっとうなこの意見は、多数の「順法」的「分からない」や、
移民排斥正当論の声に埋もれてしまっていた。
移民排斥論者は、人権なんてきれいごとだ、
移民に自分の仕事を取られるというのに、もしかしたら将来、
子だくさんの移民に国を乗っ取られるかもしれないのに、
移民をかばうやつの気がしれない、と声高に言う。
同じことを、欧米の台頭著しい移民排斥論者も叫んでいる。
けれどもヨーロッパには、一方に移民を受け入れる肌感覚のようなものもあって、
これがキリスト教的な倫理観と併せて、
理念としての人権感覚を支えているように思う。
ただしこの肌感覚は、単一民族(とされている)国家である、
閉鎖的な極東の島国ではほとんど感じられないし、
ゆえに、想像するのもなかなか難しいだろうと思う。
1999年、イタリアの地方都市に滞在していた時のこと。
多国籍な人々が集まって雑談していて、なぜか少子化の話題になった。
当時もイタリアと日本は、合計特殊出生率で世界最低を争っていた。
そこにいたのはヨーロッパ勢が何人か、確かアメリカ人が一人、
日本人は私一人であった。皆が何と答えたか忘れてしまったが、
イタリア人女性のコメントだけははっきりと覚えている。
「少子化など私は全く問題にしていない。
今いるイタリア人がいなくなっても、かまやしない。
別のイタリア人はいるだろうし、イタリアがなくなるわけじゃない」と、
あっけらかんと言い放ったのだ。
当時、トスカーナの丘の上の中世の街並みにも、
頻繁にコソボ空爆に向かうNATOの戦闘機の轟音が響き、
晴れ渡った初夏の空に、飛行機雲を残していた。
日影が涼しい、アパート前の広場で遊ぶ子供たちのなかに、
5-6歳の少年と10歳くらいの少女がいた。
何度もイタリア語で会話を交わしたすえ、あるとき彼女が、
siamo albanesi 私たちアルバニア人なんだよ、と言った。
母と一緒に暮らしているけれど、兄はまだ国に残っていて、
無事なのかどうかわからないと、心配そうだった。
テレビで南イタリアのアドリア海沿岸に漂着した、
アルバニア難民を満載した移民船の映像は見ていた。
けれどもその難民が、こんな田舎町に、
すでにこれほど溶け込んで暮らしているのが、驚きだった。
狭い城塞都市に暮らす住民たちは、幼い姉弟も地元の子供たちも、
分け隔てなく可愛がっていた。
ある子供の母親が、みんなー、おやつよー、と声をかけ、
アイスキャンディーを全員に振舞う。
そんな時、姉と弟も群がる子供たちとごくあたりまえに一緒くたになって、
声の主にかけよっていた。
知人のイタリア人女性のコメントには、
言外に移民排斥に対するメッセージが込められていた。
彼女は、イタリアに暮らす人は皆イタリア人、と言ったのだ。
この言葉は、戦争や内紛が地続きの地や海の先にあり、
それらの犠牲者が自分のすぐ目の前に助けを求めて立っている時、
人びとが、何の罪もない子供たちを、
ごく自然にコミュニティーに迎えているのを見るにつけ、
理念や倫理だけのきれいごとには聞こえなかった。
イタリアに関して言えば、かつては古代ローマ帝国において、
その後の中世から近世にかけても、
様々な地域からやってきた人たちが入り混じっているので、
人種的な偏見が比較的少ない。
また、国家統一が1800年代半ばということもあって、
イタリアという国民国家に対する帰属意識の薄さもある。
ゆえに、国境や人種のくくりよりなにより、
まず個人の尊厳や権利が重要であり、
次に家族やコミュニティーの平穏、最後に国家、となるのかもしれない。
そこには、困窮を抱えた目の前の人をコミュティーに受け入れていく、
懐の深さのようなものがあるように思うし、
それらの人の生存権が奪われることについては、
我がことのように感じるのではないだろうか。
フランスのことはあまり知らないけれど、
この女子中学生はすでに5年フランスで暮らし、
地域の学校に通っていた。
ということはコミュティーに受け入れらていたのだ。
目の前でクラスメイトが強制的に連行されていくのは、
他の生徒たちにも、自分たちの仲間の一人が不当な扱いを受けたと、
感じられたことだろう。
移民や難民受け入れは、言うまでもなく非常に難しい問題である。
今現在増えている難民をどうするのか、
受け入れ能力には限りがあるし、それこそ、きれいごとだけでは対応できない。
かつて労働力不足から受け入れた移民を、
経済の悪化により今度は排斥しようという国家論理の理不尽さと破綻もある。
移民二世・三世には、国籍は取得したものの、二重基準や人種・宗教差別から、
国に対しての不満や怒りも高まっている。
フランスの人口における移民の割合は、2012年で11%程度。
2010年で比較すると、フランス10.3%、ドイツ13.17%、
スイス22.53%、オーストラリアとカナダが21%台、日本1.71%など、
非常に興味深い数字が出てくる。
比較のために主要国と日本を選択しグラフ化してみた。
欧米諸国ではすでに4人に一人、あるいは5人に一人が移民である国があるし、
移民の割合は、全体でゆるやかに増加している。
人間はこれまで、気候変動や戦争・内紛による経済・政治変動などにより、
地球上を移動してきた。
長い歴史的スパンで見れば、日本人もまた、大陸からの移民の子孫である。
移民排斥だけで、世界が抱える問題は解決できないし、
今受け入れている地域も、何かの理由でいつ移民を送り出す側になるかもしれない。
第二次世界大戦の後、イタリアはアメリカへの移民輸出国であったし、
日本もまた、ブラジルに大量の移民を送り出した。
私の親戚にも、夫の親戚にも、ブラジルに渡った人や家族がいる。
2011年の震災と原発事故で、世界中から義援金が届けられた。
援助物資や人的支援もあった。
そんな中イタリアは、原発被災者の母と子に
長期滞在をプレゼントするプロジェクトを行った。
個人の寄付金から始まったものであるが、人数や期間に限りがあっても、
なかなか良い企画だと思った。
事故直後の被爆を少しでも防げるだけでなく、
心的ストレスからも離れていられる。
応募は殺到したと聞いている。
私たちもまた何かの理由で、国を出ていかなくてはいけない時が来るかもしれない。
福島の事故があの程度で済んだことに、感謝しなければいけないと思う。
もし大きな爆発(ということは6基の連鎖爆発)に至っていたら、
除染などと言っている場合ではなく、
かなりの地域が人が住めない土地になっていただろう
(ただし、地震と台風のこの国に福島のリスクは変わらず存在しているし、
たとえ稼働していなくても、燃料棒を大量に抱えた原子炉が、まだ50基もある)。
私たちは、なけなしの金をはたいて(円がまだ価値があれば)、
ブローカーから難民船のチケットを買うはめになっていたかもしれない。
その時世界が、日本のように冷たい国ばかりでないことは、
まことに救いではないだろうか。
あるいはまた、少子高齢化というこちら側の事情もあることだし、
そう遠くない将来、日本でも移民問題がクローズアップされるときがくるだろう。
日本人も、震災や災害被災地にはボランティアに駆けつけるし、
ハイチ地震支援の「We are the world」を購入した人もいたはずだ。
人権に対する理念も、日本的な人情という倫理感も、
目の前の困窮する人を受け入れていく包容力も、
あるいは、それが他人事ではないとする想像力も、充分あると思う。
イタリアの田舎町で、アイスキャンディーに群がっていた子供の中には、
私の5歳の息子も交じっていた。
美談でもきれいごとでもない、ごく自然な風景は、
その時になれば、きっと日本でも見られることだと思いたい。