山本太郎が天皇に手紙を手渡したことで騒がれているけれど、
どうしてこれが問題になるのかが分からない。
天皇に苗字がないように、天皇には手紙を手渡ししてはいけない、
というような超法規的規定でもあるのだろうか。
請願のルール違反だという指摘がある。
でも、これもよくわからない。
そもそもこの手紙が請願なのかどうか。本人が言うように、
福島の現実を知ってほしい、という内容だとしたら、請願ではない。
(それ以前に、政治権力を持たない人に対して、
請願ということが成り立つのだろうか ? )
ちょっとお行儀が悪かった、という意見がある。
これすら私にはよくわからない。
英エリザベス女王は国民からの手紙に丁寧に目を通し、
内容によっては(担当者を通してにしろ)返事を書き送っているという。
現ローマ法王フランチェスコⅠ世も気さくな方で、
受け取った手紙の主に自ら電話をかけて返事をしたりしている。
・「どなたですか?」「ローマ法王です」
法王からの電話に手紙を書いた青年はびっくり!!
国民や信徒が王や首長の地位にいる人に手紙を送ることに、
どんな咎があるというのか。
とすると山本太郎の犯した罪は、切手を貼ってポストに投函すべきところを、
公式のレセプションで、カメラの前で手渡した、ということか。
政治利用だ、という批判がある。これについては多くの人が、
オリンピック招致のスピーチに高円宮久子妃を担ぎ出したことや、
「主権回復の日」に強引に天皇を引っ張り出し、
「天皇陛下万歳」を唱えた安倍晋三のほうがよほど天皇を政治利用している、
と指摘している。
また、過去の園遊会で米長邦雄氏が天皇に、
「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」
と話しかけたことがあった。これに対し天皇は、
「強制ではないことが望ましい」と返した。
カメラの前で応答が行われた政治的発言として問題になったかと言うと、
これがまったくならなかった。
とするとこの山本太郎バッシングは何なのか ?
一つは、ことあるごとに山本太郎をたたきたい人たちがいる、
ということであろう。だからこの話しを聞いたとき、私は一瞬、
太郎さん敵にエサを投げちゃったかなあ、と思った。
がしかしここにあるのは、天皇に関して都合が悪いことは無視し、
利用できる場合は取り上げるという、政治利用の図でしかない。
宮台真司が Videonews.com で指摘しているのもまさにこれで、
原発再稼働につきすすむ政権に水を差すような言葉が天皇から出てきたら困る、
というものである(としたら、むしろスルーした方がいいわけだけれど)。
宮台さんは続けて、明治維新このかた(それを言うなら鎌倉幕府からも ?)、
日本の時の政権やアメリカも、ずっと天皇を政治利用してきたのだ、と説く。
・山本太郎議員の手紙問題・現政権に「天皇の政治利用」を批判する資格があるか
さっき引き合いに出したローマ法王も、
中世ヨーロッパでは権力を握る王権にとって大きな意味を持っていた。
神聖ローマ帝国皇帝は、ローマ法王の承認により戴冠してのち、
はじめて神聖ローマ帝国皇帝と名乗ることが出来た。
政治は絶えず、神聖や聖性や皇統などの正統性やお墨付きを必要とし、
民衆統治の求心力として利用してきたのだ。
私の周囲には、山本太郎バッシングに異を唱える人が多い。
中には、FBのカバー写真を、
I support 山本太郎 という文字入りに変えた人もいる。
右翼が襲撃声明を出したから守らなくては、というツイートも流れてきた。
このような支持者や擁護層がいることもまた、前代未聞のことではある。
内田樹の以下のツイートも、核心をついているように思う。
最終的に改憲運動がつまずくのはアメリカ政府が改憲に反対であることと、天皇陛下が護憲の立場をあきらかにすることによってでありましょう。安倍自民党にアメリカ政府と天皇制を同時に相手にできるだけの力量はありません。
自民党改憲案に抗して日本国憲法を守る最終ラインがホワイトハウスと天皇制であるとは・・・、なんだか複雑な気分ですね。
山本太郎議員が園遊会で天皇陛下に「直訴」したことが問題になっていますが、「天皇に直訴すればなんとかしてもらえるんじゃないか」という依存の感覚を一般市民が天皇制に対して持つようになったというのは、じつはものすごくひさしぶりのことなのであります。それに驚くべきでしょう。
誰も気づかないうちに天皇陛下の「政治的実力」は非政治的な行動を通じて蓄積されていったのです。今日本でいちばん信頼されている「公人」は間違いなく天皇陛下ですから。政治家と官僚の質があまりに劣化したために天皇陛下の「公正さ」が際立ってきている。
— 内田樹 (@levinassien) November 1, 2013
ちょうど先週の木曜日に、朝日新聞の論壇時評で高橋源一郎が、
美智子皇后の言葉の誠実さ、公正さ、民主性に触れていた。
・(論壇時評)皇后陛下のことば 自分と向き合って伝える (2013.10.31)
美智子妃は、「この1年、印象に残った出来事やご感想を」
という宮内記者会の質問に対して、「五日市憲法」について長長と語っている。
明治憲法の公布に先立ち、数十もの憲法草案が民間で生まれた。現憲法に通じる「人権の尊重」や言論、信教の自由を強く訴えた「五日市憲法」は、忘却の淵(ふち)に沈んで後(のち)、起草からおよそ90年たって土蔵の中から発見された。
「近代日本の黎明(れいめい)期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えた」と書かれた後 「長い鎖国を経た19世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識」と続くくだりで、わたしはことばにならない思いを感じた。
これもまた、現憲法が「アメリカに押し付けられたもの」とする改憲論者とは、
意見を異にする見方である。
続けると…。
今回の皇后の「おことば」では、亡くなった親しい方々への哀悼もまた目立ったように思えた。
皇后は、「暮(くら)しの手帖(てちょう)」の共同創刊者・大橋鎮子、現憲法制定に深く関わったベアテ・ゴードン、岩波ホールの高野悦子といった人々の名をあげ、「私の少し前を歩いておられた方々を失い、改めてその御生涯と、生き抜かれた時代を思っています」と書かれた。
その静謐(せいひつ)なことばに接しながら、わたしは、「暮しの手帖」のもうひとりの創刊者、花森安治の「ぼくらはもう一度、倉庫や物置きや机の引 出(ひきだ)しの隅から、おしまげられたり、ねじれたりして錆(さ)びついている〈民主々義〉を探しだしてきて、錆びをおとし、部品を集め、しっかり組み 立て る。民主々義の〈民〉は庶民の民だ。ぼくらの暮しをなによりも第一にするということだ」ということばを思い出した。また、ベアテ・ゴードンが提出し、つい に日の目を見ることがなかった、世界でもっとも進んだ「女性の人権」条項を脳裏に浮かべた。あるいは、高野悦子の「どんなによくできた映画でも、 戦争を賛美するものや、暴力的なものには心が動かない」ということばもまた。
宮台真司、内田樹、高橋源一郎が、はからずも同じことを言っている。
天皇や美智子妃のまっとうさ、である。
たとえ「政治家と官僚の質があまりに劣化したために
天皇陛下の『公正さ』が際立ってきている」にしても。
内田氏は天皇への直訴の前提に「依存の感覚」をあげているけれど、
山本太郎の天皇との(短い言葉を交わしあうだけではない)
直接コミュニケーションへの試みは、
政治力を持たない天皇への「直訴」というようなことではなく、
天皇のまっとうさ、公正さに対する信頼と評価なのではないだろうか。
私が最初に思ったことに、もう一つ、
山本太郎はこういうパフォーマンスをする人だったんだ ! というのがあった。
この行為が政治家としてどうなのか、という問いはあるだろう。
だが、彼に政治的意図があったとしてそれがどうだというのか。
(だいたい政治家に政治的意図がなくてどうする !)
確かなのは、パフォーマンスの成否はともかく、
彼はあらゆる機会をとらえ、過去の習慣や社会通念を超えて、
自分なりの行動した、ということである。
行儀が悪かろうが、子供じみていようが、そのことを評価したい。
彼は、自分の言葉で、自分のやり方で、
社会の問題に取り組もうとしている、ということ。
高橋源一郎がこう語る人々に山本太郎も連なっていると、私には思えるのだ。
わたしは、皇后のことばを読み、それから、そこで取り上げられた人たちのことばを、懐かしく振り返り、彼らのことばには一つの大きな特徴があるよう に思った。彼らは、「社会の問題」を「自分の問題」として考え、そして、それを「自分のことば」で伝えることができる人たちだった。そして、そのようなこ とばだけが、遠くまで届くのである。
【追記 11/5】
記者会見と岩上さんによるインタビューをチラ見。
「進退は自分で決めよ」 ➾ 「辞めません」 で一件落着。
そうだよね、どう考えてもマナー違反程度の話。
これをたたけば、まじでほこり出るとこいっぱいあるもん。
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